世界の人口は今69億、日本の人口は1億2千万人。
その中で1人の人間が一生で出逢う人の数は職業や環境によって差はありますが3万人くらいだと言われています。
諸説ありますが何らかの会話を持つのは3000人、親しくするのは300人とも言われます。
さらに親友と呼べるのは3人だとか。
まあネットの情報なので、正しいかどうかはわかりませんが、そこは重要ではありません。
実生活で出逢う人は、私の顔を知っています。
声を知っています。
大体ですが、性格を知っています。
ごく一部の人ですが、過去を知っています。
私の指と爪の形を知っています。
私が乗っている車を知っています。
ごく一部の人ですが、それに乗ったことがあります。
そして、私がどのような運転をするか知っています。
さらにごく一部の人ですが、私の涙を見たことがあります。
そして五指に足りますが、私の心臓の鼓動を知っています。
自己分析はこれにて御仕舞い。
人が一生で出逢う人間には限りがある。
そこでクロスオーバーする人とは、出逢った意味があるんだろうなぁ。
そのまま遠く届かないところに行った人もいれば、小さい頃、又は学生時代からの長い付き合いの人もいる。
とは言え、実際に会って話をするとなると、そう機会は多くない。
メール、LINE、Facebook、Twitter。
あらゆる情報手段が発達しても、実際に会って話をする機会は多くない。
実際に会って話をするという行動に、結構多くの意味があると思う。
そこから得られる情報量が、先に述べた「あらゆる情報手段」の比ではない。
そこにいるという存在感。
それと安心感というか、うまく言えないな。
「あらゆる情報手段」では確認できないことだらけだ。
それとは反対になる、その「あらゆる情報手段」のひとつ、ネット上だけで知り合った人は、ある日突然連絡が取れなくなることが多い。
まるで存在が無かったかのように。
アカウント消せば、誰に知られることもなくネット上の存在を消すことができる。
顔も知らなければ、声も知らない。
連絡先も、性格も、その後の行方も。
安易で簡単でまるでリセットボタンを押すかのように。
私もそうしようと思えば、そうできる。
でもそうしない。
自分の存在を限りなく消す行為は、極めて簡単だけど、それって自分を否定しているようにも思える。
自分から外部への情報を遮断。
自分の周りに壁と溝を作って、AT(Absolute Territory )フィールド全開なわけだ。
その効果は絶大で、次第に近くに居た人間を、ポイッと、またはス~っと捌いている。
独りになりたくてそうしてるのに、独りが寂しいという矛盾。
それは私の実体験に基づく。
やがて気づく。
なんの意味も無いってことに。
そして気づいた時には、周りに誰も居なかったりして…
でも思い返してみると、その壁をドンドン叩いていた人もいれば、溝をサッサッと埋めようとしていた人がいた。
それはその矛盾に気づいてくれた人だ。
その時思うのは、
「あぁ ここに居ていいんだな」
という存在の価値観。
自分からその壁と溝を消していくと、まだそこに居てくれる人が…
現実社会でも同じことが言える。
そして人生の方向修正。
わがままでいいじゃない。
甘えてもいいじゃない。
「私は弱い人間だ!」
「独りじゃ何もできない!」
「心が痛い!」
「誰か…助けてくれッ!」
「あふれだす悲しみから、助けてくれッ!」
正直な気持ちが出たときに、遠慮無く差し伸べてくれる人の手を掴めばいい。
頬をつたう心の粒は枯れない。
いくつになっても。
人の出逢いは、欲しいと思っても得られないもの。
またワイン同様、熟成に時間を要する人間関係もある。
すべての人と仲良くする必要はない。
苦手な人もいるから。
ちょうどいい距離感もある。
それはやがて淘汰される。
淘汰されて、残った人を大事に。
そしてできるなら、実際に逢って話すといい。
あなたでさえ、ひとりで生きているわけではないのだよ。
そしてまた0から1へ歩き出せばいい。
