山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

テリー伊藤

2007-02-14 01:57:26 | 未分類過去
テリー伊藤さんは、テレビ番組でいろいろとはっきりした発言をする人で私は好きである。
だが、この人のことも人の意見を聞かない人だということで、嫌う人間が多かったようである。最近ではそうでもないような気がするし、かなり人気もあると思う。
スッキリやサンデージャポンに出ているのを見るのは楽しい。
アタマもきれるなと思う。オーラがある。

この人が、1949年12月27日生まれの団塊の世代である。
そして、左目が斜視なのは、日大生だったとき学生運動に参加していて、投石が目に当たり重症を負ったからだそうだ。このことは最近知ったのだが、目が変わっていることは強い個性の1つと思っていたのが、実はこの人の生き様であったことを知り、感銘のようなものを覚えた。
感銘などというと大げさであるが、たとえばの話、なんとなく周囲の勢いにのってデモに参加していたとしても、そのことにより一生残るような怪我をし、その後はそれを背負って人生を歩んできたということである。たとえば接客業などにつこうとしても顔に怪我の後遺症が残っていたら難しい。職業や就職にもかかわってきたはずだ。それでなお才能を発揮し活躍してきたというのは、やはりその人の並外れた能力である。

やはり、学生時代にそういう渦中にいて、その後の人生を強く歩んできた人だからこそ、今もズバズバと世の中の不正や納得できないことに対して意見を言える人なんだろうと思う。度胸がすわっている。
サングラスと帽子もサマになっているし、ファッションの個性も強く、遊びと余裕もあるところが魅力だ。自分というものをしっかりと持っている人だと感じる。


団塊の世代の特徴

2007-02-14 00:09:46 | 未分類過去
なぜか団塊の世代にこだわる自分である。
この間、団塊の世代のテレビ討論があった後、他の人のブログをいくつか読んでみたら、「団塊の世代の人たちに嫌悪感を覚える」「その世代は嫌いだ」「人の意見を聞かず自分の意見を一方的にまくし立てる」と言うような意見が多かった。
そういう意見は、私よりは若く、どうやら30代前後の人のものが多かったように感じる。
それは、段階の世代の子供くらいの世代なのかな?とも思った。また、新入社員で入った時に、その部署で課長くらいの役職についている人たちに相当するのかな?とも思った。自分の親父世代はたしかに煙ったいかもしれない。

ところで、私たち、団塊の世代より12歳くらい下の世代となると、意外にその世代との接点は少ない。親の世代ではないし、兄弟の世代でもないからである。
小中学校の先生は親の世代と同じであり、思うところ高校時代に教わった若めの先生が団塊の世代に近いように思う。当時30歳前後の先生は今60歳くらいだ。

子どもの頃にしてみれば、12歳も年上といえば、大先輩であり、かなり遠い存在で批判の相手ではなかったように思う。
小学校3年では、大学生が何を考え、何をやっているかもわからないわけだ。
高校時代は2歳年上でも尊敬していた。だからそれより上の先輩は偉大だと思っていた。

私たちの世代は高校のとき「三無主義」といわれた年代である。無気力、無責任、無感動、・・・勉強でもなんでも一生懸命やるのは格好が悪い。もしやっているとしても表面上はやる気がなさそうにしているというのが一般的なポーズである。
それで、実際にろくなことはしていない。

だが、見たことのない過去の先輩はもっとまじめな強いパワーを持っていたというイメージを持っていた。たとえば、体育祭の応援団とか、文化祭などに見られる高校に残っていた伝統からそれを感じ取った。

考えてみると、高校時代の先生はストライキをよくやっていた。授業が何日も自習になるわけだ。今になって思うと、さすがに学生運動の時代の人間らしいような気がする。不思議なことに、周囲の誰もが教員のストライキを批判しなかった。生徒も父兄もだ。それは先生たちの当然の権利だった。今の東京だったら受験に差し障るとか、学費を払っているのに等と言って生徒の父兄が大騒ぎしそうだし、生徒はそんなときにはバカらしいから登校しないと思うが、私たちは素直に登校して自習していた。
まあ、当時は国鉄でも会社でもどこでもストライキが普通に盛んに行われる時代だったが、私の高校は日教組の先生が多かった。考えてみれば、学生運動も日教組のストライキも団塊の世代の人たちが始めたものではなく、その前の世代の先輩に続いて従った行ないだといえる。いずれにしても自分の主張を前面に出して戦うような一時代昔の人たちである。
その世代が個性が強く言いたい放題という特徴は確かかもしれない。思想はそれぞれ違うだろうが、そのような自己主張の強い親の元でその被害を家庭で被っているのがその子供世代であり、嫌悪感が募るのだろう。

団塊の世代は自己主張が強い、品がない、自分本位である、意見を押し付ける、人のことを考えない、などという批判が多い。
確かにNHKの討論でも途中収拾がつかない状況になり、発言の許可も無く勝手に大声でまくし立てる人や、人の意見を最後まで聞かず途中でさえぎる人が多かったなと思う。
それは、パワーがあるという点では長所であり、強引自分本位だという点では短所である。
団塊の世代すべてが、そういう人間だというわけではないが、確かにそのような傾向はあるかもしれない。




1つの時代の終結?

