一 閑 堂

ぽん太のきまぐれ帳

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六代目に捧げる「又平」

2006年05月16日 | 歌舞伎・芝居
今月の『吃又(傾城反魂香)』、あちらこちらで感想をみると、その評価はかなり分かれているようだ。
いや、ハナから「駄目だ、こりゃ」とみなしている人も沢山いるだろう。「私のみたい『吃又』じゃないよ」と。
実のところ、私も今回のようなのが好きか?と問われると、微妙である。
なぜ皆が、そんなに違和感を感じるか?といえば、ある程度長くみている人だと、石を投げれば…的に、おそらく数回、十数回、みてきているためだろう。
食傷もしているが、同時に、又平を頻繁に演じてきた富十郎などの舞台姿が刷りこまれていて、あの感じじゃないと落ち着かない気分になってもいるのだ。

少なくとも、私はそうだった。
過去みた舞台をすべて思い出すことが困難なほど、毎度毎度の『吃又』であり、おまけにこの演目はどうにも気分のいいものではない。
なにしろ「天性の吃り」が思いっきり差別され、その吃りを嗤うようなところが随所にあり、抜ける絵も拙いから絵師の名字をもらうというのがそんなに大したことか?という気はするし、謡でやれば吃らないなら最初からそうすればいいだろうに…という脱力感もある。
物語の前半部分に救いがなく、最後にめでたしとなっても大したカタルシスを持てないので、どうにもピンと来ないのである。

唯一のお楽しみは、又平役者の愛嬌を楽しむこと。
現代の感覚からすると陰鬱な設定なだけに、「吃っていても、どこか愛せるボケキャラ」みたいな風に感じないとやりきれなくなる。最後の大団円では、元々あった愛すべきキャラが小躍りして炸裂!
その姿を眺めて見物もホッとし、小屋を後にするのでなくて、何が楽しい芝居か?!というのがあった。
もちろん、泣けるのは、又平夫婦の夫唱婦随である。
また、それが麗しいのも、又平が基本はとても魅力的であり、それを見物がすでにわかっているからだろう。
どんなに貧しくても、お師匠に足げにされても、吃りでも、「又平って、本当はすごくいい奴なんだよね…」感がありさえすれば、お徳のような情の深い、素敵な女房が連れ添っていて当然である。共感できる。

何度もみる側には予定調和の世界として『吃又』をみるスタイルができてしまうし、一期一会の気持ちで、真剣にドラマに取り組むと、「吃りを差別する」ことを無前提に受け入れられない現代人は、どうしてももっと別のところに、又平の弱みをみつけようとせざるを得ない。
たとえば、どこかに強烈なコンプレックスや功名心があって絵師としての悟りを得られないことを、師はみ抜いていたのだとか、まあ、そんなことである。
私も長いこと、ずっとそう思ってきた。
ややこしいことを考えるのも面倒になって、しまいには「又平は、役者振りでみりゃあいい」という状態になり、
 文楽でもたしか、ここはチャリ場っぽいんだし、愛嬌で乗りきれればそれでヨシでしょ?
 お徳はくっちゃべり芸だしさ  そういうのをサラーッとみとけばいいんだよ
 そそそ  理屈はいらないのが芝居ってもんよ!

に、してきたのである。

ちなみに、今回の『吃又』は、六代目菊五郎の型だとのこと。
そのやり方は「不具の哀切さ」を全面に出し、花道の引っ込みもつけない。
土臭いノリを薄め、人間ドラマとして捉え直したのが六代目の工夫だったという。
吃りを大らかに笑えるような社会ではなくなったこともある。だから、芝居のポイントをずらしたのだ。
そして、そのやり方を、徹頭徹尾演じ抜いたのが、今月の三津五郎又平である。

