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4章 地球の第1から第3文明-4/7:地球人のルーツ(PrejectnVega)

2016-01-15 | 宇宙種族

Project Vegaさんより http://www.project-vega.org/2014/03/5_30.html 

(1章序文より抜粋) この文章は様々な専門家が、インターネット、テレビ、本などで断片的に論じている出来事を集め、年代別に並べたSFである。可能な限り確実性の高い物的証拠やデータを優先的に集めているが、偽情報やノイズの判断が難しいこともある。特にチャネラーのチャネリングに頼った文章に関しては、本当かどうかは判断が難しい部分なので、この内容を鵜呑みにするのではなく、最終的には自分の頭で考え、確認して、正しいかどうか判断する必要がある。

 
 4章 地球の第1から第3文明 : 地球人のルーツ
 
(つづき)
 
ベガ人の2度目の地球入植---------------------------------------------------------------------------------

 この頃、ベガ系種族の船が一隻、再び地球の地表に降り立った。ベガ星人が再び地球に戻ってくるまでには、長い月日が経過した。ベガ星人はタイムマシンで、地球に何が起きたかを知ると、再び地球に人々を入植させようと準備を始めた。そして絶え間ない雨と氷や、その他の方法で地球を水で浸し続け、再び生命体が繁殖できるような環境を創り出した。そして再度、人間と動植物が運び入れられ、地球には二度目の命が与えられた。地球は太陽に対してこれまでとは異なる新しい角度に収まったようであった。太陽光は、今度は地球という惑星に障害をもたらさないだろうと思われた。
 当時ベガ星人は、動物と同じ生存本能だけで生きていた純粋地球人種と遺伝子的な関わりを持つことで、高度な霊性と知性を持つことのできる新しいクロマニョン人種を誕生させた。クロマニョンとは、遺伝子操作を受けて誕生した人種、すなわちクローン人種のことであり、現在の地球人類の先祖となっている。宇宙生命体が新しい地球人種を創造した場所は地球全土に及ぶが、当時の地球は、今の五大陸の地理ではなく、地殻変動により気候や自然環境も大きく変化していた。当時、大陸と陸続きで四季に恵まれた日本列島は、地球の生態系上、最も恵まれた環境で、理想郷のモデルを創るには最も適した場所であった。宇宙生命体によって創造された5色人種の中で、世界の東西南北をまとめる人種として、黄色のアジア人種が日本列島で創造された


ルマニア文明-------------------------------------------------------------------------------------------------

 ベガ星人が築いたこの二番目の文明はルマニア(Lumania)と呼ばれ、科学技術の発展という面においては現在の地球の文明よりも遥かに進歩していた。このルマニア文明の名称そのものは伝説のなかで語り継がれ、後世でもその名称が使われたことがあった。

