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映画・演劇のレビュー

『マザーウォーター』

2010-12-03 21:27:23 | 映画
 こんなにもなにもない映画は初めてだ。お話はない。会話もない。だから、当然ここに劇的な展開なんか望むまでもない。ただ、何事もなく時が過ぎていくだけだ。登場人物はたった7人(それと、赤ちゃんがひとり)。彼らがこの町ですれ違い、ほんの少し、当たり障りのないことばを交わすだけだ。(風景のように登場する人物は確かに他にもいるがエキストラレベルでしかない)彼らの相互の人間関係なんてものも描かれない。ただそれだけで終わっていく。発展はない。そのあまりのことに拍子抜けがするほどだ。だが、最初からこの映画(これは『かもめ食堂』から続くシリーズだし)はこんな感じなのだろうな、とわかっていたから別に腹は立たない。というか、ここまで徹底されると、最初はこれが快感だった。だが、さすがに105分間、ずっとこれをやられると、だんだん飽きてくるのも事実で、終盤は息切れする。

 シンプルなのはいいが、シンプル過ぎると、単調になる。だから、そう思わさない「何か」が必要になる。何らかの仕掛けがなければこれは成立しないだろう。だが、この映画はそんなものは用意しない。

 京都の高瀬川のあたりが舞台になる。古い豆腐屋(市川実日子)。ウイスキーしか出さないバー(小林聡美)。コーヒーしか出さない喫茶店(小泉今日子)。あまり客のこない銭湯(光石研、永山絢斗)。家具の修理屋(加瀬亮)。彼らは実に淡々と仕事をする。そして、見事に客が来ない。こんなことで、生活が成り立つのか、と心配になるくらいだが、きっとこの映画の描かなかった時間にはそれなりに客もくるのだろう。で、彼らは仕事の休み時間に時々、鴨川までやってきて、ぼんやりしたりもする。もちろんお互いがそれぞれの店を訪れることもある。そこでは当たり障りのない会話はある。だが、それだけ。それ以上突っ込んだりはしない。節度のある関係。

 大体なぜか、彼らはもともからこの土地に住んでいた地の人ではない(ようだ)。他の場所からここに流れてきた新参者だ。そして、静かに、ここで、おとなしく暮らす。この古い町の中でストレンジャーとして、過ごしている。なじめてない。京都弁も使えない。彼らとなんとなく関わることになるひとり暮らしの老女(もたいまさこ)を中心にして、そんな彼らがゆるやかに繋がるさまが描かれていく。

 時々一緒に食事したりもするようになる。でも、彼らが仲のいいグループである、というわけでもなさそうだ。そこに住んでいるから顔見知りになり、偶然、ほんの少し仲良しになった、その程度。あまりにさりげなさ過ぎて少しわざとらしい気もするが、ねらいは悪くない。

 食事のシーンが多い。それも、とても丁寧に見せる。繰り返しも多い。店先で食べる豆腐。コーヒーを淹れる。水割りを作る。そういう動作を省略もなしに、最初から最後まできちんと見せる。そこにこそ、この映画の本当の意味がある、とでも言わんばかりの丁寧さだ。本来なら描かない部分ばかりが突出して描かれて、ドラマを構成する要素をはらんだ部分はカットされる。というか、もともとそんな描写はほとんどない。わざとらしいくらいにない。

 人の営みを等身大に捉えた、とでも言うのか。(でも、これではそうは言い切れないけど)やはり、さりげなさがわざとらしさになっている。リアルではない。嘘くささも含めてこの映画の魅力だ、と言えば、褒め過ぎか。もたいまさこが、買い物をして、台所に立ち、食事を作り、テーブルに並べ、ひとりでおいしそうに食べるシーンがある。とてもすばらしい。延々とそれを無言で見せる(まぁ、あの状況でしゃべると、怖いが)のが、いい。



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