山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

毎日新聞社

2007-10-13 02:15:30 | 旅行・街歩き
竹橋駅にある、毎日新聞東京本社ビルです。
昨日、毎日新聞の文字が大きくなるという情報をテレビで聞きました。
日増しに老眼が進行する私にとって、文字の読みやすい新聞は嬉しいです。
しかし、毎日新聞って意外にマイナーなんですね。
私の故郷静岡の実家ではずっと毎日新聞をとっていたのですが、東京に来てからは、まず毎日新聞の勧誘を受けたことは一度もありません。
営業所もどこにあるんだかという感じです。
押しの強さで、どうしても読売・朝日をとってしまいます。
しばらく東京新聞をとっていたのですが、最近また読売の勧誘に負けてしまいました。

本社があるんだから、毎日新聞も配達してるんでしょうけどね。
このビル、厳密に言うと、全部毎日新聞社ってわけじゃないようです。
毎日新聞社も入っている「パレスサイドビル」とのことです。
画像の左側にNTTコミュニケーションズの大きなビルがありました。

竹橋

2007-10-13 02:00:27 | 未分類過去
国立近代美術館の2階テラスから眺めたところです。
遠くにビルが建ち並び、なにやら鉄塔のようなものも見えます。
屋上に工事のクレーンが載っているものもあります。

皇居のお堀があって、近くには北の丸公園もあり、きれいです。
先日テレビで、皇居周辺をジョギングする人たちのことをやっていたのですが、
意外に排気ガスが多くて空気が汚く、ノドが痛くなったりするそうです。
確かに、この画像を見ても、車が結構走っています。
近くには首都高速も通っています。
しかし、皇居の周囲は道路横断のために信号で止まる必要がないので、
好んで走る人が多いとのことでした。
そして、北の丸公園の中に入ると空気はきれいなのだそうです。

“竹橋”というところ

2007-10-13 01:31:12 | 未分類過去
昨日行った国立近代美術館のある「竹橋」というところは、私にとっては特別な想いのある場所だ。
この近くにある「共立女子大」。実は、私が受験に失敗した大学なのである。
私が初めて1人で東京に来たとき、私はこの地に立ったのだ。
最初に来たときは、場所を知るためであり、次に来たときは受験当日。4年制の文芸学部と短大の国文科を受けたがダメだった。短大を受けたのは4年制に編入できる可能性があったからだ。しかし、いずれも「英語」の点数が取れず、ダメだった。

今、東京に住んでいると、オープンキャンパスなんかがあって学校の様子もわかる。30年前にはそんなものがあったのかどうかも知らないが、学風なども知るよしもなかった。
ただただ、学校案内のパンフレットを見て学校を選択した。
そして、そこに載っている地図を見て、そのとおりに行った。

私は今、中央線沿線に住んでいるので東西線一本で竹橋に行くことができる。
しかし、当時は、静岡県から国鉄東海道線鈍行に乗り、東京まで来た。そこから丸の内線で大手町まで行き、そこで東西線に乗り換えて竹橋で降りるという田舎者にはわけのわからないような経路だった。
受験の日は、始発5時の電車に乗ってきて、ちょうど9時ころには試験場に着くことができた。神奈川県の鴨の宮あたりでやっと朝日が昇ってくるというパターンだった。
大学受験の日、東京駅で階段を踏み外し、5~6段転落した。
大学の試験会場に近づくと、同じ会場に向う同年齢の女子は、真っ赤なコートなどを着ていた。私はなんと高校の制服だった。そんな人は同じ教室の会場には1人もいなかった。
合格発表はできうる限り大学まで見に来るようにとのことだったが、郵送を頼んだ。
後日、薄っぺらな封筒が届き、不合格であることはそれだけで判然としていた。

その「竹橋」である。
美術館の帰りに、約30年ぶりにすぐそばにある大学まで足を延ばしてみた。
こんなところだったか?まるで当時の記憶がない。全く敷地がないというか土地いっぱいに校舎が建っている。校舎の入り口の雰囲気がわずかに思い出された。校舎は一部建て替えられたようである。
近くにはお堀があるが、大学に向う道路近辺の頭上には首都高速が走っていて、落ち着かない場所だ。当時は周囲の様子なんかに目を向ける心のゆとりもなかったのだろう。だから良いも悪いもそういうことには何の印象も持たなかったようだ。しかし、今改めて眺めると、環境的にはあまり通いたいとは思えない雰囲気である。
というのも、もっと広くてきれいなキャンパスの大学はたくさんあるからだ。
近くには北の丸公園などもありよいところではあるのだが、学校近辺はどうも落ち着かない。共立女子大の一部は八王子に移っているようである。八王子のほうが環境はいいだろう。

今、女子大は人気が下がって、それとともに偏差値も下がっているようである。
文芸というのもある意味あまり時代にそぐわなくなってきているようだ。今、どんな勉強をしているのかまるで知らない。学校からは現代都会風の女子学生がいっぱい出てきた。
もし私が今18歳で東京に住んでいても、この大学には縁がなかったかもしれないと思う。
もし今高校生だったら、いったいどこの大学行きたいと思うだろうか?全く見当がつかない。