ところで、私は六代目の又平をみてない。
というか、今も残されているわずかな映像でしかしらないので、そもどんな役者だったのかがわからないのだが、残っている映像・音声資料などからは、「とても粋な調子の役者」だった気がする。
今のどの役者より、粋でいなせでかっこよく、江戸前な感じなのである。
その菊五郎が、人間又平を真面目に勤めると、一体どういうことが舞台に起こったかと想像すると、これがさっぱりわからない(笑)
ただ、六代目のしようとしていることと六代目の体に染みついたものが、なんとなく反発しあい、場合によってはチグハグになった可能性はあるだろうな、と思う。
六代目のやり方による『吃又』はいささか難解だったかもしれず、ここ最近あまり舞台でもみられなくなった。
そのため、『吃又』というと富十郎や吉右衛門のやり方というイメージが強くなったのだろう。
当然、二代目松緑もやったろうが、はっきりとした記憶がない。

私見では、富十郎の又平には、鄙びたところがある。とはいえ、決して鈍重ではない。持ち味の明るさと身軽さがある。が、その軽妙さゆえに、「絵師」という感じはあまりしない。
一方、吉右衛門の又平には、腰の低さと少しの卑屈さがある。自信がもてない人の弱さがあって、内省的なのだ。が、精神的な一山を越えさえすれば、おのずと立派な「絵師」だった人なのだな、という感じがする。
いずれの又平も、いかにも天王寺屋らしく、播磨屋らしい。偉大な役者振りである。

しかるに、三津五郎はというと、決して大和屋らしい…という感じはしない。

というか、私の目からみる三津五郎は、歌舞伎役者としての矛盾律みたいな人で、「大和屋!」と喝采を送りたくなるコレという役が、はっきりみえなかったりする。
一番そういう気分になるのは、彼が荒事をやる時だ。私は彼の荒事がものすごく好きなのだ。
でも「荒事は成田屋だしなぁ」と思ってしまうので、成田屋贔屓のようにまかせとけ!というまでには至れない。
彼自身は、色恋が苦手で武将役が好きだとのこと。
私は、新歌舞伎の綱豊卿などに腰を抜かしそうになったことがあるし、盛綱や実盛なんかをみてみたい!(熊谷はなんとなく違う気がする)とも思うのだが、大和屋だったら、絶対にこれだよ、という役は結構難しい。
それだけに、勘三郎と組む、納涼での試行錯誤がとても面白い。『寺子屋』の源蔵もすごくよかった。

ということもあり、三津五郎の又平は、二代目松緑の通りにやった魚屋宗五郎同様、なんとなくおさまりが悪い…。

そんな私が驚いたのが、三津五郎の肉体を通じて、六代目の思いが感じとれたことだった。
さながら、霊媒師イタコの口寄せか、六代目が彼流の『吃又』で何を目指したかったのか、そのことがものすごく生々しく迫ってきたのだ!
姿格好はまったく異なるのに、三津五郎は六代目が目論んだ実験を体現してみせた気がした。
それも、おそらく六代目以上にくっきりと、である。
六代目がみていた地平は、すでに備わってしまった独自の肉体や感性では、必ずしも【形】になしえなかったかもしれないのだが、その【形】を、おそらく今の三津五郎が代わって具現化したのだ…と感じたのだ。

それは、「役に徹して、ただ実存として舞台に存在すること」だったのではないだろうか?
役名と役者名とが、常に二重写しになるべき歌舞伎の方法論とは、まったく異なる方向性だ。
役者をみる芝居ではなく、登場人物そのものをみる芝居。余白ゼロの芝居。
六代目はこれ以上ない歌舞伎役者だったと同時に、演劇の本質みたいなものと歌舞伎とをすりあわせてみたかったに違いない。「写実」も「心理」も、そういうことだったのだ。
ただただ、そこにいてしまうほど肉迫した人物像を、歌舞伎の中で六代目は模索していたに違いないのだ。

