山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

現実の世界でできること

2014-01-25 01:19:12 | 日記
今日、テレビをつけたら、自分の畑で作った麦を使って自分でビールを作っている人のことをやっていた。麦を育てて収穫し、温度などを調節して麦芽を作る。芽が出る温度やら、それ以上芽が成長しないようにする方法やら、よくわからないけれど、それはそれは大変な作業と行程のようだった。そのあとの行程は、個人が勝手にお酒を作ってはいけないという法律があるので、ビールの醸造所に頼んで製造してもらっていた。そして、できあがった自分のビールをおいしそうに飲み、近所の人にもあげていた。この人は、たくさんの野菜を自分の畑で作って、料理も自分でして、生活していた。
この人が、1人暮らしというのは、ちょっともったいない気がした。家族そろってにぎやかに暮らせたら、それこそ人間の生活の原点ではないかと思った。

この頃は、田舎暮らしや、家族のだんらんにあこがれてしまう。都会の核家族というものに、ちょっと虚しさを感じるこのごろだ。というのは、年をとるごとにだんだん孤独に近づいて行くのかなと思うからだ。なぜ都会にいるのかといえば、そもそもは仕事のためだったのだろう。田舎に帰ると働く場所(就職先)がないと思うからだ。農業でもするなら別だが、このテレビの人のような生活は、どうしたって出来そうもない。

テレビを見ていて、ビールを材料から作るなんてとてもじゃないけどできないなと思った。作り方を教えてもらったところで、そんな面倒臭いことはできないだろう。ビールってのはやっぱり、大きな工場システムに任せて、キリンやサッポロ等に作ってもらったほうが効率的であり、味もおいしいに決まってる、などと思ってしまうのだ。

それにしても、この文明社会で、個人の能力でできることというのはどれだけあるんだろうか。文明の利器がなければ何もできない。それらも、当然のことながら自分で作ることなどできなし、構造がどうなっているかさえ知らない。誰かが作ってくれたものを、ただ買って操作しているだけのことだ。本当に自分の力だけでできることはというと、縄文時代の人よりも少ないに違いない。

最近、星新一の本を読んだんだけど、そういうテーマの短編が多かった。
今、自分から電気製品を無くしたら、いったい何ができるというのだろうか?そして、誰と交流したり情報交換できるんだろうか。
ケイタイも家電もテレビもパソコンも無かったら、目の前にいる実際の人間としかやり取りはできなくなる。急にそうなったときに、どれだけの人とのつながりを自分は持っているのか。

現代社会では、大量生産され、流通に乗った食料や製品を便利に買って食べている。自分で作ることはしない。
ネットで買い物をする。ネットで意見を言う。ネットで社会活動までする。
たとえば、仕事といっても、単に端末に入力をしているような役割の人も多い。情報を操ることは必要だ。それは必要なことだ。でもどうも「リアル」ではない感じがする。どうも実感がわかない。

現代社会では、分業化され、情報が行き交い、そういうものを限りなく駆使して有効に使える人間こそが有能であるとも言える。インターネットなどをうまく活用できるひとこそが充実した人生や生活を送れるとも言えそうだ。そうなると、そういう視点でみて、自分はまだまだ文明の利器を使いこなす能力が足りない部類ということになってしまう。

でも、そういうものを駆使できたところで、何か虚しさが残る。
本当のところ、自分は何一つ作りだしていないことに気がつくし、もはやしようと思ってもできない。
文明にもついていけない一方で、昔の人のような手作りできない自分に愕然とする。

じゃあ、どうしたらいいのか。
結局、個人的には両面に対して努力しないといけないということなのだろうけど、
とりあえず、手作りや手作業というものを見直し、また現実世界で接する人間関係ももっと大切にしないといけないなと思った。

(昨日からいろいろ書き直しているのですが、どうも支離滅裂でまとまりません。)