当時は、共立女子大の文芸学部の劇芸コースに入りたくて仕方がなかったわけだ。
私は、結局別の大学の短大の文芸科に入ったが、その中では文芸コースの人気が高く、入学後の振り分けで、想定外に国文コースに入れられてしまった。短大では、演劇ゼミをとりたいと思っていたのだが、国文コースから演劇ゼミは取れず、近代文学のゼミに入ることになった。これでは他の学校の国文科でも大して変わらず、わざわざこの学校を選んだ意味がなかったかもしれない。
人間とは思う通りには進めないものである。たとえ文芸コースに入れたとしても、演劇ゼミに入れる人数は限られていた。
外語大に入った人なども、いざ入ると勉強したい言語ではない別の言語を専攻させられたりするそうだ。
短大では演劇部も挫折してやめてしまった。国文コースには教職課程をとる人が多かったが、私はそこからも外れていた。
文学はそれなりに楽しんだが、本来の目的と外れた短大生活を終え、出版社に就職した。

最近は、自分の過去を探している。
共立女子大をぐるりと回り、神保町についたが、路線が違うのでまた竹橋に戻ることにした。女子中高等部の校舎入り口にはステンドグラスのようなきれいな装飾がされていて歴史と風格があった。守衛さんがいるので写真は撮らなかった。
女子大はこの付属校から上がってくるお嬢さんも多いわけだ。

こんなところをうろうろ歩いているおばさんは怪しいと思いつつ、東西線の竹橋にもどる。毎日新聞社の横の大きなビルはNTTコミュニケーションだった。
地下鉄を待ちつつ、古くて汚いホームだなと思った。30年前はどうだったのか、それも記憶にないが、今より30年分だけ新しかったことは確かだろう。

(写真は女子大近くのお堀付近。大学とは方向が少し違います。水辺はきれいですが、ビル群がすぐそばまで迫っていますね。)


平山郁夫“祈りの旅路”

2007-10-12 01:27:27 | 美術・美術館
本日は東京国立近代美術館に行ってきました。平山郁夫の展覧会がもうすぐ終わってしまうからです。
最初は特に行く気はなかったのですが、近所の知人がよかったと言っていたのと、先日の岡倉天心のシンポジウムで平山画伯のお話を直接聞き、芸大でパンフレットももらってきたことで、関心が高まりました。
平山画伯の絵は、なんだかよく知っているような気がしていたのですが、考えてみると本物を見たことはほとんどなかったようです。あまりにも有名で、時々テレビなどでも扱われたりするので、知っているような気になっていただけでした。
どなたかもブログに書いてあったのですが、行ってみると大きな絵がたくさんあり、縮小したものではけっして味わえない良さを満喫することができました。
どの絵も丁寧に心を込めて描かれているようでした。音声ガイドを借りて聞きながら見たのですが、平山先生ご本人の声の解説でした。
すべてのことに対してやさしく、こころをこめる人だと感じました。
東洋の広い地域を歩きながら、これだけたくさんの絵を描かれるということは、ものすごいパワーであり情熱が必要でしょう。苦労や苦痛もあるはずですが、絵からはそのようなものは感じられず、落ち着いていて、どれも温かい真心がこもっているようです。それは、宗教的な悟りがあるからなのでしょうか。
音声ガイドの中で「お釈迦さん」という言葉が何度か出てきましたが、その言い方がとても心の和むものでした。このあいだのシンポジウムのときは「天心先生は~」という言い方をされていて、それも岡倉天心を尊敬しているという謙虚な気持ちがにじむような言い方だったと思います。
赤い炎に包まれた広島の絵は印象的でした。地も空も真っ赤で、空に不動明王がいます。地上には原爆ドームなどが描かれています。
この絵は、人間の苦悩や怒り、悲惨さを超越しているようです。それは、あまりにも強い苦しみや悲しみがあった後にこそ、長い年月を経た今になって表現されたものなのでしょう。
この絵の前でしばらくたたずんでいました。
この赤とは対象的に、青い厳島神社の絵も印象的でした。
まだまだ、印象に残った絵はたくさんありますが、今日はこのへんにしておきます。


美術史の復習

2007-10-09 23:09:39 | 美術・美術館
「青木繁と画の中の女」に、明治時代の東京美術学校の様子などが書かれていました。それを読んでいるうちに、「今まで自分は、学校教育でどのくらい美術史を学んだのか?」という疑問がわいてきました。
青木繁の「海の幸」は、美術の教科書かどこかで見たことがあるのですが、この画家の名前に記憶はありませんでした。また、「岡倉天心」という名前も、有名な名前で何か日本文化に関係がある人だという記憶があるだけで、具体的に何をしたかは、まるで覚えていませんでした。「黒田清輝」は、読書をしている女性の絵が記憶に残っているだけです。
この人たちについて、私は過去に何を学んだのか?
それで、30年前の日本史の教科書を引っ張りだしてみました。
東京書籍の高校の日本史の教科書です。

(自由民権運動が起こり、大日本帝国憲法が制定された時代)
教科書の文
「美術界でも、維新直後の神仏破壊の風潮の中で忘れられがちであった伝統の価値が、ふたたびみなおされるようになった。アメリカ人フェノロサは、日本美術の真価を認めてその保存を説き、狩野芳崖・橋本雅邦らの画家を見出し、岡倉天心らと協力して日本画の復興をはかった。その結果、1887年には東京美術学校(現在の東京芸術大学)が設立され、日本画・木彫・彫金の3科にわたり、伝統美術に新生面が開かれるようになった。」

