これを読めばガジマ先生のメッセージがより深く理解できる!

ガジマ先生が聖会でされたメッセージをより深く理解するために、聖書の解説をします。

聖書の系図からみる世界情勢

2012-11-24 22:32:08 | 聖書の系図
今日週報を折っていたら、K坂さんが「北朝鮮がミサイルの発射準備をはじめたらしいよ」と言っていたので、このテーマで。

何年か前も北朝鮮が衛星を飛ばすという名目でミサイルをぶっ放しました。その時、アメリカとフランスはそのミサイル実験にイラン人の将校が数名立ち会っていたと発表しました。公平に言っておきますが、イラン側はそれを否定しています。アメリカ側の発表を信じるならイランはイスラエルまで飛ばせるミサイルかどうかの品定めをしていたわけです。
その後すぐにイスラエルは正確には覚えていませんが、イランのどこかを爆撃しました。
イスラエル側のメッセージはこうです。「イランよ、お前らが俺らの国に向かってミサイルを飛ばそうとしてるのはわかってる。もしそうしたらただじゃおかないぞ!」
実は半島問題は中東問題と関わってるわけです。

イランとイスラエルの対立は旧約聖書までさかのぼらなければなりません。

ノアには三人の息子がいました。セム、ハム、ヤペテです。
ノアは酔っ払ったときにした末の息子ハムの行為に「呪われよ、カナン(ハムの息子)」と言いました。
ハムはその後、救い主からは最も遠い系図となります。
ハム→ニムロデ→バベルの塔事件→バビロン捕囚→ペルシャ人→イラン人という流れです。

昔イランとイラクが戦争をしましたが、私にはなぜ隣国同士でしかも同じアラブ人で、国の名前も一文字しか違わないのに仲が悪いんだろうと思っていました。でもイラン人はアラブ人ではないのですね。ペルシャ人です。そして、イラク人は

セム→アブラハム→イシュマエル→アラブ人→イラク人なわけです。

ユダヤ人は言わなくてもいいですが
セム→アブラハム→イサク→ヤコブ→・・・→イエス様ですね。

救い主がでた系図ユダヤ人と救い主の系図からは最も遠い系図イラン人。
旧約聖書でもバビロン捕囚でユダヤ人を捕らえるなど因縁は深いわけです。

イランは今核兵器の開発に着手していて来年には完成するといわれています。もちろんイスラエルを狙ってるわけです。中東情勢から目が離せません。

私たちの責任 Part4

2012-11-21 23:09:21 | 神vsサタン
「シオンの子らよ。
あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。
主は、あなたがたを義とするために、
初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、
前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。」(ヨエル3:23)
「あなたがたは、
イスラエルの真中にわたしがいることを知り、
わたしがあなたがたの神、主であり、
ほかにはないことを知る。
わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」(ヨエル3:27)

ヨエル3:23-27はイスラエルの救いについての預言です。
初めの雨とは使徒行伝2章のペンテコステの日に聖霊様がくだってこられ、そこから多くのユダヤ人が改心し成就しました。
そして、再臨の前に後の雨が降り、イスラエルは民族的救いを経験することが預言されています。

イスラエルでは、4-10月は長い乾季があり、10月の終わり頃から雨季を迎えます。雨季に入ると乾季によって固くなった地を柔らかくするため激しい雨が降ります。それによって種をまくことができるのです。
(ペンテコステの日に降った雨(聖霊様)によって、多くのユダヤ人が改心し、そこから多くの福音の種がまかれましたね。)

その後、12~2月にかけて間欠的に激しい雨があり、やがて春の収穫時期になると多くの実を実らせるためにものすごく激しい雨が降ります。これを後の雨と言います。
この後の雨は初めの雨よりももっと激しい雨が降るのです。
つまり、後の雨が降る時(再臨の前)に激しい聖霊の雨が降ってきて、イスラエルは民族的救いを経験します。「イスラエルはみな救われるのです」(ローマ11:26)