2007-02-13 01:50:46 | 未分類過去
団塊の世代が生きてきた時代というのは何だったのだろうか?
その中に、過激な学生運動に加わっていた人たちがいる。
学生運動と言っても実は私はその内容はよくわからないし、社会情勢や歴史は私の苦手分野であるから、こんなところに何か書けるようなブンザイではないのだが・・・。
確たる思想を持って危険な目にあってまで主張をしたそのエネルギーはすごい。
私は暴力は嫌いだが、納得できないことには黙っていられないような要素があるので、学生運動の頃学生だったら、熱心に運動に加わっていたかもしれない。

それで、私は学生運動をしていたという人から、それについてじかに話を聞いたことはないのだが、実はその後、成田空港に反対している人たちとかかわりをもったことがある。
それはもう1980年代になってからのことだが、自分自身新婚旅行に行くにも喜んで空港を利用していた部類なので、いまさら空港反対と聞いても実感がわかず、まだ続いてたんですか?というのが正直な気持ちだった。

私とその人たちとのつながりは、その空港に反対している三里塚の畑でとれた無農薬野菜を定期購入するというものだった。野菜ばかりではなく、様々な自然食、低温殺菌牛乳などを扱っていたので、子どもが生まれたばかりのころ、健康のためにもよかろうと、その人たちの勧めにしたがってそれらを購入していた。人間の安全を無視した資本主義に対抗するという思想も確かに前面に出ていた。

ある部分では危険思想の持ち主集団と一般社会からは思われていたが、そういうことで付き合う限りは、あまり過激な雰囲気はなかった。
自然食の購入を通して、三里塚の問題にも多少関心を持ち、本などを読んだこともある。
そして、土地の持ち主である農民の運動に、元学生運動をしていたような人たちが加わって反政府運動が過激になっていった流れなどがおぼろにわかった。

だが、結局成田空港反対運動は、空港が開港されて運営され続けるうち、月日を経てだんだん静かになっていった。反対運動をしていた人たちは、その後も意思を変えずに、三里塚の農産物や自然食を売りつつ生業をたてていたように思うが、1990年もすぎると、政府の謝罪もあったとかで、その影響もあってか、私がやりとりしていた人たちの活動は以前ほど盛んではなくなったようだった。普通の仕事に転職する人もいたようで、実質的には解散したのかもしれない。

私も、子供が成長するとともに仕事を始めて自宅にいなくなり、また、家計上も高価な自然食などを買う余裕がなくなり、スーパーの安価な農薬使用野菜と高温殺菌牛乳等を食すようになっていった。

全共闘として過激熱心な活動をしていた学生が、企業に就職したりはせず、セクトとなって社会活動を続け、成田空港反対運動などをし続けていたようだ。その人たちは、かなりの長い期間人生をそれに使ったのであり、中年になって安定した職業に就くというのもなかなか難しかったのではなかろうか?
自然食を売って御用聞きや配達のようなことをしている人たちが、意外にすごい大学をでていたりするのに驚かされた。結婚していない人が多いようだった。
そのグループには団塊世代以上の人もいたし、もっと若い世代もいたが、いずれも長期にわたってある活動に人生を費やしているわけだった。
その人たちは無農薬野菜を広めたり、アメリカ軍の基地や核持ち込みに反対したりなどし、私はその主張に賛同はできるものの、積極的に活動に参加するほどの意義は見出せなかった。

ところで、成田空港は土地買収ができないため、いつになっても完成されず、長い期間中途半端な形で運営されていた。そのような形でも日本の表玄関としての国際空港として活躍し続けてきたが、最近では都心からも遠く不便であるし、騒音問題もあるために、成田だけに表玄関としての役割を課すのは無理があるという見解に至っているようだ。成田1つでは便数も過密すぎるし、海が近い羽田も国際空港として活用するべきという動きがでているそうだ。

空港側は今もなお、土地買収、滑走路完成の希望は捨ててはいないようだが、成田に関する最も激しい時代は終わったような感がある。最初の土地所有者の世代も代わっているようだし、1969年ころの学生運動から移行し関わっていた世代も、もう60歳近くになってしまったということか。