ここでの書き方からいくと、主語は「フェノロサ」です。だから中心人物はフェノロサであったように受取れます。岡倉天心は若い頃にフェノロサの通訳として助手のような役割を果たすうちに、自らも主体となって活動するようになったのでしょう。
このあいだのシンポジウムによると、1868(明治元)年に「神仏分離令」が布告され、そのことによって廃仏毀釈が始まった。つまり仏像などが粗末に扱われ、捨てられたりするようになってしまった。
それではいけないと1871年には「古器旧物保存方」が布告され、文化遺産保護が始まった。
一方、岡倉天心は1877年に東京大学の学生となり、政治学・理在学を学び、そのときにフェノロサに師事します。その後フェノロサとともに行動をともにし、アメリカにも出張し、美術行政、学校制度などを視察して帰国。
その後、帝国博物館の理事・美術部長となり、1890年フェノロサの帰国後に東京美術学校の校長になっています。
つまり、13年間くらいはフェノロサという師が常に岡倉のそばにいたということでしょう。岡倉の働きも大きいですが、フェノロサという人が、日本の美術の発展に大きな貢献を果たしたことは間違いなさそうです。
日本の美術は、学校ができる前は、芸術家ではなく、職人として養成する形式しかなかったようです。それを芸術家を育てる学校として創設したことが、いままでに無い新しいもので、高校日本史の教科書に書かれているように「伝統美術に新生面が開かれるようになった」ということですね。教科書の文を高校生が読んでも、ほとんど理解できません。
 
高校の自分の教科書を見ると、「フェノロサ」「狩野芳崖」「橋本雅邦」「岡倉天心」「1887年には東京美術学校(現在の東京芸術大学)が設立」に囲みをしたり、下線を引いたりしています。覚えたつもりだったんでしょうね。
おそらく、これは授業ではなく、受験のために読んだ部分だと思います。文芸学部の日本史の試験の過去問題では、やはり文芸に関する歴史問題がたくさん出ていたからでした。
(不合格だったので入れませんでしたが・・・。)その受験勉強で、いくらか関心が強まったということもあったと思います。
「フェノロサ」のところに、「鑑画会組織」と自分で書き込んであります。これはいったい何なのでしょうね。今、Wikipediaで調べたところ、「~~~その主な活動はフェノロサによる古美術の鑑定や同時代作品の展覧会~~~」と書かれています。
自分で書きこんでいるんだから、こんなのも勉強したことがあるらしいですが、まるで記憶はありませんでした。

(その後の、日清戦争の頃の時代)
教科書の文
「このころ、法律研究のためにフランスに留学した黒田清輝が、久米桂一郎とともに洋画を学んで、印象派の明るい画風を伝え、日本の洋画界に新風をふきこんだ。青木繁は神話に画題を求めるなど、ロマンに満ちた作品を描いた。」

「青木繁と画の中の女」によると、青木繁は明治33年に東京美術学校に入学しています。黒田清輝は、明治17年にフランスに留学し、26年頃帰国したようです。当時、日清戦争に勝ち、明治政府は西洋文化に大きく目を開こうとしていた時代であり、西洋画が浮上する時代だったようです。岡倉天心は当時東京美術学校の校長であり、最初は西洋画科の設置には反対していたものの、世間の関心や洋画界の動きに逆らえず、西洋画科を設置することを考えたようです。そして、設置された29年には黒田清輝・久米桂一郎が嘱託教授になっています。その後、岡倉天心が校長を排斥されたあとに、黒田清輝は教授となっています。
青木繁が入学したのは、西洋画科ができてまだ4年目であり、黒田は絵画教授法を学びに一時フランスに行っていて、青木が入学した翌年に戻ってきて、絵の指導に当たったようです。青木は黒田の技術を認めていたものの、想像力の点では自分が勝っていると確信していたようすでした。
高校の教科書では、「青木繁は神話に画題を求めるなど、ロマンに満ちた作品を描いた」といとも簡単に書いてあります。そして、“わだつみのいろこの宮”の絵の写真が載せてあり、「わだつみのいろこの宮(東京都 ブリヂストン美術館蔵 )青木繁筆。「古事記」の海幸彦・山幸彦の神話をもとにして描かれた。」という説明がついています。
文章部分には私が「黒田清輝」「久米桂一郎」「青木繁」に囲みをしてあります。
当時は、こんな文章をあまり意味もわからず丸覚えしていたのでしょう。
「青木繁」=「ロマンに満ちた作品」などというキーワードのみ頭の中に入れようとしたのではないかと思います。

今、青木繁についてかなり詳しく書かれたこの本を読んでいて、この人の人物像がくっきりと迫ってきます。
高校時代に「わだつみいろこの宮」の本物の絵を見るなどとは思ってもいませんでした。
東京とは、大学に行きたいとは思っていても、はるか遠くで、そこにあるブリヂストン美術館など考えたこともなかったですね。ここに載っているすべてについて、まるで関心がなかったといっていいでしょう。この教科書の絵についてはまるで記憶もありません。

教科書とはそんなもんなんでしょう。
あとになってみると、ちゃんと載ってるもんですね。


明日から仕事

2007-10-08 21:45:36 | 未分類過去
なんと、4日間も休みだった。岡倉天心シンポジウムのために、休日を一日ずらしたらそういうことになってしまった。
それで、完全スイッチオフ状態となってしまったので、今度は再起するのが大変である。
また、仕事がたまっているのかな~

