山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

放送大学、教科の難易度

2006-08-04 10:21:39 | 放送大学
「20世紀の中国文学」についてのアンケートが、放送大学から送られてきました。私は放送を何も聴いていないので、その部分は書けないのですが、教科書の内容については満足しています。非常に判りやすく、著者ならではの解説がきめ細かく書かれていると思います。

この教科で難点だったのは、以前にも書いたように通信課題が難しいということでした。
ひととおり理解しても、それを先生の指示通りにまとめて記述するということが大変な作業で、苦しみました。
そんなことで、1回目はヤル気があったにもかかわらず課題を提出するのを断念してしまいました。
2回目は後がないので、とにかく条件をクリアしない不完全なままのものを出すことは出しました。それで、すっきりしないものがのこりました。いったいどういうレポートが望ましいものだったのだろうか?と。

しかし、課題が戻って来ると、意外にも批判的なことは書かれておらず、感想の部分についてはかなり好意的に受け取ってくださっていると感じ、安堵するとともに、なんだこんなことなら前の期に妥協して出しておけばよかったんだと思いました。

私の場合、この何年かずっと自分自身で切り捨ての線を引いてしまうことが多く、単位を落としてしまう科目が多かったのですが、もしかしたら、その線引きの基準は間違っていて、とりあえずはやってみれば可能性のある科目も多かったのかなと最近思うようになりました。

先生が求めている基準と実際に放送大学の学生が持っている力との間にもしかしたら差があるのかもしれません。先生は難しい課題を普通のものとして出しても、学生がついていけないということがあるように思います。それで、結局は課題を出した時点では高い基準が求められつつも、評価する時点では基準を下げてくださっているのかもしれません。

「課題が難しい」と果たして学生が主張していいものなのか、学生がそう主張したことによって簡単なものに変わることが果たしていいものなのか?それも疑問です。
大学なんだからそのくらいの難しさは当然であって、ちゃんと勉強したうえで、まとめるのにさらに苦しむくらいでなければ大学とはいえないのかもしれません。

「20世紀の中国文学」の通信課題は試験の記述問題よりはるかに難しかったですが、それは自宅で時間をかけてまとめることができるから当然のことであるとも言えます。
単位認定試験で課題と同じような内容を求められたらお手上げだと思って、また試験を敬遠しようかとおもったくらいでしたが、試験ではそんないろいろな条件はなく、もっと書きやすいものでした。時間制限がある中ではそんないろいろな要求はされなかったということで、妥当なものだったといえるでしょう。

大学の本来の「学問の基準」というか「深さ」というか、そういうものは維持しなければいけないと思うので、単に履修しやすく単位が取れやすくなることを求めてはいけないと思います。
しかし、同時に、基準が高すぎるがために、ヤル気のある多くの学生が放棄せざるを得ないような科目があるとしたら、それは残念なことです。

好きで一生懸命やっても難しい科目があり、嫌いなのに簡単に単位がとれてしまう科目がある。
まじめに取り組もうとする学生があきらめてしまい、適当に要領よくやる学生が単位をとりやすい。
そんな「皮肉な状況」もあるような気がします。


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