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映画・演劇のレビュー

『ちょっと思い出しただけ』

2022-02-23 13:10:15 | 映画

最近こういうさりげない映画が増えている気がする。映画だからと、大仰にドラマチックに語ろうとするのではなく、映画なのにさりげなく、どこにでもあることを、さらりと描く。そんな映画だ。映画が特別ではなく日常になりつつあるのだろうか。(まぁ、作品自体が素晴らしかったならそんなこと、どうでもいいのだけれど。)これは等身大の自画像を見ているような気分になる映画だ。

そして、それだからこそ、これはとても小さな映画だ。だけど、そこにあるかけがえのない思い出は自分たちが生きてきた軌跡(奇跡!)であり、そのことを誰よりも自分は大事にしたいと思う。そんな気分にさせられる。誰かの人生の一コマではなく自分だけの人生がそこにはあるからだ。他人にとってはどうでもいいようなことだろうが、自分にとっては愛おしい。そんな「どうでもいいようなこと」がなぜか心に染み入るのは、誰もがそんな想いを抱いて生きてきたからだろう。

ある日、それは彼(池松壮亮)の誕生日の日だ。7月26日、2021年。映画はその日の朝から始まる。そして、その日の夜、彼女(伊藤沙莉)は彼の姿を一瞬垣間見る。でも、声はかけない。公演がはねた座・高円寺の舞台で踊る彼の姿を覗き見ただけ。そこから遡る6年間のあの日が描かれていく。2020年の7月26日もコロナ禍にある。2019年、18年、17年。彼が怪我をして踊れなくなり、ふたりは別れる。幸せだった日。付き合いだした頃。さらに遡り、出会いの日まで。昨年の『花束みたいな恋をした』や『ボクたちはみんな大人になれなかった』と同じ。(これなんかまったくこの映画と同じタイプの映画だし、ヒロインも同じ伊藤沙莉だ)

お話は幾分感傷過多かもしれない。そういうところは松居大悟監督の昨年の作品『くれなずめ』にも似ている。あれは友人の死を描いたが、これは恋人との別れ。だけど、2本ともドラマチックになりそうな話を敢えてそうはさせない。でも、感傷はダダ洩れで、恥ずかしくなるほど。でも、そこも確信犯だ。自分たちの生きた時間を愛おしむ。それくらいに誇らしいし、大事だったからだ。でも、それをちょっと思い出しただけ、というタイトル通りのさりげなさで描いた。これは彼らにとってはかけがえのないことだろうが、客観的に見ると、特別なことなんかではない。どこにでもあるお話だ。でも、それでいい。

彼女は今では結婚もして子供もいるし、幸せだ。(たぶん。)だけど、あの頃のことは忘れられないし、それはかけがえのない時間だったし、とても大事な日々だった。一生忘れない。それでいいだろう。彼はダンサーの夢をあきらめて今は照明の仕事をしている。だけど、今も舞台から離れられない。(もう踊れないけど。)これはそんなどこにでもあるようなささやかなお話だ。そしてそこに散りばめられた小さなエピソードの集積である。

タクシードライバーの女性が主人公で、ジム・ジャームッシュの『ナイト・オン・ザ・プラネット』が下敷きになっている。これは明らかにあの映画にインスパイアされた作品である。だけど、もうひとつの『ナイト・オン・ザ・プラネット』ではなく、ここにはあの映画にも通じる普遍的な人々の姿が描かれてある。地球上のどこにでもある小さなお話という共通項だけで、ふたつの映画はつながる。これはある意味であの映画の長編版(あれは、タクシーを舞台にした5つの都市の5つの夜の短編連作だった)でもあり、今回は東京を舞台にした続編でもある。(これも、6つの時間の短編連作でもあるけど)

この小さな世界のかたすみで、誰もが精いっぱい生きている。そんな姿が愛おしい。これはそんな映画なのだ。


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