 ルマニアでは「音」が極めて効果的に利用され、それは治療だけでなく戦争にも用いられ、移動用の乗り物の原動力として、また物体を動かすことにも音が使われていた。音は重いものを大量に運搬する手段でもあったのである。
 この二番目の文明であるルマニアの中心的な場所は、現在のアフリカオーストラリアがある地域に集まっていた。もっとも、当時は気候だけでなく、地表の陸地の占める位置も現在とはまったく異なっていた。当時の大陸の集まり方は、地軸移動によって入れ替わった両極の位置と関係していた。しかし相対的に見て、その文明は局地集中型であり、彼らの文明を少しずつ広げて行くといった拡大の試みは行なわれず、内側へと成長する性質を持っていた。
 そして一方で地球上には当時、広範囲に散在する非組織的な未開文明が同時に存在していた。しかしルマニア文明は、そうした未開文明をあえて「啓蒙」しようとしなかっただけでなく、総力をあげてそれらの文明が進展していくことを阻(はば)もうとした。こうした状況は長い間続いた。
 このルマニア文明を構成していた人々の大半が、以前に栄えた文明の非主流派集団であった。それ以前の集団に生きた人々のほとんどは、この物理的宇宙ではなく別次元の領域で存在し続けることを選択したのだが、二番目の文明を築いた人々は地上の生活に格別な愛着を持っていたことと、それまで関与していた体験的試みをさらに推進させたいと考えたために、別の存在レベル次元に移行することができたにもかかわらず、地球に残る選択をしたのであった。
 地球に残った彼らは、前回の文明の崩壊後から再び未発達な文明としてゼロから始めることには関心はなく、そこで過去の文明から得ていた知識のほとんどが彼らの天性となり、そのため様々な技術発展のプロセスを物凄いスピードで達成していくのであった。
 このルマニア文明の初期にあった彼らがとりわけ関心を向けていたのが、破壊行為に対する防御機能が生まれながらに備わった人類を創り出すことであった。なぜなら彼らの平和願望は、現代人のいう「本能」に極めて近いものになっており、そのために彼らの身体機能は、脳が強い攻撃性の信号を送っても肉体はそれに反応を示さぬように変化してしまっていたからであった。現在でも特定の個人にこの性質の痕跡を見て取ることができ、そうした人は、自分が他へ向かって暴力行為であると見なすことを行いそうになると、その前に気を失ったり、自分の身体を痛めつけようとさえする。
 そうした理由でこのルマニア文明の人々は、彼らの周囲に暮らす未開の土着の人々の文明化を望まず、そのままであることを望んだのであった。しかし一方で彼らは自分たちの集団から人を送り出し、土着の人々とともに生活したり通婚したりということも試みており、そうすることで自分たちの「種」が持つ「そうした生理機能」を平和的に少しづつ変容させていこうという願望があった。

 ルマニア人は過度に用心深く、大きく拘束された精神と肉体を持つ存在へと変化していくことになる。そうした状態にあっては、「生物としての身体が生き抜くために」当然必要な事柄があらゆる面において制約された。彼らの文明の知的進歩はめざましく、その技術はとどまるところを知らず、次々と先端技術が推進されていった。その一つとして、自分たちの存続のために他の生き物を犠牲にする必要をなくすために、人工食が開発されていった。
 彼らはまた同時に、自分たちの環境も損なうことなく、もとのままを維持しようとした。そして現代人がたどっているような蒸気機関車の時代や自動車の時代などの段階を経ることなく、彼らは文明の初期段階から「音」の技術開発に熱中していた。しかしながら彼らが用いていたのは、耳で聞くことの出来ない「音」であった。
 ルマニア人は非常に細身で、肉体的には虚弱な人々だったが、霊的には聡明か、まったくそうでないかのどちらかであった。すでに述べた彼らの先天的制御機能が、あらゆる方面で彼らの身体的エネルギーの流れを妨害していたために、本来極めて高度に発達していたはずのテレパシー能力にまで影響が及んだ場合もあった。 

ルマニア人の偏った在り方--------------------------------------------------------------------------------

  ルマニア人は自分たちの文明圏の周囲にエネルギー場を張り巡らせていたので、他の集団から干渉を受けずに済み、孤立して生活していた。よって彼らが自分たちの技術を用いて、そうした他の未開の集団を攻撃したり、破壊したりということはあり得ないことであった。しかしルマニア人のなかにも、自分たちの行なってきた実験的試みが、必ずしも成功しているとは言えないことに気づく人々が徐々に増えていった。その結果、かつて物理的宇宙にある別の惑星体系へ移住して行った自分たちに先駆けて地球で栄えた文明の人々と合流するために、肉体的な死をきっかけとしてルマニアを去る人々もいた

 そしてルマニア人のいくつかの大集団は、それまで住み慣れた都市を捨て、自分たちを包囲して張り巡らせていたエネルギー場を粉砕し、いくつもの比較的未開な人々の集団に混ざることで、通婚して子孫を残したこうしたルマニア人たちは暴力や破壊行為に耐えられず、未開の人々に対して戦うという同等な行為を持って応戦することができなかったために、彼らはみな早くに殺されて死んでいった。そうした中で彼らが自らの子孫に望んでいたことは、未開の人々との異種婚による突然変異の結果、破壊行為に走る傾向を持たないまま、なおかつ自然な反応を阻止してしまう彼ら本来の神経的制御機能が取り除かれることであった。