金曜と土曜はそういうわけで、美術関係の情報収集に出かけたが、土曜の帰宅後は体力減退で昼寝。日曜は庭の草取りをしようと思っていたのだが、以前掘り出してあった球根を植えたのみで、昼を食べるために休憩したまま放置。きょう続きをやろうと思っていたら雨が降ってきたのでやめた。そして、また今日も昼寝。
2日間ほとんど何もしなかったので、体力は消耗していないはずだが、なんだか調子がでない。
明日、着て行く服が無いな~と思う。中途半端な温度である。夏物では寒いし、そうかといって厚手の冬物はまだ早い。
中性洗剤で洗うはずだった秋物の服が、中性洗剤を切らしているので洗えない。洗剤を買いに行くのが億劫である。いったい何をしているのだろう。
あまりにも、行動力が無さすぎる。

なんとなく、「青木繁と画の中の女」(中島美千代)という本を読んでいる。「海の幸」という絵の中のサメをかつぐ漁師たちの中に妙に白い顔をした人がいてこっちを見ている。たしかに本物を見たときもちょっと印象に残っていた。他の男たちの顔が土色で原始人のようであるのに、妙になまめかしいのだ。
その顔は恋人「たね」の顔だとのことだ。青木繁は若くして亡くなったが、愛する女性との間に子どももいたということを知った。美術館の印刷物では、貧しく不幸な短い生涯を終えたという概要を読み、地味ではかない人生だったのだと思いこんでいたが、そんなに燃えるような事実があったのだと驚いた。恋人の顔はいろいろな作品の中にあるとのことだ。絵の中のミステリーっていうか、なんか見てはいけないものを見てしまったような、異様な気分に取り付かれた。
こういう画家の生涯を取材して調べて検証して文章にする著者もいるのですね。

まあ、とにかく明日から仕事だ。
文学でもなく、美術でも芸術でもなく、物理化学の世界へ戻らなければならない。


親から受け継いだもの

2007-10-08 14:29:02 | 未分類過去
人のルーツを見て、感動したりしている私ですが、私自身はなんのへんてつもない家庭に育ち、平凡な父母を目の当たりにして育ちました。
政治家の子どもは政治家に、俳優の子供は俳優に、医者のこどもは医者に、などと遺伝子と環境の影響を受けて、親からのルーツを感じさせる人が多いです。
自分は何なの?と思うと、大して能力もない親から生まれた子どもであるゆえ、なんら才能を開花させることもできないのが当然です。
姉はクラシック音楽をやっていますが、先祖が特に音楽好きだったわけでもありません。とくに何もない親から、特に何も受け継いでいない存在というところです。

しかし、思い出したことがあります。
私の父は、絵が好きだったのです。子どもの頃、家に画集みたいな本があったのを覚えています。
そして、父は自己流で絵を描いていました。それは絵の具でなのですが、自分で切った画用紙大のベニヤ板に書いていて、その描き方は印象派のような点描を取り入れたものでした。
だから、私が小さいころ、父は私にその描き方を教えました。樹木などを書く時に、一面に緑色で塗ろうとすると、木の葉っていうのは全部同じ色ではないだろう、と言って、いろいろな色を点々とつけていく塗り方を教えてくれたのです。明るさや濃さの違う緑や黄緑、時には全然違う色などを混ぜて点を重ねると、ずいぶんいい感じになりました。だから、写生大会で私がそんなやり方で海や山に色を着けていると、同級生がそれをものめずらしげに見にきたりしていました。中にはやり方を教えてという子もいたりしましたが、やはり他の人は海は青、山は緑だ、というのを曲げず、その手法を取り入れた友人はいませんでした。私はそういう父の色つけのやり方を取り入れたおかげか、たまに写生で賞を取ったこともありましたが、物体の形や人間を描くのが下手でした。クラスにはものすごく絵のうまい男の子もいて、足元にもおよびませんでした。

父の仕事は木工でした。建具を作ったり修繕したり、そのほかに内装などをするのが仕事です。父は子どもの頃建具屋をしている叔父の弟子になり、そこで修行を積んだとのことです。父の叔父の家は家具の店をやっていましたが、箪笥やテーブルなど普通の家具のほかに、自然木の形をそのまま利用して作った変な動物の置物など、奇妙なものがたくさん展示してありました。
父はそういう叔父の弟子ですから、木の額縁なども自分で作り、そこに彫刻の装飾なども施していました。それには自分の絵は入れず、私たちが子どもの頃は、姉のそろばんの表彰状などを入れて飾っていたものです。オルゴールや宝箱なども父が木に彫刻をして作ってくれました。勉強机や箪笥も父の手作りでした。

こうしてみると、父は木工職人でしたが、芸術家の要素を持っていたようです。

60歳になる前に死んでしまいましたが、老後生きていたらきっと絵を描いていたでしょう。
母は父が生きているときには父の絵には関心を示しませんでしたが、死んだとたんに家の中に飾ったりしています。
絵の勉強なんかしたこともない父なので、上手な絵ではないですが、今では父の形見となっています。

私が、絵を好きなのはそんな父のルーツかもしれません。
そういえば、母は母で父の死後に水墨画を何年か習って描いていました。
私自身も、絵を描くのは嫌いではありません。
私の中学までの成績は、美術と音楽が一番よかったです。(単に他ができなかったってことですが・・・。)高校ではどちらかを選択しなければならなかったので、音楽をとることとなり、美術ができないのが残念でした。

