習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『太陽の傷』

2006-10-24 23:50:26 | 映画
 細部のリアルさがなくて、大雑把、見ていて突っ込みどころ満載のホクテンザらしい映画なのだが、三池崇史はそんな細かいことはまるで気にしない。低予算であろうが、大作であろうが、いつも同じ。ハンディーなんか屁でもない。いつものように勢いだけで見せきってしまうのだ。 


 社会派のように見えて、そうではなく、単純な復讐ものになるわけでもない。ジャンルに収まらない不思議な映画である。暴力は少年達の不気味な行動から始まり警察、マスコミ、法律という本来なら被害者を守るべき存在のすべてが彼の敵になり暴力を振るうことになる。そういう構造がこの映画の特徴である。

 中学生の少年たちの浮浪者への暴行を見た男がそれを止めようとする。主人公は哀川翔である。ここでまず、哀川翔の過剰防衛の対して驚くことになる。ふつうのサラリーマンがあそこまでやるか?(もちろん、しません。でも哀川翔なら絶対する。そういうリアリティーに支えられた映画なのだ)それに対して、少年はあまりにストレートな仕返しをする。哀川の娘を殺害するのである。さらには、警察の手抜き捜査から哀川の怒り爆発。こう書くとなんかチンケなアクション映画に見える。少年犯罪をテーマにしたシリアスな映画のはずなのである。なのにそうでもない。  

 過剰防衛、少年の凶悪さ、警察の杜撰さ、それらが映画のポイントとなる。少年法によって子供は守られているから、犯罪はやり放題。それに対して、一般市民はまるで無防備状態という不条理。そのへんを映画はリアルと紙一重で、かなりデフォルメする。

 被害者である哀川が、最初からかなり凶暴すぎるし、そのうえ彼がサイコ野郎に見える。しかし、そのぐらいの主人公でないと、この狂気の時代を生き抜けないというのか。

 もちろん最後は少年と哀川の対決になるが、単純なアクションではない。ラストの妹の恋人への電話にも象徴されるが、この世界で誰かを守ることにはとんでもない覚悟がいる、とでも言いたいみたいなのだ。少年は邪悪な存在の象徴であり、彼と戦う哀川は世界を敵にまわしたピエロに見える。明らかに狂っているのは哀川のほうだが彼は狂気に取り付かれているのではなく、唯一まともな人間にも見えてくる。要するに狂っているのは、この世界のそのものなのである。

 銀落しと、モノクロで処理した寒々とした映像。そしてこの小さな町から一歩も出ない閉塞感。三池崇史は相変わらず、いろんな意味で暴力的で過激な映画を撮る。

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