 その後、突然変異による子孫たちのうちほんの一握りの人々は後に小集団を作り、それに続く世紀には動物の大群を引き連れてその地域を移動するようになっていた。彼らと動物たちは相互によく助け合い、半人半獣にまつわる古い伝説の多くは、こうした過去の結びつきの記憶が長い年月を経て語り継がれたものでもある。彼らは、初の偉大な文明のまことの生き残りとして、自分たちの起源を潜在的な記憶として常に心の奥深くに強く留めていた。

 彼らは技術面では急成長したが、一方で彼らが目指していたことが創造的潜在能力の建設的な発達というよりはむしろ、暴力破壊行為の回避ばかりであったために、彼らの体験は著しく偏っていたのである。ルマニア人は破壊的行為をあまりにも怖れていたために、身体組織を通して 自由に表現することも是認できないところにまで追いやられていた

 そのような理由からルマニア人の文明はしごく活力に乏しいものであっ た。つまりそこには攻撃性が存在しなかったからではなく、エネルギーの流れや表現の自由が、肉体のレベルにおいて自動的に止められていたからである。地球上に暮らすものであれば、他からの暴力破壊行為は避けられないものであることを彼らはよく理解していた。しかしそのことを個人が独自のやり方で学ぶ権利さえも否定していたために、個人が自分なりに攻撃性を建設的と見なしうる行動へと変容させていく学びが阻まれていたのである。この点に関しては、自由意志が放棄されていたと言える。

 母親の子宮から外に出た子どもは、その後しばらくは病気から身を守る免疫機能が働くように、生後間もない子どもは、霊的な災いからも短期間は守られている。また子どもは自らの過去世での生活やゆかりの場所などに関する記憶を慰みとして持ち続けている。同じくルマニア人の場合も、何世代かにわたる潜在意識の奥深くに存在していた、遥かな太古に発展し滅びた自らの文明の記憶に支えられていた。しかしそうした記憶も徐々に薄れていき、ルマニア人は他からの暴力破壊行為からは自身を守り抜いてきたのだが、恐怖心に関しては同じようにすることができなかったのである。

  こうしてルマニア人は人類にとってごく日常的な恐怖の数々に翻弄され、破壊を伴う自然の力にさえ物理的な対策を講じることができず、彼らのなかではそうした恐れは益々過大視されていった。何かに襲われた場合、彼らには逃げる以外に術はなかった。「戦うか、逃げるか」という選択は、ルマニア人にはなかったのである。つまり彼らにとって唯一の手段が「逃避」であった。 

ベガ星人の第二次地球入植時に築かれた巨大都市クスコ------------------------------------------

 ルマニアの巨大都市クスコにはどこにも角というものがなく、その全体像は羽ばたく一匹の蝶に似ていた。また周辺の森がその美しさをいっそう際立たせるので、その都市は驚くほど煌(きらめ)いて見えた。ここはクザクという名前の街だったが、時が経つにつれて、その街はコスコと呼ばれるようになり、やがてクスコへと変化した。ここはベガ星人の第二次地球入植時に築かれた、地球への入港センターであると同時に、当時の3大都市の一つでもあった。このクザクの街でベガ星人によって興された地球初の化学産業は、宇宙においても屈指の規模を誇るものだったのである。 

ルマニア人の神の象徴--------------------------------------------------------------------------------------