まとめると
初めの雨:使徒行伝時代のリバイバル

間欠的な雨:歴史上の色々なリバイバル

後の雨:使徒行伝の時代よりももっと激しいリバイバル

となります。これはイスラエルの救いについての預言ですが、日本にもこれに近いことが起こると信じます。

日本の初めの雨は戦国時代でした。10%以上の日本人がキリシタンとなる大リバイバルを経験しました。
間欠的な雨は明治維新後、戦後でしょう。
後の雨はこれから必ずやってきます。
私たちは祈って備えたいものです。


P.S
ところで、後の雨を歌った賛美がありますが(後の雨を~、後の雨を~、主よふらせて~、ってやつです)、あれが私には何を歌っている賛美なのかさっぱりわからないのですが、誰かわかる人がいたら是非教えてください。

私たちの責任 Part3

2012-11-20 22:41:14 | 神vsサタン
主の祈りは私の信仰を劇的に変えてくれました。
私のまず第一の願いは「私が幸せになること」ではなく、「主の御名があがめられますように」と変えられました。
すると不思議なもので、あまり自分自身の問題に目がいかなくなりました。神様を第一とするということはこういうことなのかとやっと理解できるようになったのです。
そして、自分が幸せかどうか、楽しいかどうかということは私の人生であまり重要なことではなくなりました。永遠という視点からみて、そういうことはとても小さなことです。聖書にあるように私たちはこの世界では単なる旅人でしかないのです。死んでからの方がずーっと長いのです。
だから、このいのちがある限りまず第一に願うことは「主の御名があがめられますように」でありつづけたいと私は願っています。その祈りが神様から私たちに課せられている第一番目の祈りだからです。

私が今危惧していることは、最近あまりにも信仰というものが自己実現のための手段ととらえてしまってもおかしくないようなメッセージが多くあることです。
名前は言いませんが、あるアメリカの有名な牧師の本を読むと、自己啓発本に書いてあるようなことがそっくりそのまま書かれていました。
信仰というものはそんな低い次元で語られるものではないというのが私の考えです。人間中心のメッセージではなく、神様中心のメッセージが語られるべきです。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで貧しくて、盲目で、裸のものであることをしらない。」(黙示録3:17)
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)
これは繁栄しているが、イエス様が外に締め出され、イエス様が外から戸を叩いている教会の姿です。私たちが自己実現や自分の繁栄ばかりに目を向けてイエス様を外に締め出してしまっているならばそれは正しい信仰ではありません。信仰とは自己実現ではなく、神様の御心がなるよう、心を砕いていくことだと私はおもうのです。

また、リック・ウォーレンはある時、教会のメンバー全員に「教会は何を基準に運営されるべきか?」というアンケートをとったそうです。
リーダークラスのひとたちは大体「この世を神様のために勝ち取るため」と答えたそうですが、それ以外の一般信徒の人のほとんどが「自分と自分の家族のニーズを満たすため」と答えたそうです。
私たちは(特に私は)本当に自己中心的なんです。私たちはこれを神様と共にこえて行き、神様の御心の実現のために立ち上がっていきましょう。「主の御名があがめられますように」とまず祈るようになりましょう。
Part1で述べたとおり、サタンに合法的に奪われたものを私たちは合法的に奪い返していかなければならないからです。私たちはそろそろ自分中心の信仰をやめなければなりません。

聖書の誤訳 その1

2012-11-19 20:34:13 | 誤訳
ブログのタイトルとはまるで関係のない話題を。

聖書の翻訳というのはあくまでも人間によってなされるので、誤訳もあるわけです。あまり大したことのない誤訳ならそんなに問題もないでしょうが、これを私は見過ごすわけにはいかないと思っている誤訳があります。
有名な聖句であり、また、有名な誤訳でもあります。