文献や識者の言葉での六代目は遠かった。しかし、三津五郎がまとった六代目スタイルは、とてもリアルだった。
團菊祭という縁の場で、六代目に捧げた『吃又』だったとわかった時、私は三津五郎の藝の道に感動した。
三津五郎って、なんて渋い役者なんだろう。芝居の虫そのもの、だ…。

歌舞伎の舞台を通じて先人を辿るというのは、親子などの血縁ではごく自然なことだけれど、【藝の形】でそれをやるのは至難の技だと感じる。
三津五郎は、それができる役者だ。いや、できるできないに関わらず、そういうことを心がけている役者なのだ。
伝統というものを、そんな風にして消化し舞台化する歌舞伎役者三津五郎が、私はやっぱり大好きである。
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14 コメント

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深いです (若菜)
2006-05-16 22:34:26
ぽん太さんの三津五郎さんを見る目は海よりも深い!

私は・・脱帽でございます。



ぽん太さんの目を通して見た歌舞伎は・・

私の見た歌舞伎とは違うのではないかと?錯覚に陥りそうです。



再見するにあたり様々な角度で捉えられそうなこの『吃又』。

深いです・・。ぽん太先生と呼ばせてください!!



単純に文楽と比較してみようと思ったのがあさはかかと・・。

似て非なるものですね。
妄想モード (ぽん太)
2006-05-17 09:52:30
若菜さん、今回は妄想全開にしてみました~(笑)

渡辺保さんの妄想がかつて好きだった私が、じゃあ、彼のようにやってみるとどうなるかな?と、ちょっと挑戦してみたのです。

というか、二回『吃又』をみている間に、芝居が自分の中に侵食してきちゃったというか、脳内変容を起こしちゃった感じがあるんですよ。

だから、



>私の見た歌舞伎とは違うのではないかと?錯覚に陥りそうです。



というのは当たってますよ。

自分の目でみたものとも、おそらく違ってそうですから(笑)



六代目のやり方が、好きか嫌いかの話はまた別ですね。

文楽とはあまり接点がないのも、六代目流だったかと思います。

先人のやり方をみせるということは、歌舞伎にはとても多いですよねぇ。で、その時こちらが、「型」の違いや拵えの違い、あるいは芝居の段取りの違いだけを追ってしまうことがよくあります。私もついついそうでした。



で、今回は、「先人の心」を写そうとした舞台なんだな…という気持ちがしたんですよ。

以前やった、『魚屋宗五郎』もきっとそうだったに違いない。なのに、私は「あの宗五郎は嫌いだ」としか思えなかった。

三津五郎が好きなのに…。

そんな反省もこめて、あらためてまとめた次第です。



何よりも、皆さんとのコメント欄でのやりとりのお陰です。

本当にありがとうございました!

これからも、どうぞどうぞよろしくお願いしま~す(拝伏)!
Nokki (Unknown)
2006-05-19 08:53:21
ぽん太さんの本質を見抜く洞察力に平伏です。