 ルマニア人の神の象徴は、力が強くて筋骨隆々とした男性の姿をしており、自らの力で自分たちを守れなかったルマニア人を代わりに守ってくれる存在であった。この神はルマニア人の信仰と並行して発展していき、自らが表現し得なかった資質を彼らはその神に投影したのである。
 ルマニア人にとっては自然に対する恐怖は並々ならぬものがあったために、人間を育んでくれる自然との間に疎外感や隔絶感が生まれた。ルマニア人は地球上の破壊力から身を守ることがかなわなかったために、地球を信頼することができなかったのである。

ルマニア人の地下都市--------------------------------------------------------------------------------------

 ルマニア人の並外れた科学文明は、主に地球内部において用いられた。よって彼らはそうした意味では最初の穴居(けっきょ)人類であったとも言える。彼らは地下都市から地上へ出るときそうした洞窟を通り、その洞窟は未開の原始人たちが身を潜める隠れ家としても機能しており、ルマニア人の地下都市に至る道であることも少なくなかった。そうした洞窟や通路は、ルマニア人の都市が廃墟と化した後、遥かな歳月が経ってから、未開の土着民によって発見された。
 現代人が現在、石器時代と呼んでいる時期に祖先として見なしている穴居(けっきょ)人類たちが住んでいたのは、それらはしばしば自然の洞窟ではなく、後方がなめらかな壁になった通路へと繋がる人工的な洞窟であり、それらの多くはかつてルマニア人が暮らした廃墟だった。穴居人類の手になる石器の中には、彼らがそうした洞窟で見つけた道具の模倣であり、それを歪めた作りのものもあった。

 ルマニア文明は高度集中型の性質を持ち、他を征服したり、領地を極端に拡大したりはしなかったが、自らの居留地を設け、そこから地上に現れては土着民たちに関する情報を数世紀にわたって収集し続けた。居留地として地下に建設された大規模な地下都市は、言うまでもなく見事な設計がなされており、非常に複雑な地下トンネルの連結網によって繋がっていた。ルマニア人は審美眼のある人々であったので、壁画には線描画などが施され、地下の深い路地には彫られた塑像(そぞう)が並べられていた。
 中には、エスカレーターに似たさまざまな設備も利用されており、その中には歩行者を運ぶものや、物資や貨物を運ぶものもあった。彼らの居留地はたくさんの地域に散在していたが、その相当数が現在のスペイン、そしてピレネー山脈(スペインとフランスの国境地帯にある)と呼ばれている地域にあった。それにはいくつかの理由があったが、その一つはその山岳地帯に住んでいた巨人人種と関係があった。ルマニア人に特有の臆病な性質のゆえに、そのあたりの居住地に駐留することを歓迎する者はおらず、最初から一時的な任務ということで、中でも飛びぬけて勇敢なルマニア人がその地に赴(おもむ)いた。

 洞窟は外界への出入り口としての役割を果たしており、行き止まりと思われる洞窟の場所にはしばしば、「外側からは不透明で見えないが、内側からは透けて見える」素材を用いて作られていた。こうした洞窟を自然の住処として利用していた未開の人々を、ルマニア人は危険をおかすことなくこうして観察していたのである。

ルマニア人のテレパシー能力-----------------------------------------------------------------------------

