こんなにも緊張感にある映画を見られてうれしい。とても静かな映画で、派手なシーンはないのに、ドキドキさせられる。軸となるのは利休(市川海老蔵)と秀吉(大森南朋)の対決のドラマなのだが、実は、利休が自分自身と向き合うドラマでもある。どちらかというと、後者。茶の湯という小宇宙の実現をこんなにも見事に映像化して見せきる。
この映画の凄いところは、動きがほとんどないのに、しかもセリフもほとんどないのに、まるで退屈させない。というか、ここまで緊張を強いる。それがここまで快感でもある。さらには、お高くとまった芸術映画ではなく、わかりやすい娯楽映画のスタイルを貫く。説明はないのに、わかりやすい。動きは少ないにもかかわらず、映画自体はとてもテンポがいい。省略が見事。切腹の日からスタートして、21年前に遡り、一気に21年後の今日へと走り抜ける。過剰な説明描写は皆無だ。どんどん先へと話が進んでいく。だから、この調子で行くと1時間くらいで映画が終わるのではないか、と心配になるほどスピードは早い。でも、映画自体は慌ただしいのではなく、悠々としたテンポ。
海老蔵の半端じゃない説得力は凄いとしか言いようがない。ただ、そこにいるだけで、しかも、自分の存在は前面に出さず、静かにたたずむだけなのに、圧倒的なのだ。彼がそこに居て、たてるお茶を受け取る。目利きの彼が空間をプロデュースする。ただそれだけで、世界が変わる。人を惹きつけ魅了する。ただの茶人のはずなのに、世界が彼に跪く。本人にはその気はない。無心に、ただそこにいるだけなのに、自分からは何のアプローチもしないのに、人を虜にする。夢中にさせる。
だから、秀吉から疎まれる。何をしても秀吉は彼に勝てない。天下人になっても、だ。映画は秀吉と、利休の妻、その2つの視点から描かれていく。しかし、その両者も饒舌ではない。彼らはただ利休をみつめるだけだ。彼らだけでない。利休本人も何も言わない。
ラスト30分で、利休の若かりし日の恋が描かれる。ここだけ映画は普通のドラマになっていて、それまでの禁欲的なトーンとは明らかに異なる。利休の原点となる事件を説明してしまっている。実に惜しい。この謎解きでもある部分が悪いわけではないけど、それどころか、これくらいしなくては、この映画は娯楽映画でなくなるから、それでいいし、この部分が映画の欠陥だとは思わないけど、少しもったいないなぁ、とも思う。
この映画の凄いところは、動きがほとんどないのに、しかもセリフもほとんどないのに、まるで退屈させない。というか、ここまで緊張を強いる。それがここまで快感でもある。さらには、お高くとまった芸術映画ではなく、わかりやすい娯楽映画のスタイルを貫く。説明はないのに、わかりやすい。動きは少ないにもかかわらず、映画自体はとてもテンポがいい。省略が見事。切腹の日からスタートして、21年前に遡り、一気に21年後の今日へと走り抜ける。過剰な説明描写は皆無だ。どんどん先へと話が進んでいく。だから、この調子で行くと1時間くらいで映画が終わるのではないか、と心配になるほどスピードは早い。でも、映画自体は慌ただしいのではなく、悠々としたテンポ。
海老蔵の半端じゃない説得力は凄いとしか言いようがない。ただ、そこにいるだけで、しかも、自分の存在は前面に出さず、静かにたたずむだけなのに、圧倒的なのだ。彼がそこに居て、たてるお茶を受け取る。目利きの彼が空間をプロデュースする。ただそれだけで、世界が変わる。人を惹きつけ魅了する。ただの茶人のはずなのに、世界が彼に跪く。本人にはその気はない。無心に、ただそこにいるだけなのに、自分からは何のアプローチもしないのに、人を虜にする。夢中にさせる。
だから、秀吉から疎まれる。何をしても秀吉は彼に勝てない。天下人になっても、だ。映画は秀吉と、利休の妻、その2つの視点から描かれていく。しかし、その両者も饒舌ではない。彼らはただ利休をみつめるだけだ。彼らだけでない。利休本人も何も言わない。
ラスト30分で、利休の若かりし日の恋が描かれる。ここだけ映画は普通のドラマになっていて、それまでの禁欲的なトーンとは明らかに異なる。利休の原点となる事件を説明してしまっている。実に惜しい。この謎解きでもある部分が悪いわけではないけど、それどころか、これくらいしなくては、この映画は娯楽映画でなくなるから、それでいいし、この部分が映画の欠陥だとは思わないけど、少しもったいないなぁ、とも思う。