山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

事件の前の記憶1

2006-02-26 01:12:47 | 未分類過去
不思議なことに、私の場合、小さいときに身の回りで起こった重大事件そのもののことは全く覚えていないのだが、その直前の記憶が残っている。
それも、つい最近、その記憶に残っていることが、事件の前のことだったというつながりに、初めて思い当たるのである。

私が、3~4歳のころのある日、母が急病になった。母は自分の体の異変に気づいたが、当時は自宅に電話などなかったので、そのまま横になり父の帰りを待つことにした。
その日、私は何もわからず母に話しかけたが、母はコタツで寝ていて相手をしてくれず、私にひとりで外で遊んでいろと言った。そして、母は夕方会社から買えってきた父にタクシーを呼んでもらい、病院に運ばれて緊急の大手術をして、命を取り留めたのだった。
それは、最近母から病気になった日のことを聞いて知ったことだ。

私が、覚えていたのは、ある日コタツに寝ていた母が、「外で遊んでな」と言ったので、さびしいなあと思いつつも言われたとおりに外に出て行き、ひとりで近所のゆきお君の家の前の階段を登ったり降りたりして遊んでいたということだけだった。ゆきおくんは、保育園に通っていたので、まだ帰っていない時間だなあと思い、ゆきおくんの家と自分の家の間をうろうろして遊んでいた。
そして、どうしてそんなことを記憶しているのかまるで判らなかった。ただ、自分は母のいいつけを守ったという妙な誇りのような記憶のみが残っていたのだ。

数年前、カウンセリングの講座のようなものを受けたときに、幼児のころの深層心理を引き出す体験のようなことをした。安らかな気持ちで眼を閉じて自分を子供のころに戻して行き、一番小さかったころの記憶を呼び戻すのである。
そのときに、思い出したのが上に書いた記憶である。
他の参加者たちもそれぞれ自分の幼児期の記憶を呼び戻し、涙を流す人が多かった。例えば、自分が顔や手をべとべとにして何かをおいしく食べていたら、母親がそれを見て汚いと怒り、それがすごく悲しかったという記憶が浮かんできたという人もいた。深層心理に強烈に残った記憶が人それぞれ呼び戻されたのであろう。しかし、私が思い出した記憶は無感情だった。他の人たちが感動する中、「私は何も感じることができませんが・・・」と講師の方に言うと、「たまに、こういうことを受け入れない人もいるものです」と言われた。すなおに催眠術にかからない人というように思われたらしい。
しかし、私は自分が思い起こした記憶が何を意味するのか知りたいと、ずっと思っていた。

何度もその記憶をたどり続け、あるとき母から急病になった日のことを聞いたとき、事実と記憶が一致することに気がついた。

そして、不思議なことに、私は母が病院に運ばれていったときのことは全く思い出すことができず、母が入院中に自分がどうやって生活していたかも全く覚えていないのである。

ただ、母の手術が無事に済んだあと、初めて母の病室に呼ばれて入ったときのことだけを覚えており、父や親戚の人たちがいて母のほうにおいでと言うのであるが、私は病室のベッドに横たわっている母に近づくのが恐くてすぐには近づけなかったのを覚えている。幼児の私は、手術と聞いて、母の体のある部位から、あたかもまだ内臓があらわになっているかのような気がして恐かったのである。当時、「しゅじゅつ」と発音することがまだできず、「しじつ」などと言っていた。

記憶と事実が一致して初めて、その出来事はおそらく私が生まれて初めて「孤独」を感じたときだったのだろうと思った。
そして、母は母自身が大変な状況にあり、私はそれを理解できずとも、直感的に母の言いつけを守ったので、そのけなげな自分を思うと、とたんに涙があふれてきた。

小さい子というのは、事実の出来事を客観的に記憶するのではなく、体で感じる予感を記憶するものなのかもしれない。



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