 ルマニア人は念じることで、一定の振動周波数にそって思考を投射することができた。これは説明することが困難なすぐれた技であり、しかもその投射した思考を特定の地点においてさまざまな方法に置き換えることができた。たとえばそれらは、ある形状や色彩、あるいは特定の映像として表現できた。また彼らの言語は現代人には理解できない極めて特異なものであり、それは投射の調子や振動周波数や間の取り方などの変化が、あまりに緻密で複雑なものであった。
 ルマニア人は現代人の耳では捉えられない音も感知することがでた。ルマニア人特有の破壊行為への恐れは、それゆえに身体的メカニズムのすべてを驚嘆に値するほど鋭敏(えいびん)にしていた。それほど彼らは常に周囲に敏感でなくてはならず、用心深くなければならなかったのである。
 実際、ルマニア人の意思伝達は彼らの美点の一つであった。また彼らがそれほどの伝達手段を持つに至ったのは、ひとつには彼らが非常に破壊行為を怖れていたために、絶えず注意深くある必要性が生み出したものであった。彼らは常時、大規模な血縁集団をつくって生活していたが、これも防御の必要から見た当然の成り行きであり、そうした理由からも、地球内部に住んでいた人々はかなり居心地の悪さを感じていた。彼らは限られた人数ではあったが、いずれも自分たちの文明の主要地域からはすっかり孤立していた。
 しかしそれゆえに彼らのテレパシー能力は非常に発達し、さらに頭上にある地上世界と自分たちとの間の微妙な変化が察知できた。地表を通して地上を観察する目的で、数多くのいわゆるのぞき穴が設けられていた。また地上だけでなく、天体や星座を極めて正確に撮影することのできるカメラも設置されていた。ルマニア人が地殻や天然ガス層について精通し、完璧な記録を保持していたことは言うまでもなく、地震や断層に関しては常に注意深い警戒と予知を怠らなかった。ルマニア人は地中で生きるという選択をしたが、彼らはそれをかつて地球を後にした如何なる人種にも劣らず、誇らしく思っていたのである。

ルマニア人の芸術-------------------------------------------------------------------------------------------

 ルマニア文明には、線画や色彩画を用いた意思伝達の方法が存在していた。彼らにはそうしたことにおいて、極めて特異な情報チャネルというものがあったのである。ルマニア人の芸術は多くの点で、現代人のものよりも格段に優れており、さまざまな芸術形態が現代人には理解しがたい方法で互いに繋がりあっていた。その概念自体がまったく未知のものであるので、説明することも極めて困難である。
 たとえば、非常にシンプルな動物の絵などを想像すると、現代人にはそれは単なる動物を描いた絵に見えるが、ルマニア人にとっては、絵に表された線とは目に見える1本の線以上のものであり、ほぼ無数に識別される特徴によって、ただの線と思われるものが特定の音としても知覚され、それが自動的に翻訳された。その絵を見た人は望めば、絵の視覚的イメージに捕らわれる前に、音のほうを翻訳することもできた。よって単なる動物の絵から、その動物の歴史的背景についてのすべてが語りつくされるのを一瞬のうちに理解することもできた。

 直線や曲線や角度のすべてが、絵画の中で客観的な役割を持ち、音の高低や長短、音色などの極めて複雑な一連の多様性を表現しており、それらは「不可視の言語」と呼ぶことができる。線と線の間の距離は、音の感覚や時間の感覚として翻訳され、線画や彩色画においては、色は意思伝達に特有の言語表現として用いられた。
 現代人にとっても色彩は多少そうした性質を帯びているように、色は感情の度合いの変化を表していた。ルマニア人の絵画は大きさによっても独自のメッセージ性を持ち、細部における表現の緻密性を備えている一方で、意図を及ぼす範囲という点では絶大なる自由が保障されていた。このような絵画は、極めて濃縮されたものであった。

 こうしたルマニア人の絵画的技巧は、のちに三番目の文明の人々によって発見されており、その結果彼らによる模倣絵画の片鱗は今日まで残っている。しかしながらそれらの絵画のメッセージを解釈するための鍵はもはや完全に失われており、現在目にするものはほとんどが、かつての壮大な多次元的要素の欠落したものでしかない。たとえ彼らの絵画が残っていても、現代人にはそれを甦らせることはできない。現存する洞窟の中でも、特にスペインやピレネー山脈地方の特定の地域やアフリカにあるかなり古いものは実は自然のものではなく、人工的な建造物なのである。