あの学生運動の時代に、同じ場にいた人たちにも様々な人生があったと思う。
卒業後には大企業に勤め、経済を発展させ、バブル期をすごし、その後も生き残り、多額の退職金をもらって会社を引退しようとしている人がいるが、大学を卒業し、そのまま反政府的な活動をし続けた一部の人たちもいるのか・・・とふと思った。


ガス湯沸かし器

2007-02-12 22:44:27 | 未分類過去
ガス湯沸かし器の一酸化炭素中毒の事故がまた問題になっている。
室内に燃料を燃やす装置があるかぎり、こういう事故を皆無にすることは完全には無理だと思える。
ガス湯沸し器や風呂釜が室内にあるなんて、古い公営住宅くらいかと思ったのだが、まだまだこういう形態の器具を使っている家がたくさんあるようだ。
うちの室内ガス湯沸し器がリンナイだかパロマだか、型は何番だかよくわからない。
古くなっていてそんなものは消えてしまっているようだ。
ガスコンロの真上という最も酸素の足りなくなる場所に設置されている。油でべとべとになった表面をマジックりンで掃除していると何年か後にはシールの文字などは全部消えてしまうから、張ってあるものから文字を判読することはできない。
このあいだ、点火してもすぐに消えるということが続いていて、いよいよ寿命かと思っていたら、なんだか持ち直して最近はちゃんとお湯がでてくる。
ところが、今日のテレビによると、不完全燃焼の場合、安全装置が作動して火が消えるようになっているが、それでも何百回も点火を繰り返していると、安全装置が働かなくなり火がついてお湯がでるのだという。まさか、それではないだろうなと思ったりした。
リンナイの社長さんは、換気扇を回さないで湯沸し器を使うのは想定外だというようなことを言っていたが、何年か前は逆に台所で換気扇を回したために風呂釜の排気が逆流して室内に吸い込まれ一酸化炭素中毒を起こすという死亡事故があったため、換気扇は回さないようにしているのだった。
要するに、風呂釜と台所の湯沸かし器を同時に使用してはいけないということになる。
また、火を使うときは窓を開けるのが一番安全だということになる。
とは言っても、風呂を沸かしながら台所で湯沸かし器のお湯を使って食器を洗うなどということはよくあることでなかなか難しい。また、寒いから暖房をするのであり、暖房をするときに窓を開けるというのは矛盾しているし、我が家では以前からも書いているようにネズミがベランダに出没していて、油断すれば室内に入ってくる状況なので、夜窓を開けることはできない。
しかし、死にたくはないから、一酸化中毒にならないようにいろいろと注意を払い、安全装置などを過信せず、自分で自分の身を守っていくしかないと思う。
責任は危険なものを製造した企業にあると言ったところで、危機にさらされているのは使用者なのであり、100%安全な装置などはありえない。自分の身は自分で守るように気を配ろう。


パソコンを始めた時

2007-02-12 16:26:53 | トラックバック練習・ご意見板
パソコンの前はワープロを使っていた。
夫は私より早くからパソコンを買いチャットなどして遊んでいたが、いつも独占していたし、私は操作がわからないのでそれに触ることはなかった。
職場では、6~7年前、日本語学校の教員室にひとつだけパソコンがあった。それを使う人は使っていたが、私は消し方もわからない状況だった。
機械というのはスイッチを押してオフにすればいいと思っていたが、パソコンはそのような消し方をしてはいけないと聞き、消す必要のあるときは、操作のわかる同僚がやっていた。

そのうち、パソコンがあればメールで文書を送ることができるので、パソコンを自宅に持つ同僚が増えてきた。
日本語学校では講師たちがテストや問題集などを部分ごとに分担して作ったりする。それをまとめてひとつのものにするわけだが、決められた日までに集めるためには、非常勤講師が授業のない日にわざわざ持参するなどということもあった。
持参できない場合はファックスで送ることもあったが、そのまま使うとあまりきれいではない。また、内容の一部変更などができない。そして、人によって文字数や行送り・字体などが違って何枚かの連続したプリントにすると変だった。
そのようなことを解消するためには、ファックスで送られた内容を常勤講師が打ち直すという手間がかかってしまった。
それが、パソコンのメールに添付して送れば、変更も編集も自由にできるわけだった。

私がパソコンを習い始めたのは平成14年で、同じ頃自分のパソコンを買ったようだ。そのとき文化センターのワードの講座を20回くらい受けに行った。教室には女の先生が2人いて、個人レッスンで初心者にわかりやすく教えてくれたので、基本から無理なく教わることができた。
最初はマウスの持ち方もわからないし、右・左クリックだとかダブルクリックだとかもわからない状況だった。
そこで初級コースを修了し普通の文書を打つには困らない程度にはなった。
ワープロはお払い箱になり、その後は授業で使うプリントもパソコンで作るようになった。