老後に時間がとれるようになったら、自分でも絵を描いてみたいと思っています。


ルーツ

2007-10-08 13:36:56 | 未分類過去
このあいだ、アメリカ兵だった生き別れの父親を持つ日本女性が、アメリカにいるその実の父親と再会する番組をやっていた。その女性は、認知されてはおらず、幼い時に父が帰国したまま音信不通だった。彼女は父親がいないということ、さらにハーフであるということで、寂しい思いや辛い思いをして育ったが、自分がこれから親となる時期に至り、ついに父親と再会したいと決意したそうだ。
そのことに関して、番組では会うべきか会わざるべきかという議論がなされたが、出演者の中には、父親はすでに新しい家庭を築いていて過去には触れたくない可能性も高いので波風をたてるべきではないというような意見もあった。このようなケースでは、確かにそういう場合が多いようだ。子どもを捨てて去っていった親は、会いたい気持ちはあるが、再婚して新しいこどもできたから、もう関わりを持つことはできない、だからそっとしておいてという人がいる。
番組では結局、ゲスト数人の意見が再会することに賛成という結論にまとまり、いよいよテレビ局が父親探しをした。
そこで、父親を訪ね、その娘の名前を言って、知っているか?と聞いたところ。父はすかさず何の躊躇も無く「もちろん知っている。それは、私の娘だ。」とはっきり答えた。
そのときの嬉しい驚きといったらなかった。いったい日本人の心配と取り越し苦労はなんだったのだろうか?父は日本で子供を作ったことを、消したい過去とも思っていないし、ずっとずっと自分の娘を愛し続けていたのである。それこそが、その子の存在の肯定である。
そんな気持ちがあるなら、手紙や養育費を送るのが普通ではないかと日本人は思う。だから、そういうことをしないということは、娘のことなど忘れて、かかわりを持ちたくないと思っているのだろうと思ってしまう。責任を放棄したものは、愛もないのだというのが日本人の論理である。そして逆に愛はなくても責任を取るべきだと考える。
しかし、この場合その常識はあてはまらなかった。責任は取らなくても、愛は惜しみなく注げるものらしい。一種の目からうろこが落ちた気分だ。
しかし、「愛があった!」ということは、何にも増して嬉しいことだった。
そして、アメリカの祖母や、異母兄弟の弟たちや親族が、全部あなたの家族です、と友好を示したことも驚きだった。
ちなみに、この家族は黒人系で、すべてのアメリカ人がこういう行動様式をとるわけではないだろうが、日本と違うことは確かだ。日本は何かに縛られすぎていると感じる。
日本の場合、過去に子どもを生ませて置いてきたことが、人生の失敗とか、罪悪感とか、そういう考えに強く結びつきすぎる。しかし、アメリカではそうではないようだ。離婚再婚が特別な状況ではない社会だからなのだろうか?

父親は日本まで会いに来てくれた。もちろん旅費や出演料をテレビ局からもらえるからかもしれないが、それにしてもアメリカでも明るい家庭を築いているまともな家族のように見えるので、何か裏があるとか表向きのポーズであるようには思えなかった。

父は成人した娘を抱きしめて、会えて嬉しい、一日も忘れていなかった、愛している、など思うことをしっかりと話していた。謝罪よりも愛を述べる。
こういう姿もやはり日本人のとる行動とは違っていた。日本人はあまり具体的な言葉で気持ちを表現したりしないし、感情も抑える傾向にある。それは、愛よりも謝罪が優先されるからだろう。しかし、こういう場合、愛を優先させるアメリカ人のほうが、感動を呼ぶ。

番組の出演者の中に室井佑月さんがいて、最初から「アメリカ人って、映画をみていてもそうだけど、途中で何かいろんなことがあっても、最後には愛しているよって抱きしめてハッピーエンドじゃないですか。だから会った方がいい。」と言っていた。ほんとうにそのとおりになったので、室井さんはすごいな~と思った。

この番組、再会するかせざるべきかについて、私は「再会する」を支持することが多い。
会いたいと思ったら会えばいいだろう。結果が良いとか悪いとかはあまり関係ない。
会わなければ何も始まらないからである。

アメリカ人の父と、日本人の娘が再会して言葉を交わしたときに、やはり言葉の重要性を感じた。アメリカ人の父は英語でいろいろ語っていた。娘は意味が通じたようだが英語で答えはしていなかった。父は「ごめんね」と片言の日本語も少し話していたようだった。

この子にはこの父の血が流れていて、アメリカに祖母も親戚もいるということが、急に大きく感じられた。この子の半分のルーツはアメリカ人である。しかし、あまりにも日本の風土で育っているのだ。この父のようなアメリカ人的思考をこの子はもつのが、生きていくうえでプラスになると思うし、そして英語も話せるようになったほうがいい、と思った。

今まで、父に会うこともなかったので、そういう実感はなかったのだろうが、この子は今後自分のルーツを開拓するのがいいと思う。
英語を勉強してアメリカにわたってみるのもいいのではないか。
ハーフではなくてダブルなんだから。