ルマニア人の音によって巨大な塊りを動かす技術----------------------------------------------------

 ベガ星の科学技術を継承するルマニア人は巨大な塊りを動かすことができた人々であった。彼らは先に述べたように、「音」に精通しており、極めて高度な技術で音をコントロールすることができたために、実際に「音」による物質の運搬ができた。彼らは最初の地下トンネルを音の技術を用いて掘削し、本来はほとんど自然洞窟が存在しなかった地域に、その方法を用いていくつかの洞窟を築いたのであった。
 その洞窟の壁に描かれた絵画の多くには、高度に様式化された情報が現されており、それは現代社会で用いられる看板と似た意図のようでもあり、その地域に棲む動物などの生き物を描写したものであった。そうした絵画は、一般的に現代人が言うところの歴史に実在した初期の穴居人類によって、後に手本とされたのであった。

 ルマニア人は音を聞くと、即反射的に、しかも驚くべき鮮明さで三次元的な制約を越えてイメージが頭に築かれ、それが聞き手の内深くに取り込まれていった。つまり「音」による驚くべき識別が行なわれており、音には反射的に見事なイメージを創り出す力があった。ルマニア人には内なる視覚と外なる視覚という区別があり、会話の席にあって意思疎通がより明瞭になるように、会話中に目を閉じることは彼らにとってごく自然な行為だった。それによって言葉によるやりとりに伴って次々に変化する内なるイメージを楽しんでいたのである。

ルマニア人の知覚機能--------------------------------------------------------------------------------------

 ルマニア人は学習速度の速い人々であった。彼らは一つの感覚回路だけでなく、多数の感覚を同時に用いて情報を得ることができた。しかもそうした情報を反射的に教え子たちに刻印することができたために、彼らにとって教育は心躍るプロセスだった。しかし彼らのそうした資質と知覚機能のゆえに、そこに本来の彼らの弱さが生み出されてしまうことになった。
 つまりルマニア人は自ら果敢に立ち向かい、破壊的行為に対する自らの恐怖心を克服することができなかった。そしてこのことは当然のように、外に向かう特定の積極的性質をも厳重に阻止するという事態を引き起こしていた。そうした領域ではエネルギーの流れが妨害されていたために、実際にルマニア人には力漲(みなぎ)る性質だけでなく、力の感覚までもが欠如してしまっていた。これは肉体的な力のことだけではない。しかしルマニア人のエネルギーは、あまりに多くの部分が破壊行為の回避に向けられていたために、普通の積極性でさえも、それ以外の分野にエネルギーを注ぐことができなかった。

ルマニア文明と現代文明のつながり---------------------------------------------------------------------

 ルマニア人の霊的遺産は現代人の一部となっている。ルマニア文明の前後の二つの文明は多くの点で、ルマニア文明以上に成功を収めたと言えるが、ルマニア人の試みの背景にあった頑なな意図は極めてはかないものであったことも事実である。しかしながらルマニア人は、自らの現実において破壊行為への問題を解決することができなかったが、彼らがあれほど強く抱いていたその願望は、実は現代人の現実における霊的領域において今も鳴り響いている。
 過去・現在・未来というものは今この一瞬に集約されるという時間の真の本質のゆえに、現代人の見地から「かつて」存在していたルマニア人は、実は今、現在も同じように存在している。現代人の霊的領域にたびたび「浸透してくる思い」というものがあるが、これは偶然に起きているものではない。そこには一見極めてかけ離れたように見えるものの間にある種の調和関係が生じており、それらの間を「思い」が超えられるような効果がもたらされたとき、そうした「思いの浸透」が起こる。よって現代文明とルマニア人の文明との間には、そのようにしてこれまでにも「思いの浸透」が起きているのである。
 これまでにさまざまな古代宗教が、ルマニア人の思想を取り上げてきたが、その一例が「荒々しい神」の姿であった。ルマニア人はその姿に彼ら自身の力や権力や攻撃性を投影してきた。彼らは、「攻撃を仕掛けないというだけでは自分たちを守りきれない」という状況下で、この神が自分たちを守ってくれるようにと期待を込めたのであった。彼らの「浸透してくる思い」には、現代人にとっては未だ現在準備段階にあるものもあり、その中にルマニア人の芸術やコミュニケーションの概念を、初歩的な段階ではあっても現代のなかに見出すことができる。

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