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映画・演劇のレビュー

『空海  KU-KAI』 

2018-03-02 21:54:01 | 映画

のチェン・カイコーの新作だ。前作『道士下山』は劇場公開すらされず、DVD公開となったが、とても面白い作品で僕は一応満足した。だけど、昔の凄い映画とは明らかに違う。あの頃の彼の映画とは、もうまるで違う。それが悲しい。今回もエンタメである。絢爛豪華な絵巻物。最初から高望みはしない、と覚悟して劇場に向かう。だが、失望は大きい。

この映画に先立って予習も兼ねて、昨年ようやく公開されたチャン・イーモウの『楊貴妃』を見た。無残な映画だった。諸事情から、監督が代わり、キャストも変わった。呪われた映画だ。つまらない恋愛映画になっていた。

 

同じようにこの大作も、ミステリー仕立ての娯楽活劇で、壮大なスケールの歴史大作、ということなのだが、なんだかとても空疎な映画だ。若き空海と白楽天が化け猫の謎に迫る。なんだかなぁ、というようなお話。彼がどうしてこんな映画を手掛けたのか。よくわからない。長安の町を再現した巨大なセットはまるでCGのようだ。すさまじいモブシーンは圧巻だけど、なんだか空しい。50年前の楊貴妃の死の謎に迫る、なんていうのも、なんだかなぁ、だし、それは悲しい愛の物語だった、とか、なんとかも。

この映画の邦題は『空海 KU-KAI 美しき王妃の謎』だ。

このタイトルがよくない。空海のお話ではなく、空海を主人公にしたミステリーなのだということをちゃんと理解させないと、誤解を招く。思ったような映画ではなかったという失望を抱かせ、不満が残るはずだ。オリジナルタイトルは確か『妖猫伝』だったのではないか。まるで違うではないか。日本版のタイトルだけではなく、公開方法にも疑問が残る。どうして日本語吹替版のみの公開なのか。オリジナルの中国語版を公開しては困るような事情があったのか? 配給会社の判断ミスとしかいいようがない。さらには作られた映画に対する冒涜としか思えない。

 

これは確かに娯楽活劇である。(アクションはないけど)そして、エンタメ作品だ。だけど、アメリカ映画なら普通どんな映画でも字幕版と吹替版のふたつを用意しているのに、どうしてこれだけの大作なのに、それをケチったか。(もちろん、ケチったわけではないことはわかっているけど、そう書きたかった! それほど腹立たしい。)

 

凄まじいスケールで唐の都、長安が再現された。この映画はまずそれだけでも見応えがある。そこを若い空海と白楽天が並んで歩く。2人に才能が出会い、言葉を交わし合う。そこから生まれる友情物語、と理解してもいいだろう。言葉を喋る黒猫の怪異を巡って彼らふたりが事件を解決していくというミステリ仕立てだ。時空を越えたとんでもない冒険が待っている。この映画はそんなワクワクドキドキの冒険ロマンとして見るべきなのだ。

 

いつも薄ら笑いを浮かべている染谷将太の空海と、冷静沈着なホアン・シュアンの白楽天。このコンビが歴史の謎に挑む。楊貴妃の死は何を意味するのか。30年の歳月を経て、今に繋がる怪異。あっと驚く物語がそこにはあるはずなのだ。本気で見るのではなく、このバカバカしいお話を楽しむ姿勢が必要だ。これはファンタジー映画なのである。

 

チェン・カイコーは初期の『人生は琴の弦のように』でもファンタジーを作っていた。アクション大作『プロミス』なんてチャン・ドンゴンが人間離れした凄いスピードで走っていた。

今までだって荒唐無稽をしているのだ。この映画の豪華絢爛さは華やかかりし日の唐の都を舞台にしたこのドラマにとって必要なことだった。栄華を極めた場所で、その頂点にいたはずの楊貴妃の孤独が描けたなこの映画は成功したはずだ。チャン・ロンロンはとても美しいし、彼女の妖しさが映画の核心にあるから、この映画は成功するはずだった。なのに、どうしてこんなことになったのか。空海と白楽天がそこに他人としてたどり着くからだ。彼らがただの傍観者である限り、映画には感動は生まれない。主人公はあくまでも彼らであるのなら、彼らが彼女の傷みをしっかりと受け止める必要がある。空海が日本に帰るのは、事件を解決したからではない。この巨大な国に来て、何を学んだか、そこをこの事件を通して描いて欲しかった。冒頭の皇帝の死が何なのか、ちゃんとそこに帰ってこないと、お話は終われないのに、そんな事実は忘れ去られる。

 

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