一 閑 堂

ぽん太のきまぐれ帳

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『五大力恋緘』と『盟三五大切』の間

2007年04月22日 | 歌舞伎・芝居
「南北らしさ」とはなんだろう?
御園座の『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』(文政八年・1825年・中村座初演)は、私にとってほとんど生まれて初めて「感情的になんの矛盾もなくそのまま共感できる南北劇」だったが、それが果たして南北らしいのかどうかがよくわからない…というのが、正直な気持ちだ。
南北の芝居づくりというと、どうしてもギミックを多用したテクニカルな判じ物に近いもの、または、手術台の上でミシンとこうもり傘が出会うような意表をついた場面構成をイメージしてしまうのだが、その印象が今回の舞台にはまるでなかったためだ。
それだけ「わかりやすく、素直に楽しめる」内容だった、ということなのである。
→感想(その一その二その三その四

これは一体、どこから来ている感覚なのだろう?
役者の演技なのだろうか、それとも狂言それ自体なのだろうか?

そこで、自分なりに今月の体験を咀嚼するために、『盟三五大切』の下敷きとなったと言われている、並木五瓶の『五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)』に当たってみることにした。

そもそも「五大力物」と後に称されるようになった一連の狂言は、1737年に起きた事件、大坂曽根崎新地の湯女菊野らが薩摩侍に惨殺された顛末が題材となったものである。
「薩摩侍が新地で五人切りをした」というスキャンダラスなファクターは、当然ながら上方狂言の中で何度も取り上げられるようになった。
ただし、ここではまだ「五大力」なる誓文は、登場していない。それゆえ「五人切物」とすべきだろう。
また、並木五瓶「五人切物」の最初は、寛政四年(1792年)に大坂で初演された『五人切五十年廻(ごにんぎりごじゅうねんかい)』だった。外題からして「五人切物」だけのものであると思われる。

さらに、「薩摩侍の五人切物」の役名が必ず源五兵衛であるのは、「薩摩」つながりである。
近世歌謡としてよく知られた題材に「薩摩侍源五兵衛とおまんの情愛」を謳った源五兵衛節があり、西鶴や近松などが作品に取り入れたことから、いわゆる【おまん源五兵衛の世界】なるものが存在していた。
薩摩の侍から連想される名前の一番が、「源五兵衛」だったのである。

次いで、翌々年の寛政六年(1794年)に、『五大力恋緘』が、大坂の中村与三郎座での『島廻戯聞書(しまめぐりうそのききがき)』の、三番目以下の狂言部分として登場する。
ここで初めて「五大力」という誓いの言葉を「三五大切」に書き替えるという趣向が加わり、これが大当たりに当たっため、以後「薩摩侍の五人切」と「五大力」とは二つで一つの【五大力世界】となる。

また、この狂言の役名は、千島家の家臣「勝間源五兵衛」と曽根崎新地の芸子「菊野」だが、翌年の正月、江戸の都座でかかった『江戸砂子慶曾我(えどすなごきちれいそが)』の二番目物狂言として、この部分をそのまま組み込んでみせ、役名を「薩摩源五兵衛」と「小万」に変更したために、上方と江戸とで二つの系譜の「五大力物」が存在することとなった。今回、私が調べたのは、江戸版である。

ところで、『五大力恋緘』(江戸版)を辿ると、薩摩源五兵衛という人物が「武骨で野暮でお堅い」ものの、男気に溢れた「イイ男」であることに驚かされる。
対照的に、同僚の三五兵衛(彼も武士)は徹底した敵役。水道で産湯をつかった純然たる江戸っ子、深川芸者の小万が蛇蝎のごとく嫌っている、真実いけすかない奴なのだ。
尤も、当時の江戸では敵役が人気ではあるのだが、悪の華といった趣もない三五兵衛の人物像はやはり「芋侍」という風に感じられる。
源五兵衛は逆に、町人から見たら「かくもありたい」まことに出来たお武家であり、嘘から出た実とはいえ、小万が心底惚れてしまうのもわかるのである。
そう、『五大力恋緘』での源五兵衛と小万とは真実の恋人同士で、哀れ小万は最期には仮の愛想づかしを誤解した源五兵衛から斬られてしまうのだが、愛する人のために死ぬ哀れさが柱となる筋書きは、源五兵衛という男が単なる人非人であるとは思えない、一つの「愛の形」ではあるのだった…