その後、不動産会社に勤めていたときには、毎日パソコンで報告書を打っていた。
きまったフォームに入力するのと、ワードで文書を作ることだった。
特に必要にせまられたわけではないが、その会社で、無料パソコン講習が行われるというので、やったことのなかったエクセルを選んで受けたのだが、このときは散々だった。
1日で初級を終わらせるという超特急のもので、ひとりの講師の説明による10人以上の生徒という形の一斉授業だった。進み方が速すぎて、覚える前に次々に進んで行くから追いついていけない。
ちょっと手が滑って何かのキーに触った瞬間にとんでもない画面がでてしまったりした。いったい何がどうしてそうなったのかわからず、講師を呼んで直してもらった。
また、言われるとおりにしているつもりなのに、他の人と同じように進むことができなくて、何度も講師を呼んで質問するような状況で、大恥をかいてしまった。
周りの人たちはぜんぜんそのようなことがなかったので、みんなは以前にいくらかやったことがあるのか、それともアタマの回転がいいのか、いや、私のアタマがよほどバカなのではなかろうかと落ち込んでしまった。

この講習は勤務の無い日の自由参加のものだったが、結果的には後々のためには受けていてよかったとつくづく思う。このときはうまくできなかったことも、そのときにもらったテキストで復習し、表計算など一通りのことはできるようになった。

その後、また日本語学校で働いたときには、エクセルでテストの採点表をつくって平均点をだしたり、出席率を出したりして、成績をつけることができ、それを自宅から学校に送ることもできたので、大変便利だった。

今の会社はワードとエクセルの基本操作ができることが採用の条件だった。アクセスも使うというのでパソコン教室に行って基本を習ったが今のところ特に使うことがなく、内容は忘れてしまった。
今の仕事では毎日パソコンを使うが、会社で共有保存しているデータを取り出して作業をすることが多くなり、自分個人が文書を作成するというのとは違う基本的なパソコンの知識が必要になってきた。それで、入社した当初はまたパソコン教室に通い、不明点が出るたびに教室の先生に聞くということをしていたが、これもすごく役にたった。

わかる人には常識的なごく簡単な操作が、わからない人にはどうしたってわからないわけで、素人の疑問に答えてくれ、すんなりと問題解決してくれるのは大変ありがたい。

まあ、とりあえず、そんな経過をたどって今に至っているしだいだ。



散歩

2007-02-11 16:08:40 | 未分類過去
3日連休ということで、すっかりだらけきっています。
家の中にばかりいたので、ちょっと散歩に出かけました。
何か、春らしいものはみつからないかな~とカメラを持って出かけたのですが・・・
あんまり絵になりそうなものはありませんでした。

・沈丁花のつぼみができていた。
・梅が咲いていた。
・暖冬のせいで、つつじが咲いていた。

写真になりそうな花などは他人様の玄関先とか敷地内なので、さすがに撮影は控えました。
生活の「たたずまい」っていうのかな、ちょっとしたスペースに鉢花を並べたり、水をやるためのやかんがぶら下げてあったり、「いいかんじ」と思う風景がありましたが、やはり人の家のものにはレンズを向けにくいですね。

「歩くために歩く」っていうのはあまり好きではありません。「ダイエットのために歩く」「健康のために歩く」っていうのも、他に目的があるわけではなく、つまらないです。
目的地があるとか、撮影のためとか、取材のためならいいんですが、結局は歩くために歩いてきたようなもんでした。

道路に置いた物干し台、川べりの遊歩道の手すりに干したバスタオルとパンツのオンパレードなど、公共の場の私物化で面白いものがありましたが、やはり人のパンツにレンズを向けることはできないな~と断念。・・・へんなおやじや兄ちゃんが出てきたら怖い。
それにしても、遊歩道に沿った家の人って、遊歩道を自分の庭のようにしたがる傾向があるようですね。必ずと言っていいほど、家とは反対側の遊歩道の端にも、プランターや鉢植えや私物を置いているようです。また、公共の植え込みに布団を干したりなど、日当たりのいいのはわかるんですけど、そこを歩く人にとっては妙な気分です。

それで、ろくな写真も撮らず、コンビニによってお好み焼きパンとチーズケーキを買って帰ってきたというわけでした。

撮れたのは木の梢と青空のみです。
きょうはいい天気でしたね。

高野悦子「二十歳の原点」

2007-02-11 01:40:02 | 未分類過去
団塊の世代のテレビ討論を見たあと、ふと思い出した。
高野悦子という人の書いた「二十歳の原点」という本だ。
これは、本人が自殺する直前までの日記を記したものだったが、このひと、生きていたらちょうど60歳くらいの年齢になるんじゃなかろうかと思った。
その日記の内容から、ちょうど学生運動の時代の人だという記憶があったからだ。
私はこの本を自分が二十歳のときに読んだと思うので、それはこの人が亡くなってからもうすでに10年以上も経った平和な時代だった。

