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映画・演劇のレビュー

小原延之プロデュース『工場日記』

2011-03-10 22:02:37 | 演劇
船戸香里さんの舌打ちする声。雪之ダンさんの怯えた姿。2人がこの狭い空間で、向き合いながらも、お互い一人ひとりとして、そこにいる。彼らが何に対して憤りを感じるのか、そして、恐怖するのかは明確だ。だが、その明確なものと面と向かって対峙はできない。目に見えないこの「世界」というものと彼らは戦う。特にあの舌打ちにはどきっとさせられた。そこにあるのは、弱いものが抵抗するという単純な図式ではない。この芝居を見ている僕たちにそれは突きつけられる。この実験的な2人芝居は観念的なセリフの応酬のため、かなりとっつきにくい。最初は、まるで2人の放つ言葉の意味が頭に入ってこなくて、困った。彼らの不安、怒り、腹立ち、憤り、それが意味として、伝わらないので焦った。だが、徐々にそんなこと、どうでもいいと思うことにした。これは意味ではない。もっと、感覚的なものだと思うからだ。

かなりのハイテンションで、イメージのコラージュが成される。役者たちは全身で、小原さんの見た「今あるこの世界」の姿を、等身大に描き出そうとする。それはストーリーとしてではなく、今そこにある状況と、そこから生じる出来事が、いくつもの内面の声として、提示される。特定の誰かを見せるのではなく、抽象的な存在としての「今という時代を生きる彼ら」が、心理的に追いつめられていくという過程をヒリヒリするような感覚で描いていく。なんとも痛ましい芝居だ。

八方塞がりの現実の中で生き残って行くために人は労働する。人は働かなくては生きていけない。工場での単純労働から、賃金を得て、生活する。それは豊かさとはほど遠い。そんな現実の中で、壊れていく。今あるシステムはこのままではやがて崩壊していくこととなるだろう。しかし、それをどうすることも出来ないまま、破滅に向かって突き進んでいく。一部の強いものだけが、生き残り、残り大多数の弱いものたちは死んでいくしかない。2人の男女を通して、そんなどうしようもない状況が1時間の悪夢として語られていく。見終えたときには、役者ともども、ぐったりする。これだけの緊張感を強いられる芝居はめったにないだろう。

しかも、ここには何の答えもない。もちろん作者は距離を置いて高みから見ているのではない。ただ、一緒に苦しんでいる。追いつめられた人間がどこにいくのかは、描かれない。わからないからだ。そういう意味では、これはとても正直な芝居だ。だが、これだけで終わってはいけない。そんなことは、小原さんが一番よく知っていることだろう。

だから、この先はやがて日を改めて描かれるはずだ。この小品をプレリュードとして、やがて、作られることになる小原延之プロデュースの大作の中で描かれることだろう。これは完成品ではなく、試作品だ。小原さんの切り口を示したということに留まる。ひとつの助走として、この作品は悪くはない、と思う。


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