ネットの記事では、この狂言を「田舎者の薩摩侍」と「江戸っ子の辰巳芸者」との対比のように説明しているものもあるが若干違う。『五大力恋緘』を実際に読んでみれば、すぐにわかることだ。
ところで南北は文化三年(1806年)に、『改三五大切(かきなおしてさんごたいせつ)』という最初の「五大力」狂言を出しているそうだ(五瓶自身の改作であるという説もある)。
大変に興味深かったのだが、今時点で内容を調べきれなかった。
それもこれも、まだ『鶴屋南北全集』全十二巻を手に入れていないせいだ…! 実に悔しい。

というようなお浚いを通じて気づいたのは、南北自身の趣向が『盟三五大切』にはあまり「ない」ことだ。

 ・薩摩源五兵衛を 実は 塩冶家臣・不破数右衛門 と設定
  最初から浪人させ、小万との仲は三五郎による美人局の計略であり、偽りの関係

 ・塩冶の御用金を伊右衛門(『四谷怪談』との関連)が盗んだせいで、早野勘平の父が自害
  御用金預かりの役目だった源五兵衛も浪人の憂き目にあう、という人物相関図

 ・三五を 武家・笹野源五兵衛ではなく、船頭・笹野屋三五郎 実は 徳右衛門倅千太郎 と設定
  なおかつ、小万は実の妻 (千太郎は、『五大力恋緘』千島家若殿の名前)

 ・小万を 実は民谷(『四谷怪談』伊右衛門の家)の召使いお六 と設定、三五郎は実の夫
 
 ・「五大力」の誓文が書かれる場所を、小万の三味線の背面から、小万自身の腕の彫物に変更
  ただし『五大力恋緘』の小万は、それ以外の心中立てとして自らの指を切って源五兵衛に渡している
  本物の恋人という設定をとらなかった以上、小万の肉体に直接関わる誓いを「五大力」にしたと推察

 ・五人切場面の他に、 四谷(『四谷怪談』との関連)鬼横町の殺し場 を加えたが、
  毒による暗殺(『四谷怪談』のお岩殺し)と刃傷沙汰(『四谷怪談』のその他の殺し場)の趣向を採択
  (ただし、殺し場のバリエーションは、『四谷怪談』だけによっているのではない)

といったところに違いはあるものの、五人切り場面はお約束であり、そこで小万の首を落とすのも、その生首を持ち帰って二人だけの時間を過ごすといったネクロフィリア的なご趣向も、『五大力恋緘』のままなのである。

また、解説などに必ず書かれている【忠臣蔵の世界】との掛け合わせも実にアッサリとしたものだ。
「深川大和町」での「六段目・二人侍」の科白とか、土手平・小万の兄妹の再会が「七段目・お軽平右衛門」のもじりであるとか、幾つか「なるほど…」と思った部分はあるが、とりたててというほどのものではない。
何よりも、見世場として【忠臣蔵の世界】が際立つ場面というものが、大詰以外にはまったくない…
強いて言うなら、前作【四谷怪談】のセルフ・パロディの方が目立っているかも知れない。
四谷鬼横町での「幽霊騒ぎ」は、お岩さまの残像をギャグに仕立てたものだろう。
これを見た中村座のご見物は、ついつい「クスリ…」と笑ったに違いない。

無論、南北は下敷きにした『五大力恋緘』での設定を細かく書き替えてはいる。
たとえば、初演時に、源五兵衛役と兼ねる形であった家主の名は「弥助」。
『五大力恋緘』では置屋の廻し男弥助であり、三五兵衛の手先を務めているのが、『盟三五大切』では、家主弥助が実は民谷家(これまた『四谷怪談』の伊右衛門の家!)の下部をしていた土手平という設定で、実の妹小万とは民谷家繋がりとなっている。
さらに『五大力恋緘』には、浪人した源五兵衛を長屋に住まわせる侠気溢れる六右衛門という家主と、三五兵衛に騙されて源五兵衛を追い詰める千島家の若党八右衛門という登場人物がいるのだが、これを『盟三五大切』では六七八右衛門という名前でひとまとめにし、源五兵衛に付き従う一番の家臣にしている。