今、簡単に調べてみたら、1949年1月2日生まれとなっている。立命館大学の学生だったようだ。そして、1969年6月に鉄道自殺という衝撃的な最期を遂げている。
こういう概要を読み返すだけでも、胸が重苦しくなってくる。
学生運動がさかんだったのは、私が小学校3年生くらいのころで、そのときの担任の先生のお子さんがちょうど大学生と大学受験生だった。大学が危険な状況で、入試も中止になり、大変なことになっているとのことで、担任は授業もそっちのけでそんな話を小学生に延々と聞かせていた。今考えるとひどい担任だったが、その記憶のおかげで今になっていろいろな過去の社会情勢を自分の記憶と結びつけることができる。

高野悦子はその学生運動に加わっていた。しかし、私の記憶では、彼女は確たる信念でのめりこんでいたというわけではなかったように思う。だから、学生運動に加わる意義を本当には感じてはいなかった。そして、学生運動からはなれた後も様々なことに疲れ果て、自殺へと進んでいってしまったように記憶している。
ひとりの女子学生がその時代に、学生運動にも、勉強にも、仕事にも、恋愛にも、何事にも本当の生きる意味を見出せずに、自ら命を絶ってしまったというなんともいいあらわしようのない、それを読んだときの記憶がよみがえってくる。

きょう、テレビに出ていた人たちは、その高野悦子さんと同じ時代をすごし、死なないでその後40年も生きぬいてきた人たちということだ。

死んでしまう人というのは、どこかしらすごい繊細さがあるものだ。
時代の何がしかの要素がその繊細さに突き刺さってしまうようにも思える。
そのことを通して、どういう社会だったのかを見ることができる。
生きている人たちは逆にどこかしら図太さと無神経さがある。
そして、生きている人たちを見ても、どういう時代に生きてきたかが判るようになっている。

生きている人たちが、学生運動のことに触れ、私に高野悦子を思い出させた。
そのことは、あたかも死んだ彼女が参加し、何かを語っていたかのようだ。
それはその今生きている団塊の世代の人たちの中に、亡くなった同世代の彼女の魂が生きているということかもしれない。

団塊の世代

2007-02-10 23:59:17 | 未分類過去
さっき、NHKで団塊の世代の討論会みたいなことをやっていた。
団塊の世代と一口に言っても、様々な人がいる。
この間の格差社会の討論のときと同じで、団塊の世代の中にも格差があるから、老後の生活に困る人もいれば全然困らない人もいるし、仕事をしたい人、ボランティアをしたい人、趣味をしたい人、何もしたくない人、田舎に住みたい人、都会にすみたい人、など様々であり、結論がでようはずもなかった。
どっちにしても、行き着くことは同じであり、経済の問題、福祉の問題、年金の問題、心の問題、医療の問題、介護の問題、町興しの問題、少子化の問題、教育の問題、など、すべてがつながっている。
団塊の世代の人たちは、これから60歳になり、私たちこれから48歳になる学年より、ちょうど一回りくらい上ということになる。
とりあえず、ご本人たちは、それぞれ思うように、やりたいことをやってくれればいい。
とにかく、受身にならず、働くにしろ、遊ぶにしろ、積極的な姿勢でやってもらいたいというのが私の希望だ。

柳沢効果?

2007-02-09 22:19:31 | 未分類過去
今頃になって、先週のアクセスipの話なのだが、週計1060ipだった。1000を超えたのは初めてで、これは私のブログの最高記録である。1日平均151ということになる。
なんで、アクセスが増えたかと思うと、思い当たることは、「女は産む機会」発言に関する話題で記事を書いたからかな?と思う。
まあ、これは「柳沢さんのおかげ」と言おうか。

その後も柳沢大臣の「子供2人が健全」発言が問題になったりしていたが、そういえば、菅さんも、「東京都は子供の生産率が低い」とかなんとか言ったのだそうだ。
もう、人の言葉の一部を捕らえて悪いほうにばかり受け取るのはやめようではないか。
本当にキリがない。

それに国民ももうこの話題には飽きてきているノダ。
どうせ、関心なんてそんなもんよ。

放送大学次期履修登録

2007-02-08 12:46:29 | 放送大学
1月中に申し込み書類は郵送しました。
今回は、卒業できた場合とできなかった場合の2種類の申し込みをしています。

