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映画・演劇のレビュー

劇団態変『ファン・ウンド潜伏記』

2009-09-26 09:08:46 | 演劇
 余談だが、僕がこの芝居を見た日の観客に、とあるひとりの老人がいた。彼は初めて何も知らずに友人に誘われるままこの態変の公演を見に来たようだ。そして、あまりの強烈さに耐えきれず、劇場を中座したらしい。彼の混乱ぶりから、改めて身体障害者による表現は演劇にとって武器でもあるが、観客にとっての凶器にもなるということを思い知らされる。

 途中の休憩時間に戻ってきた彼は、舞台監督の塚本さんを捕まえて「痛ましくてとても見ていられない」と訴える。正直な人だ、と思う。僕も初めて態変を見たとき同じような感想を持った。態変の身を投げ出すような身体表現を初めて見たなら、驚きよりもまず、痛ましいと思う。さらにはそこに恐怖すら感じてしまって頭が真っ白になるのも仕方ない。しかし、そんな表面的なところに留まるのではなく、そこからさらに先に目を向けて欲しい。

 この老人はその後、塚本さんに説得されて、2幕からもう一度テントに戻ってきた。そして、最後までこのステージを見ていた。彼は最終的にどんなふうにこの芝居を見たんだろうか。そして、どう思ったんだろうか、それがとても気になった。

 さて、本題に入ろう。この芝居は、まず何よりも、とても美しい作品だ。胸が痛くなるような物語がこんなにも心に沁みてくるものになっているのが、うれしい。態変による身を投げ出すような身体表現によって提示される叙事詩は抑圧された民族の歴史と、そこに流れる熱い想いを魂の根底から絞り出すように描き出す。

 とても透明感溢れる清冽な叙景詩として、この叙事詩を語りあげる。そこがこの作品の魅力である。実に繊細なタッチで見せていく。無言劇という態変のスタイルはここで描こうとするドラマと見事にシンクロする。身体表現により見せるドラマはストーリーを語るのではなく、主人公ファン・ウンドが生きた時代、彼が見た世界のありようを表現する。役者たちのボディーランゲージは饒舌ではなく、とても寡黙だ。抑圧された人たちの想いを恨み辛みとして過激に過剰に絶叫して見せるのではなく、静かに浸透していくように見せることに成功した。

 歴史の中で、翻弄され、流されて、生きていく。彼が立ち上がり、時には倒れ、時には放浪する。そのいくつもの断片が流れゆくように描かれる。野外劇であることを生かして見せた日本やってくるシーンのスペクタクルからラストまでは一気に視覚的な仕掛けを多用してみせる。大阪城公園のグランドを広大な海に見立ててその空間の中、船がやってくる。ファン・ウンドと彼の妻が下船するまでを一息に見せる。ここから日本が敗戦し、朝鮮戦争、そして唐突な死まで。さらにはエピローグの水のアーチ、海の彼方に立つファン・ウンドの姿までが怒濤のように描かれる。

 もちろんこれはただ美しいだけではない。生きることの痛みを感じさせる。そして、それでも生きていくという強い意志を感じさせる。だからこんなにも感動的なのだ。野外劇であることの特性を生かした様々な仕掛けを用意しながらも、そこに足を掬われたりはしない。とても静かで、流れるようなタッチで壮大な歴史ロマンを作り上げる。

 押しつけがましい部分はなく、自然に、生きていくこと、生き抜くことの根元的な力を指し示す。歴史の表に出て活躍した人物ではなく、歴史に翻弄されながら、でも、自分の意志を貫き、生きた。これはそんなひとりの男へのレクイエムである。


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