1947/07/24
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.doより。
1949/09/07
既に一部で暗渠化の気配
追記
伸びている地図を見つけた!!!
上の航空写真と、これ↓(この小道いかにも怪しいし、奥にも不自然な空き地がある)を見て、
「2015年現在辿ることのできる遺構よりも、もうちょっと伸びていたんじゃないか」と予想していたので、当たってて嬉しい!!
昭和9年(1934年)模範新大東京全圖
それにしても水源が謎。生活排水用のただのドブ川?それにしては、下流が太すぎる気がしなくもないけど。
一応、藍染川支流(この地図にも描かれている、下水処理場まで続いてる奴ね。)に接続していたのではないかというのが今のところの仮説。
ちなみに、藍染川も谷田川も下水道として名前が残っている。
まあ、藍染川までは伸びないか。仮説というよりは個人的希望。
なんとなく、こういう流路が怪しい。
1934年から47年にかけて一部分埋め立て?
追記
江川を見つけたぞ!
東京全図 明治33年(1900年) ちなみに上が南。
しかし、2手に分かれていたのか?
現在のゴリラのところから急に太くなっていたのが気になっていたのだが、もしやこれか?
それと、「江川」という名前が出てくるのは上の明治33年の「東京全図」が今のところ最初だが、実は「明治二十五年実測東京全図」にもそれらしい線が書かれている。
明治25年の方は道かとも思っていたが・・・
それにしても、南に伸びている江川は、今追っている江川堀だと思うが、西に伸びている江川は一体・・・?
荒川区 西尾久に「江川」タイヤ商会とかあるんですけど・・・これは偶然だよね?(ちなみに、町屋2~4丁目には町屋江川町会がある。)
そして、さらに南にある「江川」「江川耕地」は何なのだ!?
追記
江川接続先は・・・石神井用水(下郷用水)・・・?
追記
江川「尻」?
追記
なんだぁ~?
水路がブチブチ切れてるし・・・そもそもこの黒細線は水路でいいのか?
追記
途中で切れてるか、書くほどではない細い水路になったのか。
追記
復興完成記念東京市街地図東京日日新聞附録(昭和5年・1930年)
大門小学校そばで切れている。満光寺付近の水路も全て書かれていない。
尾竹橋通りと電化通りは都市計画書道路だったらしい。(緑+点線のところ。昭和5年当時はまだ未成。)
追記
追記
追記
もう地図の名前からして頼れる。米軍による最初の航空写真も1947年だ。
この地図は結構dpiが高く、近寄れたので助かった。
やはり満光寺前の通りで終わっているようだ。
追記
この地図も近くまで拡大ができた。9年間、特に変化無し。
昭和31年ってまだ文字が右から左だったのか。それにお茶屋の渡しも健在とはね。
追記
「町屋の民俗」を買った。
これによれば、
・昭和34年以降の改良下水工事を契機として埋め立てられた。
・隅田川と繋がっているのであげ潮になると水が増えた。台風の時は堀の水が溢れた。
・江川堀自体は幅二間(3.6363636m)程の流れで、土手は堀の両側に一間(1.818 1818m)ほどの幅があったらしい。
・農業用水としての役目を終えてからはドブ川となってしまった。
・堀の水源は音無川、さらには石神井川の管理にあたっては・・・
・町屋は隅田川よりも海抜が高いので隅田川の水は使えなかった。
ということみたい。
音無川(石神井用水)から水を引っ張っていたということが収穫。
流路は満光寺脇からさらに、あるいは他のルートで、石神井用水まで伸びていたハズ。西か南かは判らないが。
昭和34年以降の情報は使えない。
埋め立ての理由が衛生問題だったようだ。
堀と土手で約5.4mもあった?現在の自転車1台分の姿からは想像も付かない。
そして、「町屋においてもこの音無川の水を利用した江川堀が主要な水路として活躍していた。」