おそらく実際の芝居での「ああ、いかにも南北だねぇ」という部分は、【見せ方】にあったのだろう。
同じ長屋でも、並木五瓶のそれと鶴屋南北のそれとは、写実味(小道具のあしらいや汚し度)がまったく違ったのだろうし、より一層凄惨で陰惨な趣が感じられたはずだ。
一つの狂言に殺し場を複数設定し、それぞれに見せ方の趣向を変えるというのも、いかにも南北らしい。

さらに殺し場にあたっての役者の演じ方もまた、衣装や着付け、鬘や顔の作り方からして、従来の狂言作者の「それ」とは違っていたような気がする。
殺し場の質の違いは、たとえば寛政八年(1796年)に大坂で初演された『伊勢音頭恋寝刃』の「十人切」場面を例に出すと、なんとなくわかりやすいだろうか。
あのアッケラカーンと暢気でさえある殺し場と南北の殺し場とでは、場面に満ちるサスペンス度が異なるだろう。
ほとんど滑稽でさえある『伊勢音頭』のオートマティズムのようなものと、南北の殺し場にこもった濃厚で艶めかしい危なさとでは、同じ見世場でも与える印象がまるで変わるのだ。
南北がフェティッシュだったと思うのは、そんな細部の違いを感じてのことだ。

だが、たった二ヶ月前にかけられた、話題の夏狂言『東海道四谷怪談』と比較すると、ずいぶんと大人しい芝居だなぁ…というのが、ベースとなった『五大力恋緘』にあたってみての率直な感想なのであった。
狂言作者見習いの頃から、【忠臣蔵の世界】を独自に趣向化することに情熱のあった南北が晩年になり、作者としての力量すべてをかけて、乾坤一擲の作品をモノにした!という感じの、『東海道四谷怪談』の作り込みに凝りすぎたため、燃え尽き症候群にでもなっていたのだろうか…?
特に『四谷怪談』の中村座初演は、『仮名手本忠臣蔵』全幕との入れ子構造をとった丸二日かけての興行形式で、役者の消耗その他も激しかったのと、ことによったら、夏狂言としては予算オーバーだった可能性もある。

その直後から仕込まれた『盟三五大切』は、なんというのだろう、並木版と比較すると「少し気を抜いて、やや流し気味で、適当にまとめました」という趣があるのである。
今でこそ『盟三五大切』は、南北の名作とか傑作などと言われているのだが、私にはどうもそうは思えない。
中村座でも一ヶ月程度の興行だったように、当時の見物にとっては確実に「食い足りない」芝居だったろう。
「どうもいけないや」と思われたとしても、そう不思議ではない。

だが、それだから余計にこの芝居は、現代においては面白くかつ深い、ともいえる。
南北流の技巧が全体を隙間なく埋めきっていない、いわばおっとりとした並木五瓶版『五大力恋緘』の気配が色濃いだけに、現代ではむしろ、役者のしどころに溢れた狂言であり、まっとおに演じれば現代に通じる普遍性を十分持ちえている、と言えるのだ。
と同時に、南北狂言についてまわるマニアックで近世的な「難解さ(作劇のややこしさ・入り組み方)」が薄いせいで、南北が心がけていたであろう芝居屋としての基本的出発点もまた、万人に理解されるに違いない。
そしてこのことが、御園座の舞台の「特別感」「よさ」を説明できるのではないか?、と私は考えるに至った。

次に、そう考えるようになった背景を、南北作品全体のイメージと、坂東三津五郎という役者の在り方に絡めて、更に続けてみたい。
<なお、このブログのカテゴリー別総目次は  ■2007年版  ■2006年版  ■2005年版

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