1945年8月6日13:00 宇品地区の水道が減水。対処にあたる広島市水道部は全滅しており、暁部隊幸の浦基地より衛生濾水器が運び込まれる #芙蓉録 #8月6日
1945年8月6日14:00 畑俊六第二総軍司令官、広島警備命令を発令。佐伯文郎陸軍船舶司令官を広島警備担任へ任命 #芙蓉録 #8月6日
1945年8月6日14:00 呉鎮守府より西村春芳参謀が第二総軍司令部に到着。畑司令官より「呉海兵団より陸戦隊一個中隊程度、鉄道輸送の復旧・主要道路の清掃のため、ただちに派遣されたい。」との要請を受ける #芙蓉録 #8月6日
1945年8月6日14:58 エノラ・ゲイ、テニアン島へ帰還。カール・スパーツ少将より機長ティベッツ大佐に対し殊勲十字章が、乗組員全員に銀星章が授与される #芙蓉録 #8月6日
1945年8月6日16:00 壊滅した広島市役所に代わり、広島市防空本部が広島国民勤労動員所千田町庁舎(爆心地より1.2km)に置かれる #芙蓉録 #8月6日
1945年8月6日17:00 呉海軍鎮守府にて救護隊(隊長:山崎増一大尉)編成。部隊輸送のため臨時列車が呉から海田市駅まで運転される #芙蓉録 #8月6日
1945年8月6日17:30 呉海軍工廠調査隊(隊長:三井末男大佐)が広島市に入り調査を開始 #芙蓉録 #8月6日
(“幻の声”に関しては『ヒロシマはどう記録されたか』にて再検証が行われ、原放送所の復旧作業の過程で「広島放送局です。広島は空襲のため放送不能になりました。どうぞ、大阪放送局さんお願いします。」という声は出したとの証言は得たものの、そこに女性はいなかったという)
(広島中央放送局は原爆投下により全焼、原放送所も中継線が切れたため放送不能となったものの、かろうじて地下の放送線がしばらく燃えずに残っていたという話もありますが、未だに真相は不明です)
(なお、広島中央放送局の中で生き残った一人である倉田元放送部員は“緊張すると甲高い声が出る”という事もあって、放送を継続したのではないかという話もあったが、残念ながら「まぼろしの声」の取材をする前年に亡くなっており証言を聞くことはできなかったと書かれている)
1945年8月6日18:00 広島市東練兵場(広島駅北側)に海軍救護本部を設置 #芙蓉録 #8月6日
(なお公式な広島中央放送の第一声は1945年8月7日09:00にNHK原放送所より発せられた知事告諭となっている)
1945年8月6日19:00 テニアン島にて開かれている祝賀パーティの席上、ティベッツ大佐よりスウィーニー少佐に対し、次の原爆投下作戦の指揮を執るよう命令が下される。野戦命令13号に基づき、第一目標は、小倉市。第二目標は長崎市。日時は8月9日 #芙蓉録 #8月6日
1945年8月6日19:00 宮中侍従武官府に「(広島市)特殊弾攻撃をうけ市街大半倒潰」「大爆発に引き続き大火災起こり、午後二時なお延焼中」との情報が届く #芙蓉録 #8月6日
1945年8月6日19:00 比治山神社にて陸軍船舶司令官佐伯文郎中将、海軍派遣救護隊長山崎増一大尉、高野源進県知事の三者合同会議開催 #芙蓉録 #8月6日
緊急連絡:モハ485-1074の車内の自由席プレート盗難発生
犯人は長岡駅下車
犯人の特徴
1,男
2,中学生~高校生ぐらい
3,大型の三脚を所持(節電当のステッカーを貼っている)
4,オレンジのTシャツ
5,身長160-170cm
6,痩せ型
7,撮り鉄
JR4URW 先輩が何処からか手に入れてきた、3CZ50000 を学生時代に見たことがあるお。流石に、それを終段に入れたリニアアンプを作ろうとした人はいなかったけど。