父を知ることによって、自分自身を知ることもでき、生きる自信が持てるはずだ。

趣味と学問の違い

2007-10-08 01:29:19 | 美術・美術館
親しくしている友人で、絵の好きな人がいて、以前エッシャー展にいっしょに行ったことがあるのですが、今度また国立新美術館や上野の美術館の洋画の展覧会にいっしょに行こうということになっています。
しかし、どうもこの人と私は趣を異にしている。
この人は、好きな絵というのが決まっていて、自分の好きなものにしか興味をもたないようです。
また、勉強みたいなことは嫌いなので、講演などには興味を示しません。
私も好きなものの傾向はありますが、あまりこだわりません。むしろ、芸術的な評価が高いと世に認められているものについては、好き嫌いに関係なく鑑賞し、それについての周辺知識を得たいと思います。
でも、世の中にはそういうことをおかしいと思う人がいます。本当に好きでもないものを見に行くのは好きな振りをしているだけで、そのものの良さが自分でわかっているわけではないというのです。
絵は自分の感性のみで判断するものだということなんでしょう。そして、自分の純粋な感性のみで判断できない人間、つまり好き嫌いではなく、知識によって作品を見るものは、絵の愛好家としては失格だといいたいようです。
「あの人は絵なんか好きじゃないのよ、だって、何でもかまわず見に行くんだから」
「そういう人は、有名なものが好きで、絵そのものを愛しているわけではない」
そんなふうに言いたげな人がいます。

でも、そうなんでしょうか?
芸術というのは、本当に感性のみで理解できるものなんでしょうか?
名作といわれるものには、好き嫌いを超越したものがあるのではないでしょうか?

芸術というのは、感じるものでもあるけれど、学ぶものでもあると思います。

先日、実家の母から電話が来て、岡倉天心のシンポジウムを聞きに行ったのだという話をしたところ、誰といっしょに行ったのか?と聞くので、一人で行ったと答えると、いっしょに行く人もいないのかと驚いたようでした。
シンポジウムを聞きに行ったり、展示を見に行くのに人を誘わなければならない理由があるのでしょうか?私は一人のほうが行動しやすいのです。どこかにでかけるのに、同伴者がいるのがあたりまえ、いなければさびしいだろうと考えるような人との会話は疲れます。

絵の好きな人とどうしていっしょにいかないのか?と言われるなら、私は人といっしょに絵を見て楽しみたいわけではなく、絵についての知識を得たいのだということです。
そして、何が好きかと聞かれれば、絵が好きというよりも、学問が好きなのでしょう。

放送大学の「芸術の理論と歴史」で青木先生がおっしゃっていた芸術の理解の仕方が、このごろだんだんわかってきたような気がします。

適職占い

2007-10-07 17:30:27 | 未分類過去
数日前、脳内メーカーか何かから至ったサイトで、適職診断というようなのがあった。(今は残念ながら、もうみつけられなくなってしまった。)
それも、名前と生年月日のみで、適職を占うような当てにならないものだが、パーセントの多いほうから、3~4個くらい職業名が出てきたような気がする。パーセントとは適職度なんだろうか? それを、本名で占ってみたところ、一番上に出ていたのが「キュレーター」というもので、50何パーセントかだった。
だが、「キュレーターって何???」と思ったわけだ。
それで、この言葉を検索してみたところ、13歳のハローワークのページがでてきたのだった。
キュレーター
な、な、なんと、日本語で一番近い職業は「学芸員」らしいのである。
しかも、ただの館員というよりも、美術品の展覧会などをするときに、その段取りや、展示品を借りたり手配したりすることの交渉などをする人のことらしい。
放送大学で芸術や博物館関連の授業を取ってから、本当に学芸員の仕事に興味を持っていたし、最近、美術の展覧会にはまっていて、企画展というものに並々ならぬ関心を持っている私にとっては、気味が悪いほどぴったりの結果だった。
しかも、キュレーターを検索した時に、これまたはまっている作家、村上龍の13歳のハローワークが出てきたのには驚いた。
キュレーターなんて言葉、ちょっと前の職業案内にはなかったんじゃないだろうか。

この占いが当たるのかあたらないのか、夫や子供でやってみたところ、まるで関係ない職業ばかりが出てきてがっかりした。
でも、1番上でも20何%なので、そこに書かれている職業が彼らに合わないのは当然でもあると思えた。
私の場合、50%を超えているので、こりゃあ名前と生年月日による運命的な天職かもしれない。
しかし、この歳になってからじゃ、遅すぎるんだろうな。

思えば、文学や芸術を自分が渦中で創作するのではなく、それらに対する研究をしたいというのは、高校時代文芸学部に進学したいと思っていた頃からのものだった。
もともとそういうことが好きだったのであり、今初めて湧き出てきた趣味ではない。子育てが一段落して昔の意識がよみがえっただけのことなのだろう。

これから専門職にもならないので、ともすると老人の趣味みたいなことになってしまうが、
何かやってみたいものだと思う。

各占いを総合すると、3年後にプサンに芸術作品の展示の交渉にでも行くんでしょうか?