1 卒業できた場合、「自然の理解専攻」に入学

・数学再入門
・物理の考え方
・問題解決の発想と表現
・英語Ⅱ

2 卒業できなかった場合、「人間の探究専攻」に再入学

・資源人類学
・表象としての日本
・英語Ⅱ

次期の履修科目は、1あるいは2、それに今回単位を落とした科目が加わることになります。
実は今回「基礎化学」は早くも挫折して課題を提出しなかったので、自動的に次期再受講ということになりますが、試験日程が仕事の日に当たっているので、次回は単位をとれません。日程がとれるのは19年後期になります。
たぶん、「江戸文学」は単位を落としていると思うので、もう1回やることになります。

自然系の分野は、現時点では馴染みのない苦手科目といえるので、授業科目案内の冊子を見て、学習段階の基礎から順番に固めていくことにしました。学習テーマは物質科学(物理・化学)を中心にやっていこうと思っています。そして、環境との関係につなげて行きたいと思います。
今まで人間の探究専攻では基礎ができていると思いこみ、赴くままに適当な科目を取っていたのですが、それでは体系的な知識が身につかないことがわかりました。
今度は、興味があるなしではなく、提示されているような取り方に従おうと思います。

どっちにしても、今回は「英語」を入れています。以前挫折して教科書を持っています。
もともと苦手な上に何年もやっていないので、少しでも記憶を取り戻し英語になじんでいきたいと思っています。

これからは、あまり欲張らず、急がず、着実に履修していきたいと思います。
1期、4科目を目標に単位を取っていこうと思います。


他の私立大学の通信を見てみたのですが、1科目いくらという形ではなかったようです。ある大学では、初年度12万、次年度以降8万、教科書配本後の超過滞在年額5万、スクーリングは別料金、というかんじでした。順調に進めば特に金額が高いわけではないようですが、長年かけると高くなりそうでした。
また、スクーリングが昼間連続か夜間連続という集中型で、昼間は仕事が休めないし、夜間も仕事のあと毎日スクーリングに行くというわけにはいきません。これがモンダイです。やはり、放送大学が便利なようです。

好きなお寿司屋さんのネタ

2007-02-08 11:40:31 | トラックバック練習・ご意見板
トラックバック練習板の参加も忘れていた先週です。
かなり遅くなりましたが、一応書いておこう。

と、いっても、低迷状態の私にとって
大きな障害が・・・・
「好きなお寿司屋さん」 のネタ
好きな 「お寿司屋さんのネタ」
どっちなんだ~っ!

「好きなお寿司屋さん」はない、
「お寿司屋さんのネタ」というからには、自宅で作って食べる寿司は除外だ・・・
スーパーで握りずしのセットはときどき買う。だが、おすし屋さんじゃない。

おすし屋さんだとしたら、
ちよだ寿司とか、あとなんて言ったかな?持ち帰りのすし屋なら買うことがあるな。
いや、このまえ渋谷の寿司屋でランチをたべたけど、・・店の名前はわからない。
自宅近くにも回転寿司などあるが、特においしくはない。有名な魚屋らしいが、だいたい、そこで作ったのをショッピングセンターに持ってきて並べて売ってるようだから、同じもんだ。

高級寿司屋でおいしいすしが食べてみたいな~

そういえば、もう何年も前には、まともな寿司屋で寿司を食べることもありました。
成田空港の寿司屋はおいしかったです。出国する前には寿司を食べていくのが習慣でした。
とくに「いわし」がおいしかった!
やはり「鮮度」です。

高円寺の「桃太郎寿司」も、手ごろな値段でおいしいです。
最後にネギトロ手巻きを食べるのが慣わしでした。

今ではほとんど西友のお惣菜売り場で握り寿司セットを買っています。

好きな寿司ネタ。
甘エビ、ホタテ、はまち、かんぱち、中トロ、いくら、うに、かに、あなご、うなぎ、あじ、いわし、さんま、サーモン。

いくら、うに、は当たり外れあり。いわし、さんま、は鮮度が条件。
鮮度のいい「いわし」ほど、おいしいものはありません。







断わる日々

2007-02-07 23:39:04 | 未分類過去
昨日地域の日本語ボランティア教室からボランティア依頼の電話が来ました。
教わりたいと言っているのは中学生なのだそうですが、その希望は日曜日のマンツーマンレッスンでした。これは、日本人ボランティアと外国人が自由な場所で待ち合わせて勉強をするという形態なのですが、日曜日と言えば、役所のロビーや休憩所などが使えない日です。地域センターなども囲碁をするおじさんたちで満員で、自由スペースなどの場所がとれない可能性が高いです。以前引き受けたときも、場所探しでうろうろしてしまったり、外国人が約束の場所と時間をたびたび変更したりで、大変なことになったので、もうこりごりしていました。以前は男性でもあったので、相手の都合に振り回されつつ、なれなれしく街中を一緒に歩かされるのもいやな気分でした。今度は中学生の女の子なので、その点は問題ありません。しかし、毎週日曜日に時間をとられるということは、かなりの拘束となります。
中学生では、これから高校入試も控え、いろいろと深刻な事態なので、協力したいとは思うものの、だからと言って自分の生活を犠牲にはできないと思い、はっきり断わりました。
言いたい放題のことを言ってしまうと、外国人もかなりわがままだと思います。