それでいいんだ。
それで…
その中で1人の人間が一生で出逢う人の数は職業や環境によって差はありますが3万人くらいだと言われています。
諸説ありますが何らかの会話を持つのは3000人、親しくするのは300人とも言われます。
さらに親友と呼べるのは3人だとか。
まあネットの情報なので、正しいかどうかはわかりませんが、そこは重要ではありません。
実生活で出逢う人は、私の顔を知っています。
声を知っています。
大体ですが、性格を知っています。
ごく一部の人ですが、過去を知っています。
私の指と爪の形を知っています。
私が乗っている車を知っています。
ごく一部の人ですが、それに乗ったことがあります。
そして、私がどのような運転をするか知っています。
さらにごく一部の人ですが、私の涙を見たことがあります。
そして五指に足りますが、私の心臓の鼓動を知っています。
自己分析はこれにて御仕舞い。
人が一生で出逢う人間には限りがある。
そこでクロスオーバーする人とは、出逢った意味があるんだろうなぁ。
そのまま遠く届かないところに行った人もいれば、小さい頃、又は学生時代からの長い付き合いの人もいる。
とは言え、実際に会って話をするとなると、そう機会は多くない。
メール、LINE、Facebook、Twitter。
あらゆる情報手段が発達しても、実際に会って話をする機会は多くない。
実際に会って話をするという行動に、結構多くの意味があると思う。
そこから得られる情報量が、先に述べた「あらゆる情報手段」の比ではない。
そこにいるという存在感。
それと安心感というか、うまく言えないな。
「あらゆる情報手段」では確認できないことだらけだ。
それとは反対になる、その「あらゆる情報手段」のひとつ、ネット上だけで知り合った人は、ある日突然連絡が取れなくなることが多い。
まるで存在が無かったかのように。
アカウント消せば、誰に知られることもなくネット上の存在を消すことができる。
顔も知らなければ、声も知らない。
連絡先も、性格も、その後の行方も。
安易で簡単でまるでリセットボタンを押すかのように。
私もそうしようと思えば、そうできる。
でもそうしない。
自分の存在を限りなく消す行為は、極めて簡単だけど、それって自分を否定しているようにも思える。
自分から外部への情報を遮断。
自分の周りに壁と溝を作って、AT(Absolute Territory )フィールド全開なわけだ。
その効果は絶大で、次第に近くに居た人間を、ポイッと、またはス~っと捌いている。
独りになりたくてそうしてるのに、独りが寂しいという矛盾。
それは私の実体験に基づく。
やがて気づく。
なんの意味も無いってことに。
そして気づいた時には、周りに誰も居なかったりして…
でも思い返してみると、その壁をドンドン叩いていた人もいれば、溝をサッサッと埋めようとしていた人がいた。
それはその矛盾に気づいてくれた人だ。
その時思うのは、
「あぁ ここに居ていいんだな」
という存在の価値観。
自分からその壁と溝を消していくと、まだそこに居てくれる人が…
現実社会でも同じことが言える。
そして人生の方向修正。
わがままでいいじゃない。
甘えてもいいじゃない。
「私は弱い人間だ!」
「独りじゃ何もできない!」
「心が痛い!」
「誰か…助けてくれッ!」
「あふれだす悲しみから、助けてくれッ!」
正直な気持ちが出たときに、遠慮無く差し伸べてくれる人の手を掴めばいい。
頬をつたう心の粒は枯れない。
いくつになっても。
人の出逢いは、欲しいと思っても得られないもの。
またワイン同様、熟成に時間を要する人間関係もある。
すべての人と仲良くする必要はない。
苦手な人もいるから。
ちょうどいい距離感もある。
それはやがて淘汰される。
淘汰されて、残った人を大事に。
そしてできるなら、実際に逢って話すといい。
あなたでさえ、ひとりで生きているわけではないのだよ。
そしてまた0から1へ歩き出せばいい。
それでいいんだ。
それで…