天国からのメッセージ

2007-10-07 16:50:44 | 未分類過去
天国からのメッセージ」というのをやってみました。
名前と生まれた年を入れると、人生を終え天国に行った自分からのメッセージが送られてくるというものです。
まず、本名でやると、私は2032年72歳で寿命を全うするとのことです。人生の転機は2010年の年末、出張で韓国の釜山に行くことだそうです。
3年後だからちょうど50歳ということですね。
そんな仕事してるんでしょうか?今の仕事では出張なんて考えられないので、転職でもしてるのかな?
ところで、韓国っていうのは実際、一度行ってみたい国なのです。近くて行きやすいし、韓国語の基礎も習っているから、言葉も少しわかるしハングルも少しは読める。日本語を教えた関係で、韓国人の知り合いもいました。
韓国に行って、その人たちに会うつもりはありませんが、韓国という国は日本と歴史的にも関係が深いので一度行ってみたいです。
そして、私が思っていたのは、韓国のチェジュド(済州島)に行きたい。それも日本の福岡から船で行ってみたいというものです。どのくらいの距離なのかを肌で感じてみたいからです。そんな船があるのかないのかよく調べてもみなかったのですが、今見てみると、福岡から済州島よりも釜山のほうが近いみたいです。九州から韓国の船旅となるとその経路になるのでしょう。
そうすると、この占いみたいなのは、まんざらデタラメでもなさそうな気がします。
実は、このサイトを知ったのは、ある人のブログを読んだからですが、その人も偶然ゆかりのある地名が出ていたとのことでした。
それから、私が亡くなるのは2032年だそうです。実は、私は20代のころ、不思議な夢を見たことがあるのです。それは墓石の夢なのですが、その墓石に32年2月22日だか、33年3月22日だか、とにかく3と2がずらずら並んだ数字が彫られていたのでした。私はその数字は何だったのだろうと目を覚ましてから考え続け、2月22日とか3月22日とかを要注意としてきました。昭和32年か33年のその日に誰か亡くなった人が何かを訴えているのかと思ったりしたのですが、そのうち平成になると平成32・33年は要注意だと思うようになりました。しかし、2032年のことかもしれません。

次に、山本飛鳥で入れてみました。2030年冬、ちょっとした怪我がもとで亡くなるのだそうです。70歳です。どっちもちょっと短いようです。85歳くらいまでは生きたいものです。2016年にある人と同居することになるのが転機だそうです。慎重に対処するようにとのことです。
大いに考えられるのは、実家の母親との同居でしょうか。あと9年後ですから、母は84歳です。これもありえない話ではありません。84歳の時点まで母が1人暮らししているくらい元気ならそれは良いことですね。
自分以外の人の未来は、恐ろしいので見ないことにしました。




芸術教育

2007-10-07 01:54:59 | 美術・美術館
有名な画家が、若い頃、普通の中学の美術の先生だったというのを聞いて、今思えばその教え子たちには、なんと貴重な体験だったか、などと思うわけだが、実際、一般的に美術の先生っていうものはどうなんだろう?と思うしだいだ。美術の先生というのは、本人自身どの程度作品を描いているのか?また、どのように生徒に指導しているのか?

自分自身の子供のころからの芸術教育を思い返してみると、まず、絵をほめられたのは幼稚園くらいだろう。幼稚園の先生は、チューリップ1つ描いても上手に描けたわね~とほめてくれるのだ。
しかし、小学校はどうか。私の小学校では毎年写生大会があり、そのときは全校生徒がいっせいに海のそばまで下りていって、一日かけて漁港の様子などを描いたものだった。その作品が展示されると、学年ごとに金銀胴賞が決まり、入賞作品には金・銀・赤の紙が張られる。私は銅賞を取ったことがある。
しかし、その絵について、描いている最中も描き終わった後も、先生から何か言葉をかけられたという記憶はまったくないのだ。もっとここをこうするとよいとか、どの部分がよかったとか、そういうことはまるで聞いたことがなく、ただ、単に総合的にできの良いものに賞が付けられて終りなのだった。
写生大会に限らず、図工の作品でも、ただ創作すれば、作品を提出して終了となり、創作途中での指導などされた記憶がない。
中学になると、デッサンなども始まり、先生もちょっと専門的な感じになり、多少指導らしきことをしてくれた。しかし、とおりいっぺんのことで、やはり個人の個性を引き出すなどというほどのアドバイスなどはなかった。
そして、思うことに、先生自身の作品というのは見たこともなく、先生のお手本というのもほとんど見たことがなかった。しかし、中学の先生ともなれば、美大などを出ていて何らかの専攻があったはずなのだから、とおりいっぺんの教育ではなく、むしろ先生の個性や特技を前面に出した授業をしてくれたらよかったのにと思う。

一方、音楽の授業であるが、中学のときは、女の先生がモーツアルトのピアノソナタK331、トルコ行進曲つきを、ピアノで実演してくれた。レコードを聴かされるよりずっといい。教師ではなく、ピアニストという音楽家としての姿は非常に新鮮な感動を与えるものだった。
高校のときは男の先生だったが、市で年末にベートーベンの第九の演奏会があり、バリトンのソロを歌った。ただの教師ではなく、声楽家というもうひとつの一面がみられてそれも新鮮だった。

芸術系の科目は、その教師自身のそれにとりくんできた姿が見えることがいいのではないかと思える。
音楽はその場で演奏するということがしやすいといえるが、美術などはなかなか披露する機会がないのかもしれない。
しかし、美術の教科書の中の写真よりも、先生本人の作品や創作段階を実物で見せてもらえたら、もっと興味深いのではないだろうか。
学校外での展覧会出品などを紹介してくれるのもいいだろう。