妄想と謙遜されてますが、けっしてそうではありませんよ。また、役者贔屓という愛情の深さにも。

自分は三津五郎贔屓としてはぽん太さんの足元にもおよばないなあ、物事の上っ面だけしか見ていないしなあ。

拝読いたしまして、目からうろこが落ちました。

ありがとうございました。

見た目はなんですが栄養はありそう (花標)
2006-05-20 00:54:44
 ぽん太さん、久しぶりに書かせていただきます。

 今月の「ども又」、新妻の家庭料理とでも申しましょうか、初々しくて派手さはないですが、手間はかかっていて、13日に観たときはしんみりとしましたね。

>富十郎の又平には、…持ち味の明るさと身軽さがある

>吉右衛門の又平には、…少しの卑屈さがある

 富十郎さんの明るさ、吉右衛門さんが大きな体を縮めてのお芝居には、なるほど確かに役者を楽しむ感じがあります。今回の三津五郎さんは、又平その人を観る感じがしました。

 書き出すときりがないので、また別の機会に。

時蔵ファンの私にとっても今回、かなりうれしい出来の芝居で、我慢できずにさっきチケットを取って、本日27日夜の部1階2等(あの花道の出を観ないと!!又平夫婦の素晴らしさ)、もう一度観に行きます。もう本当に馬鹿と言おうか、ファン気質といおうか。そういうわけで上京に備え、書きたいこともここで筆止め、またおじゃまします。
「吃又」いろいろ (ぽん太)
2006-05-20 23:11:57
Nokkiさん、いえいえ、Nokkiさんが感じたことは、私が一番最初に感じた通りのことでもありました。

その分、意地になったムキもあります(笑)

たまたま、再見する機会があったのもよかったんですよね。当初の疑問を反芻するような気持ちで舞台をみてみると、別の発見があるというのは、皆さん同じだと思いますし。



だから、私のみた「吃又」が本質であるとは、まったく思っていません。たまたま、私にはこうみえちゃいました…だし、そうみてしまった自分が、我ながら驚きというかなんというか…。



ついつい、江戸歌舞伎に傾きがちな私です。

九代目も六代目も、神格化されるのは違うだろうなんて、長らくあっちゃならない不満を感じてもいましたが、当月ほど近代歌舞伎の先人たちに対し、素朴な敬意と感動を覚えたことはなかったかもしれません。

近代歌舞伎も間違いなく歌舞伎の伝統なんだな…ということがわかったことが、個人的にすごく嬉しかったですね。



Nokkiさんやコメントをくださった皆さまのお陰で、とてもいい思いをさせてもらいました。これからも、どうぞよろしくお願いします!
堪能されましたか? (ぽん太)
2006-05-20 23:24:22
花標さん、ご無沙汰していました。

今夜、ご覧になったのですね!お気持ち、わかります。みておかない手はないですよ。今月は時蔵さん、大活躍ですもの。

ことに、おとくは本当によかった…と思います。



初日は、聡明すぎる夫婦?という印象がありました。そのため、Nokkiさんのご指摘の通り、息苦しく許せない気分も大いにあったんですよ。

それが次にみた時には、お互いに信頼しあっていて、おとくは本当に又平を愛しており、又平もそれがよくわかっていて、だからこそお互いにつらすぎる…という夫婦の形をしみじみと感じました。

「ああ、この二人は似合いの夫婦だ…」と心から思いましたし、こんなにリアルに夫婦の心情を感じてしまった『吃又』は初めてだった気がしています。

時蔵さんは「いい女房だなあ…」の一言に尽きます。自分もこんな風になりたい、と思いました。手本にしたい女性でした。

それぐらいお芝居が真に迫っていて、圧倒されました。

今思い出しても、泣けてくるほどです。



二回目のご感想、もしもお時間があれば、是非ともお寄せください。花標さんの目からみた『吃又』にも、興味津々です!
お言葉に甘えて (花標)
2006-05-26 06:53:29
 お薦めにより「吃又」の感想を書かせていただきます。というかトッキーファンとして全く時蔵さんしか目に入っていません

でした(ひいき目のせいか、ほぼ完璧に見えました。)ので、「おとくから観た『吃又』論」というか、ぶっちゃけた話、今月は完全に“のろけ”でございます。



 花道の出。弟弟子に先を越された不器用な職人を三津五郎さんが、歩みの中で見せる、ここだけでもこのお芝居、値打ちだなと思いますが、時蔵さんも負けていず、哀感をたたえた登場を印象づけました。師匠の住まいに着いても終始控えめ、夫を立てる様子がおとくの印象を決めました。