最近の失速悶々状態はまだまだ続いています。

きょうは、会社で、担当者がいないときは私がやることになっている仕事を依頼されましたが、断わってしまいました。断わったあと、かなりムカついてきました。
やり方を忘れてしまったという自分自身にも腹が立ちますが、1年に1回くらいしかすることがない代理の仕事って、覚えられるものでしょうか?
ずっと前にやり方はおそわったのですが、その後はいつも担当者がやっていたので、私がすることはありませんでした。
ふだん繰り返しやっている仕事ならできます。しかし、普段の仕事とは何の関連性もない仕事で、会社の仕事の流れなども教えられたことがないのに、その仕事をごくたまにしろというのはどうなんだろう?その仕事は、書類を作成して社外に送信するものだったのですが、間違いがあったら困るとも思い、断わりました。
あとになって、いろいろとパソコンを開いたり過去のメモなどを読んで仕事を思い出したら、そんなに難しいものではなかったのですが、やはり1年も前に教わったことは記憶から消えていたのです。細かいことを書くとキリがないので書けませんが、いろいろと思うところはあります。

何か仕事を与えられて、それがちゃんとこなせたら能力を高く評価されると思いますが、その逆のことをやっています。こんなことをしていたら、仕事内容が拡大されるなんてことは期待できません。逆に何を頼んでもできない人だとされて何も頼まれなくなるでしょう。

なんだか、断ってばかりの最近で、さらに落ち込む状況です。

失速とゴテゴテ

2007-02-06 23:53:14 | 未分類過去
目が結膜出血を起こしたときに、放送大学の勉強が失速したのですが、なんだか、そればかりではなく、ブログも失速、仕事も失速という感じです。
マラソンで順調に走っていた人が、急に調子を崩し「まさかの失速」などとよく言われますが、ふとしたことをきっかけに失速してしまうものですね。
ブログはいろいろと書き始めるのですが、なんだか途中で考えがごてごてになってきて中断してしまう状況です。

仕事のほうは、校正、書類チェックの結果の振り返り方法について、私自身の考え方と会社の考え方が合わず、ちょっともんもんとしています。
今の会社は理系の人ばかりです。私は文系で出版社出身で、さらには日本語教師だったので、統計的にどういう間違いがいくつある、多いの少ないのではなく、「どのような状況において、どういう間違いが多くおきるのか、それを無くすためにはどうしたらいいいか」「技術者として普通に使う言葉だが、日本語としておかしい言葉、非常にわかりにくい文章」などということに焦点をおきたいと思っています。

しかし、今の会社の上司や同僚は、ミスの数を表とグラフにまとめて統計的に示すということで、各書類作成者にフィードバックをしようとしています。修正箇所をひとつづつ数え、それを数値としてまとめるのにはかなり時間がかかります。そのことにどれだけの意味があるのかわかりません。

忙しいときには間違いが多くなるのはあたりまえだし、より複雑な内容の書類を作成するひとはそれだけミスも多くなるのはあたりまえです。
図面のミスが多い人がいたとしても、それはその図形が複雑だったからで、簡単な図面のものを担当すればミスが起こらないのは当然です。

確かに数値を見て、間違いの多かった種類のミス(たとえば誤字脱字、たとえば符号まちがい)に今後気をつけようと思うかもしれませんが、それよりも、そのミスがどうして発生するのかということが重要な気がするのです。
ミスの数の統計だけを見て、そんなことがわかるわけではありません。

それは、校正者が「言葉」で説明しなければいけないと思うのです。たとえば、「古い図面を利用し、一部を変更したためにおきていることが多い。」「手書き原稿が汚いために数字や記号が読み取れず間違ったものが記入される」などということを指摘することが大切なことではないかと思います。「図面のミス=37箇所」というようなことでいいのかな~??
しかし、命令されていることは、表とグラフを作ることのみです。

パートタイマーだから、命令されてもいないことには時間を使えないし、言われたことだけやってればいいのか?
フラストレーションをためつつ、昨年の修正箇所を延々と数え、表とグラフ作りに打ち込むしかない毎日です。

もうゴテゴテのままで、ブログ更新します。



自分の毒に

2007-02-06 02:00:12 | 未分類過去
放送大学の試験も終わり、かなり気がぬけている。
ひさしぶりに、とある掲示板に漢字を尊重する書き込みなどしていたら、こっちを書く暇がなくなった。
自分の意見などを書くと、自分自身の毒に毒されたような気分になる。
意見や主張をすると、かなりエネルギーを使う。