芸術科目の先生というのは、単なる先生ではなく、芸術家であってほしいものだ。

芸術の秋だぞ~

2007-10-06 23:24:16 | 美術・美術館
きょうは、「作家が語る 入江観の世界」というのに行ってきました。
作家御本人の作品にまつわる思い出話や解説を聞きながら、スライドで絵を鑑賞しました。

入江観氏という画家は今まで知らなかったのですが、主に自然の風景を描いていて、青や緑がきれいです。名前は知らなかったのですが、きっと絵はどこかで見たことがありそうです。
入江観茅ヶ崎美術館
入江観日動画廊
なかなか好きな画風です。
入江氏は、東京芸大卒で、その後一旦中学の教員になったそうですが、それからフランスの国費で留学しています。
フランスに行ってからの作風は、日本にいたころと変わって、本当にセザンヌやヨーロッパの画家の描くような配置と色合いになっていました。それは、フランスの風景がそういう風景だからなんでしょう。私は絵を見る目などはありませんが、留学の効果で技術的にも断然進歩したように感じました。
しかし、日本に戻ってからは、日本の景色はフランスとは違うので、しばらく想うような絵が描けなくてスランプに陥ったとのことです。油絵というのはやはりヨーロッパに向いているのでしょうか。フランスで油絵を描いていた日本の画家で、帰国してから水彩画や水墨画に転向してしまう人も少なくないようです。
そういえば、村上龍氏がフランスから帰ってきて、日本の町並みや景色が美しくないと感じるとエッセイに書いてありましたが、それと同様なんだろうなと思いました。
しかし、入江氏はやはり日本の風景を描かずにはいられなくなり、独自の画風を確立されたようでした。そして、30年の後ヨーロッパに行って日本に戻ったときは、すでに自分の画風があったので、以前と同じような状況にはならなかったとのことです。
日本のなんてことない風景が心に感動を与えるのですね。
入江氏は子どもの頃から絵を描くのが好きだったようですが、けっして上手ではなかったそうです。人に才能があるとはどういうことか?それは、やはりそのことをずっと続けるってことだと入江氏は語っています。

昨日、岡倉天心に関するシンポジウムを聞きに行って、岡倉天心は17歳で東大を卒業し、28歳で校長になり、そして、52歳で逝去したということを知りました。なんと若くして大成し、若くして亡くなってしまったのでしょう。人生50年ですね。もし私が52歳までの人生だったら、あと数年で何もしないまま人生を終えることになります。だから、私なんかもう今さら頑張ったところで遅いだろうなどとふと思ったわけですが、目の前のステージ上に平山画伯などは70歳をとうに超えているし、他の方もお年を召していますが、まだまだ元気に活躍されている様を拝見し、人間もっと年をとってからでも活躍できるものだと思いました。だから、岡倉天心は太く短く有意義な人生送ったように見えますが、もっと長生きしたら、もっともっといろんなことができたんだろうと思います。

平山郁夫氏は芸大の水彩画の専攻で、入江観氏は同じく芸大の油絵専攻。入江氏が数年後輩になるようです。
近頃私が行った展覧会の画家を思い出すと、青木繁も山口晃も、みんな東京芸大卒ばかりです。やはり芸大卒は優秀なんでしょう。
岡倉は学生に「飛べ」と言っていたそうですが、平山氏も入江氏も外国に飛びましたね。

入江氏は大学を卒業して中学の美術の先生になったのは、やはり安定した収入を得るためでしょう。芸大は芸術家を育てるのと指導者となるものを育てるという別の方向性というか、両立できるものか、とにかく2通りの者を養成するというジレンマがあるようです。
入江氏は、自作を描きつつも70歳まで女子美術大学・短大・付属校で教職も続けて来られたので、その二つを両立されてきた方ということで、非常に敬服します。
温厚で楽しい方だなと思いました。
こういう味はやはり中年程度では出てこないものでしょう。やはり長い人生で培われているものは偉大です。
ものすごく人生についての勉強にもなりました。

個々の催しが次々につながりを持って、自分に理解と益を与えてくれるのはすごく楽しいですね。

上野へ行こう

2007-10-06 01:31:07 | 美術・美術館
上野ってところは、見るものがたくさんあって、すごくおもしろそうですね。
もし、近所にあったら毎週でも足を運んでしまいそうです。
うちから行くと1時間半くらいかかるので、ちょっと遠いのが残念です。
でも、通えない範囲ではないなと思いました。

上野には何度か行ったことがありますが、今日のように良い印象を持ったことはありませんでした。
それは、今まで行ったのはいつも休日だったからです。休日はもう駅前も公園も人間だらけで、ごった返しているからです。人の多いところは嫌いなのです。
でも、きょうは平日で、いつもよりもずっとすっきりとしていました。

東京国立博物館・国立科学博物館
国立西洋美術館・東京都美術館・上野の森美術館
動物園・旧岩崎邸庭園 など
その他 まだまだたくさんあります。
見学無料のところも多いです。
企画展も次々にあります。

今度から平日の休みを狙って行こうと思います。

きょうは、岡倉天心展は見る時間がありませんでしたので、今度見ようと思います。

公園内の看板の写真を載せておきます。

左:東京芸術大学美術館「岡倉天心展」
中:国際子ども図書館「ゆめいろパレットⅢ」
右:東京都美術館「フィラデルフィア美術館展」