 しゃべりは最初の花見の話は陽気に、「…洗濯物はつかえる、仕事は、はかゆかず…」の後半は、唾を飲み込み、息を飲み込みしゃべるような

せりふ術に工夫。せわしなくおしゃべりしている感じを表現。前回、平成11年南座顔見世の吉右衛門さん相手のおとくでは印象になく、今回の工夫と思います。(せりふ中、鰻を単なる比喩に、貰い物の酒を持ってきたと言うが、原作は酒と鰻を持ってきたと思うが…。原作のせりふと離れて、あそこで一息つくと気が変わるので、観客としては楽だが、そう原作と変えた真意はわからない)。藤の花かついだおやまや瓢箪鯰の形がごくあっさりと極まっていたのが良かったです。

 師匠へ訴える「身は貧なりかたわなり…」が上上吉。柔らかく憂いをいっぱい込めて、全身全霊傾けたせりふ。お芝居の主題をお客に印象づける、極端に言うとあとの芝居の成否を決める大事なせりふが必要な効果を上げたと思います。客席がシーンとしました。ここの三津五郎さんも見事にせりふをじっと腹で受けた上上吉の芝居をしていた…はず…(私はトッキーばかり観ていたもので…)。

 師匠に名字を拒否され、「…吃りに産んだ親御をお恨みなされいや」が派手さにいくのをあきらめて、しんみりとやったので、いつもよりお客の

反感を防げたと思います(ここと、「指も十本…」と「『きちがい殿で…』で又平にぶたれるところ」、現代のお客に反感を持たれやすい三難関を派手さにいかず、しんみりとやることで上手く処理。その分、昔風の大泣きの大芝居でなく派手さに欠け、現代風になったかもしれません)。舌を引っ張り出そうとする又平の動きの見事さ、動きが雄弁でした。

 松緑雅楽之助の注進(萬屋ファンとしては介抱する梅枝君の整然とした動きしか目に入っていないのですが。それでもちょこんと花道に座り、物見をする三津五郎さんの姿は極まっていますね。)の後、又平の訴えを時蔵さんは後ろでしっかりと受けていました。ここは又平の懸命さ、哀感があふれていて、見事でした。「吃又」というお芝居は、又平の懸命さ、一途さを観るお芝居

ではないかと考えます。その点、顔を背ける将監に追いすがり右へ左へ動き回るのや弟弟子にすがりつく姿に、単なる型でない必死さと哀感が出て、芝居の急所をつかんだのではと思います。「きちがい殿」で又平が女房を打つところ、上手く作ってあります。上手く意を尽くせず、手が出てしまう。叩く人もつらく、叩かれる女房も身の痛さよりつらいものがあります。叩かれた後、又平にすり寄るあたりで情がでて、又平は女房をはねのけ、二人でわっと泣き伏すところが、夫婦の芝居になりました。

(長文御免ください。しかし、後半の感想を又後日)
長文連続投稿御免ください (花標)
2006-05-28 13:10:40
 書き出すときりがないのですが、首尾一貫しませんのでもう少し書かせていただきます。