ローマ12:2です。
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

これは誤訳です。
同じ箇所、リビングバイブルではこうなっています。

あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

どこが違っているかわかりますか?
新改訳聖書では「心の一新によって自分を変えなさい。」となっている部分がリビングバイブルでは「心を新たにすることによって、造りかえられ」となっています。
これはリビングバイブルの方が原語に忠実です。
原語では受動態命令形が使われていて、「~されなさい」と訳すのが適切だからです。
「髪を切りなさい」と言われれば、自分で髪を切らないといけませんが、「髪を切ってもらいなさい」と言われれば、床屋に行ってスタイリストに切ってもらうことになります。

心の一新によって自分で自分を変えるのではなく、心を一新して、神様に変えていただくのです。

自分で髪を切るのではなく、床屋に行って、スタイリストの前に座ることまでが私たちの責任です。髪を切るのはスタイリストの責任です。
それと同じように、心を一新する(もう少し正確に言えば考え方を変える、考える向きを変える)ことまでが私たちの責任で、私たちを変えるのは神様の責任です。

自分で自分を変えることができると信じるなら、自分の力に頼る宗教です。
私の信仰生活を振り返って、自分で自分を変えようとして何度うまくいかなかったことか。
聖化はあくまでも御霊の働きによってなされることであり、自分の力で達成することは決してないのです。

ですので、みなさん、自分で自分を変えようと頑張ることはやめましょう。クリスチャンが頑張ると「苦しいチャン」になってしまいます。
そうではなく、考え方を変えて神様の前にでて、「どうか私を変えてください」と祈る者になりましょう。神様は私たちをつくりかえてくださいます。

私たちの責任 Part2

2012-11-18 20:36:18 | 神vsサタン
私ごとをかいて申し訳ないのですが…。
私の今までのクリスチャン生活の中でみ言葉に対する深い理解を与えられることによって大きな信仰の変化というものを何度か経験してきました。
その中で最も大きな信仰の変化を遂げたのは「主の祈り」の真理をつかんだ時でした。
私は発達障害をもって生まれたため、人よりも鬱やパニック障害などに悩まされやすく、問題も多く、人よりも神様の前にひざまづいて祈ってきたつもりでした。
ですけど、私はある時はっと気づかされたのです。「私は主の祈りができない」ということを。

主の祈りの前半部分はこうです。
「天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」
(マタイ6:9-10)

私がかつて福音派の教会に通っていた時、主の祈りの最初の部分は「御名をあがめさせたまえ」でした。

私が普段祈っていたことといえば、「私の問題を解決してください」、「私の生活を祝福してください」、
「私のミニストリーを祝福してください(おかしな言葉です)」
「あの人はどうしてあんなに祝福されて私は祝福されないんですか!」
などなど…。

私の祈る祈りはいつも「私、私、私」であって「主の御名があがめられるように」とは微塵にも思っていなかったのです。そして、私の心の王座には常に私自身が座っていて、「主の御名をあがめさせたまえ」というへりくだった態度が全くありませんでした。
私は王様だったのです。私は常に王様になろうとしていたのです。私は主の御名があがめられることよりも、自分が人から認められることをのぞんでいました。御心がなることよりも自分の思いがなることをのぞんでいました。御国が来ることよりも自分の普段の生活がうまくいくことの方が大切でした。私の祈りは自己中心的でひとりよがりなものだったのです。

私は人よりも多く問題を抱えていたため、人よりも多く祈ってきたと自負していましたが、私の祈りはほとんどが失敗であったことを認めざるをえませんでした。

私は自分の心の王座からおりることを決意し、へりくだって心の王座に神様を迎えることからはじめました。「私は罪深く、汚い者ですがどうかあなたの御名をあがめさせてください」とへりくだることからはじめたのです。
そして、私自身の色々な問題をまず後回しにし、「御国が来ますように。御心がこの地でなされますように」と神様の願いがなることを何よりもまず第一に祈ることにしました。

つづく