山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

5月病???

2012-05-16 22:17:17 | 日記

このごろ、まったく気力も体力もなく、寝てばかりいる。
何かしようと思っても、まるでアタマが働かない。今月は大昔勉強していた中国語を復習して、以前の段階まで思いだそうと予定していたのだが、放送大学の放送授業の入門1と2のいくつかを視聴しても、全くアタマの中に入ってこない。
ああ、これ習ったことあるな~と、文法や表現を再確認しても、数分後にはアタマの中に何も残っていないのだ。だから、その表現を使って自分でしゃべったり、文章にしたりなんてことはまるで無理である。
昔習ったことも思い出せないのだから、これから習う新しいことなんかさらにアタマに入らない。
私のアタマはもう終わりか。50代になるとこんなになっちゃうのか・・・と悲観してしまう。

職場では、70代の男性がいるが、この方のアタマはかなりクリアである。次々に新しいことを企画したりして、その前向きな元気さには驚くばかりだ。新聞なども小まめに読んで、新しい情報をとりいれている。所詮、この人は若いころからのアタマのできが違うのだろうという結論に至る。
その年になって、脳が衰えないわけはない。にもかかわらず、明晰な頭脳を維持しているというのは、中年のころは、人並み外れて聡明だったに違いない。

そんなことが分かったところで、自分のボケたアタマがどうなるものでもないので、意味がない。どうしよう~。

実家の母は、80歳にして、かなり脳の柔軟性が無くなってきた。録画されたDVDが3枚しかないので、DVDの再生デッキだけがあればいいと言い張って、録画機能のついたものを買おうとしない。こちらとしては、ブルーレイディスクを買っておいてくれれば、娘の結婚式のディスクも見る事ができるし、テレビ番組を録画したりすることもできると思うが、本人は、テレビの録画はしないから要らないのだと言い張る。DVDを再生するだけのデッキなどという単機能のものを探すほうが、よほど面倒なことだと思うが、電気屋に注文して取り寄せたらしい。その他にも様々なことが母自己流の決まったやり方でしか受け入れられなくなっており、こちらとしては非常にストレスがたまる。

しかし、母のことよりも、自分のほうがまずいんじゃないかと思うこのごろだ。この状況では80歳までボケないで暮らすことは無理かもしれない。母が50代のときは、今の私よりもっとしっかりしていた。

仕事はいつもの習慣でやっている。会社に通うことは惰性でできる。ところが、そうではない日程を入れると、とたんに疲れ果ててしまう。
とりあえず、やる気のでないときはどうにもならないので、何もしないでのんびりすることにする。

面接授業について思うこと

2012-05-16 15:20:41 | 放送大学
このごろ、面接授業は常連化していると思う。それは、長年放送大学に在籍している中高年者たちの通い慣れた場であり、時には先生よりも勝手を知っているような雰囲気を醸し出している。
そのような年輩の学生は、人生経験や社会経験も積み、長年学問を続けているので、それなりの教養がある者も少なくはないが、実際には、大した者でない人たちも多い。
中には、高学歴で賢い人もいるのだろうが、もともと大学を出ていない人たちも多いのだから、正直言ってレベルが高くはない人も多数存在する。
それなので、面接授業では、やたらに偉そうにふるまう人や、トンチンカンで何もわかっていない人など、それはもうさまざまである。
そういう学習者たちを相手にする講師の先生は、どのような人にも適応するような授業内容をなんとか考え出そうとする。授業の内容に満足しない人のために、やたらに参考資料などを配布したりもしてみる。授業の途中で、学習者の意見や質問を聞いたりもする。

その結果、授業の内容がぶれる。学習者のそれぞれが求めるものが違うので、結果としてバイキング料理のようなものになってしまう。

私自身も、面接授業に参加し、よく見る顔ぶれなどに遭遇するにつけ、自分がだんだん常連化していることを感じる。常連は態度が大きくなり、我が物顔になっていきがちだ。
現役の仕事を引退して、時間が有り余っている人などは、面接授業や学習センターのサークル活動を日常生活の場にしている風でもある。
そういう人間に、私はなりたくない。

また、我が物顔の年輩者の中に、新人の若者などが入り込みにくいのは当然である。すでに顔なじみの人に仕切られているクラスというのはどういうものであろうか?
あんまり同じ顔ぶれの溜まり場みたいなものにはならない方がいいと思う。

そんなわけで、自分が放送大学に長年在籍するのもどうかと疑問に感じてきた。
面接授業に出かけて行けば、何かを教えてもらえると思うのも安易な方法である。
本来は、こうではないのだと、職場の人たちを見て感じる。
人に教えてもらって教養を身につけるだけで、満足をしてはいけない。
だからといって、それさえもしないとしたら、自分は何なんだと思うけど、どうも最近複雑な気分である。

自分にとって、放送大学は居心地の良いところだ。だが、だからといってそれが良いとは限らない。
そして、居心地が良いと思う人たちがたむろしているところには、居心地の悪い人がいることも忘れてはならないと思う。

単位なんかいらないけど、面接授業が好きだという余裕のある人も多い中で、何としても単位だけは取らなくちゃいけないという境遇の人もいるはずだ。