姫を奪いに返しに行くという又平の訴えの考え違いを諭す師匠将監の

彦三郎さんも情がありましたね。奥へ行く師匠夫婦に取りすがって再度名字の

許しを乞うおとく、特に訴えの内容に新味は無く、派手なところはあり

ませんが気を入れたお芝居で緊張感を持続しました。ここは立派だなと

思いました。

 呆然として階段(「入れ歯」と呼ぶんでしたっけ?)に左足を落として

極まるところ。絶望と死を思いつき、三味線の音と共に極まる、芝居の

変わり目、転換点ですが、私は一つの「きまり目」という形式でしか観て

いなかったので、お芝居として深いものであったか自信はありません。

ぱっと鮮やかに雰囲気が変わらなかったにしても、「今生では願いが

叶わない」という重いものを客席に感じさせたのではないかと推測

しています。ファンとしては言いにくいのですが、前回の南座吉・時の

前半頃は、まだ三味線の音を探って三味線に合わせて足を下ろしていた

ところがありました。今回は自然な芝居の流れで極まっていました。

 切腹しようとする又平を止めて、辺りを見回し、あの手水鉢を石塔に

と言うところ。文楽では「今生の望みは…」に続いて、「庭の手水鉢に

自画像残し追号」の提案をして、すぐ又平が絵を描き、目前で絵が

抜けて印可となりますので、歌舞伎のように又平が腹を切ろうという

場面はありませんし、2回もおとくが止めることもありませんし、

「手も二本、指も十本…なぜ吃りに…」のせりふもありません。

(その分ドラマティックでなく、私は情けなくも住大夫さんで2回

聞いて2回寝ました。最近の伊達大夫さん・寛治さんで、やっと

面白さがわかりました。)。階段で極まるところで遺作を残し追号を

と思いついているので、石に自画像をと言うのが、夫の死を一寸延ばし

にしたいがためと聞こえるとまずいのですが、やや不分明だったかも

しれません。ただ、時蔵さんは遺作を書かせるために止めて慌てて

キャンバスになるものを探すという意識では演じているようには

思いました。

 この切腹を止めるところも、「吃りに産んだ親御を恨み」もあとの

「手も二本…なぜ吃りに…」、「きちがい殿」で叩かれている時も、

おとくの私情が出るとまずいですね。あくまで又平になったつもりで

又平と一心同体で考え、嘆き、傷ついていないと薄情に見えます。

 硯と筆を取りに行きます。昇るときは普通に両足交互に降りるときは

片足(右足?)を下ろし、もう片足を引きつけ、最初の足を下ろし。

硯を大事に運んでいるのでしょうか?筆の選び、師匠への礼を丁寧に

演じていました。

 夫の前に硯と筆を置き、筆に伸びる夫の手を取って「手も二本…」

を締めて泣き上げました。(以前、御園座で宗十郎さんおとく、この

せりふにかかろうとするところで、さすがに芸所名古屋、客席から

「待ってました!」の大向こう、宗十郎さんも力が入ってしまった

のか、強く張ってしまって情感がいま一つになりました。ちょっと

思い出しましたので。)

 又平が腰を屈め、石面を吟味するところ、誰もがやる演技ですが、

三津五郎さんのは職人らしさ、職人気質、遺作に懸ける意気込みが

感じられました。おとくはその間、舞台中央下手で羽織で切腹の

場をしつらえ、墨を磨るのですが、ここが私の目にはとても惜しい

なあと思いました。竹本の文句で「絵姿は苔に朽つるとも♪名は

石魂に留まれと!!」のところ、床も三津五郎さんも会心の気合い。

時蔵さんも腹では受けているのかも知れませんが、舞台絵面では

やや流れた印象がしました。自分が動かない場面で相手の芝居を

ぐっと支え、舞台を輝かせるというのは人間国宝級に要求される

仕事かもしれませんが、今回出来が良かっただけに期待しました。

(またまた、長文御免。こうなったら悪い奴に見込まれたと

思ってもう一回続きを書かせてください。まだ終わらない?)
是非、お続けください! (ぽん太)
2006-05-28 17:12:57
花標さん、ドキドキワクワクしながら読んでおります。

とてもとても面白いです!

下手な茶々入れはともかく、どうぞ、最後までお続けください。読んでの感想は、また、あらためますので。



それにしても、こういうコメントを頂戴できるだけで、ブログをやっていてよかったな~と心から思いますね。

書いてる花標さんも大変とは思うのですが、最後まで書ききれますよう、願っています。
脇から失礼します。 (easyeaes)
2006-05-28 20:07:22
ぽん太さん、そして花標さん、

私もとても楽しみに読ませていただいています。

(もちろんプリントアウトして(笑))

楽しみ・・というとちょっと不謹慎かしら

ビギナーの私にはある意味お勉強・・といった感もあり

続きを楽しみにしております。

そしてそのぽん太さんの感想も・・・



文楽はどうなのか、他の人の『吃又』はどうなのか

気になって気になって仕方ありません。

どうしましょう

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