高校生の頃、演劇に夢中になっていて、演劇評論みたいな同人誌(?)を気の合った友人と一緒に作ろうとしたことがあった。当時は、文学座の太地喜和子さんが活躍していたころで、太地喜和子について書き始めたが、結局第一号もつくらずに挫折してしまった。
そのとき、それに使おうとしていたペンネームが、「テアトロ泥子」という。

昔から、どうもすっきりしない人間だ。演劇作りなどでも結構自分の意見を主張してきたが、それは、まわりにドロをかけ自分自身も泥だらけになる気分だった。別に相手を侮辱するとかいうわけではないが、意見の違う人に意見をぶつけるということは、少なからず相手を不愉快にさせるわけだ。
いつも自分についてそのように感じていたので、そんなペンネームを思いついた。
姓は当時毎月購読していた演劇誌が「テアトロ」だったので、それにした。

太地喜和子さんについては、崇拝に近いものだった。私は文学座が好きだ。当時は水上勉の「飢餓海峡」などを上演していた。
当時私は重いテーマの地味な台本を選び、しっかり内容分析をしてから劇を作っていくべきというような主張をしていた。
しかし、演劇部の中には宝塚の「ベルサイユのバラ」のまねをして、「マリーアントワネットはフランスの女王なのですから~」などといって楽しみたいだけのような人もいたわけで、私のような堅苦しい劇作りを敬遠する人もいないでは無かった。そして、自分でもそんな自分自身の灰汁を感じていた。

短大のころ、自分につけようと思った名前は、「まろや」である。
「まろや」とはきれいな名前だ。「まろやか」を連想するだろう。
しかし、「まろや」は「雨月物語」に出てくるへびの妖怪で、人間の女の子に化けたときの名前である。大蛇の化身である女主人にお供していた。
その音に意味のある文字をつけた。「真路矢」。
真の路を進む矢である。男か女かわからないところもいい。
どうもひらがなではなく、漢字の意味にこだわる人間である。


試験すべて終了2

2007-02-05 00:29:33 | 放送大学
本当の最後の試験は夕方4時45分からの「近代の日本文学」だった。
帰りの電車で「これが、放送大学6年間の最後の試験だったか!」と思うとちょっと感無量だった。

しかし、勉強の仕方はお粗末だった。おそらく履修科目を決めるときから、午後一の博物館概論の試験が終わった後、この科目の試験時刻までに間があるのを幸いとし、いざとなったらその間に超特急で勉強しようという魂胆だった。そしてその通りとなった。

偶然にも最後の受験科目「近代日本文学」は、短大時代に専攻していたものだった。
放送大学に入ってから、あまり日本文学に関する科目はとっていなかった。今さら同じことを繰り返すのも面白くないからだ。
しかし、卒業がかかってくるとなれば、もう何でもかまわない。単位をとりやすいに越したことはない。

そんなナメた気持ちで取った科目が、教科書を読んでみると、内容は意外に知らないことが多かった。短大で一通りの日本文学史はやったと思うが、1年間ですべての時代をやったと記憶している。近代だけで半年などはやっていないので、内容はこんなに詳しくなかったと思う。だから、楽をして単位をとるには、あんまり意味がなかった。

だが、試験を始めるときに水色の問題用紙を見て、初めてこの科目は教科書の持ち込みが可能だということに気がついた。大ボケである。
ちゃんと試験案内を見て確かめていたはずなのだが、記述式の博物館科目のことばかり意識していて、こっちはうわの空だったのだ。まさか教科書を見ていいとは思わなかった。ラッキーだ。
勉強してないから自分の記憶だけではほとんどの解答を山勘でマークすることになりそうだったが、教科書を見ることができたし、問題数も少なかったのでなんとかなった。
教科書から答えを探すのは忙しいといえば忙しいが、そのくらいの苦労で単位が取れるとはうれしい。

放送大学はずいぶんと簡単な試験だと感じる科目があるが、そういうのは放送でちゃんと毎回勉強したということを仮定して単位をくれるのかな?と思ってしまう。

これで、単位の数え間違いをしていたりせず、予想通りの科目が合格できれば、無事卒業ということになる。短大2年、放送大学に編入して6年、計8年の大学生活がとりあえず修了。
しかし年月で行くと18歳から47歳まで29年もかかったことになる。

今回は妙に短大の頃のことが思い出された。2年間ではあまり勉強をしていないような気もするが、30年近くも前に勉強したことがいろいろと記憶に残っているのは、やはり勉強したということだったのか。妙になつかしい。

そして、近代文学に始まって近代文学に終わったというのが、意外にもまとまった締めくくりとなった。