山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

遊びに行くなら、南極?北極?

2006-08-04 23:12:52 | トラックバック練習・ご意見板
ペンギンが好きなら南極、白熊が好きなら北極だ、とのことですが、
それで考えたら、ペンギンが好きだから南極でしょうか。
ペンギンはかなりかわいいです。
それに海に潜って泳ぐなんて不思議な鳥ですね。
よちよち歩く姿もかわいいしね。

昔オーストラリアのメルボルンに行った時に、自然のペンギンパレードを見るオプショナルツアーがあり、それに行きたかったのですが、たしか早朝かなんかだったので、こどもに見せたい反面小さい子を起こして行くのは大変なので行きませんでした。野生のペンギン一度見てみたいです。

それから、太郎と次郎が生き残っていた大陸ということでも昭和基地など見てみたいですね。太郎と次郎は偉かったねと思いますが、単に遺伝子が狼に近くて、生き延びる力があったのかなと最近思ったりします。

北極には土が無く、南極には土があるということでも、南極のほうがちょっと安心感があるような気がします。

行くついでに、オーストラリアのタスマニアやニュージーランドの南島に寄ってくるっていうのもいいんじゃないかなあ。
そのへんも行ったことがないので行ってみたいです。

ただし、南極方面はオゾン層に穴があいているようなので、紫外線対策が必要ですね。

ま、当面、南極も北極もどっちにも行きたくはないって言うのが本音ですね。
涼しい北海道でおいしいものが食べたいなあ~

放送大学、教科の難易度

2006-08-04 10:21:39 | 放送大学
「20世紀の中国文学」についてのアンケートが、放送大学から送られてきました。私は放送を何も聴いていないので、その部分は書けないのですが、教科書の内容については満足しています。非常に判りやすく、著者ならではの解説がきめ細かく書かれていると思います。

この教科で難点だったのは、以前にも書いたように通信課題が難しいということでした。
ひととおり理解しても、それを先生の指示通りにまとめて記述するということが大変な作業で、苦しみました。
そんなことで、1回目はヤル気があったにもかかわらず課題を提出するのを断念してしまいました。
2回目は後がないので、とにかく条件をクリアしない不完全なままのものを出すことは出しました。それで、すっきりしないものがのこりました。いったいどういうレポートが望ましいものだったのだろうか?と。

しかし、課題が戻って来ると、意外にも批判的なことは書かれておらず、感想の部分についてはかなり好意的に受け取ってくださっていると感じ、安堵するとともに、なんだこんなことなら前の期に妥協して出しておけばよかったんだと思いました。

私の場合、この何年かずっと自分自身で切り捨ての線を引いてしまうことが多く、単位を落としてしまう科目が多かったのですが、もしかしたら、その線引きの基準は間違っていて、とりあえずはやってみれば可能性のある科目も多かったのかなと最近思うようになりました。

先生が求めている基準と実際に放送大学の学生が持っている力との間にもしかしたら差があるのかもしれません。先生は難しい課題を普通のものとして出しても、学生がついていけないということがあるように思います。それで、結局は課題を出した時点では高い基準が求められつつも、評価する時点では基準を下げてくださっているのかもしれません。

「課題が難しい」と果たして学生が主張していいものなのか、学生がそう主張したことによって簡単なものに変わることが果たしていいものなのか?それも疑問です。
大学なんだからそのくらいの難しさは当然であって、ちゃんと勉強したうえで、まとめるのにさらに苦しむくらいでなければ大学とはいえないのかもしれません。

「20世紀の中国文学」の通信課題は試験の記述問題よりはるかに難しかったですが、それは自宅で時間をかけてまとめることができるから当然のことであるとも言えます。
単位認定試験で課題と同じような内容を求められたらお手上げだと思って、また試験を敬遠しようかとおもったくらいでしたが、試験ではそんないろいろな条件はなく、もっと書きやすいものでした。時間制限がある中ではそんないろいろな要求はされなかったということで、妥当なものだったといえるでしょう。

大学の本来の「学問の基準」というか「深さ」というか、そういうものは維持しなければいけないと思うので、単に履修しやすく単位が取れやすくなることを求めてはいけないと思います。
しかし、同時に、基準が高すぎるがために、ヤル気のある多くの学生が放棄せざるを得ないような科目があるとしたら、それは残念なことです。

好きで一生懸命やっても難しい科目があり、嫌いなのに簡単に単位がとれてしまう科目がある。
まじめに取り組もうとする学生があきらめてしまい、適当に要領よくやる学生が単位をとりやすい。
そんな「皮肉な状況」もあるような気がします。


カキ氷ねえ

2006-08-04 01:31:37 | トラックバック練習・ご意見板
根本的に、カキ氷は食べない。
お店でカキ氷を食べたのは、生まれてから3回くらいだと思う。
もし、食べるとしたら、いちごミルクかな。
メロンでもレモンでもいいけど、ミルクが入ったのがいい。
あずきはあまり好きではない。

なんで、カキ氷を食べないかというと、嫌いなわけではないが、母親の影響だ。

子どもの頃から母が無意味とした飲食物は、
カキ氷・綿アメ・チューインガム・メロンソーダ・コーヒー牛乳・菓子パン
カキ氷は、ただの水と、合成着色料と甘味料のかたまりのシロップからできたもの
綿アメは大きく見えるけどただの砂糖
ガムはただ味がでるだけ
メロンソーダなんか舌ベロが緑になるばかり
市販のコーヒー牛乳は牛乳成分が少ないから、白い牛乳にコーヒーを入れて飲め
菓子パンも甘いだけで栄養がない、パンは食パンを食べるべし

という母だった。
その母に洗脳されて育ったから、
これらのものを食べるときには、なんか罪の意識があるのだ。

でも、今は栄養がなくてもおいしいもの、夢のあるものは
それはそれで価値があると思っている。

娯楽だって人生には大切だと思う。
舌ベロが緑になっても、メロンソーダがおいしければそれでいいんだ。
綿アメがただの砂糖だって、あんなにふわふわなピンクの雲みたいなものが食べられたらしあわせなんだ。
そういうひとときがあってもいいだろう。

母がそれらのものを嫌いなのは、金額と材料がつりあわないという理由も多分にあった。
だから、水と色のついた砂糖水からできているカキ氷がお店で300円もしたら許せないが、自宅でただで作れるならばまだ許せるわけだ。

あるとき、「卓上手動コンパクトカキ氷機」というようなものを父か母が買ってきた。
家で作れば安く済むと思ったのだろう。その機械はプラスチック製で下に吸盤がついていて、テーブルに張り付くようになっていた。冷蔵庫でできる一口大の氷を上から入れると、スロープのように氷が滑り落ちていく。取っ手をぐるぐる回すとその氷が刃のところまで下りて行って摩擦で削れて、下からかき氷となって出てくるという機械だった。
私と姉はおもしろがってかき氷をつくった。勢いよく回して速く氷を出すにはけっこう力が必要だった。なにしろ小さい機械だから、どんなに頑張っても少しずつしか出てこない。のんびり回していると新しいかき氷ができるよりもできたかき氷が解けるほうがはやいくらいである。
シロップを一瓶買ってきたが、やっぱり舌ベロに色がつくのが気になって、コンデンスミルクをかけて食べることに落ち着いた。
でも、関心は長くは続かず、そのカキ氷機はその年かぎりとなったようだ。

故郷には海水浴場があるから、海の家ではよくカキ氷を買っている人を見かけた。店の人は、両手で持たなければもてないような大きな透き通った四角い氷を金属の台の上に乗せた。それには釘のような芯が突き出ていて、そこで氷を固定して、がーっとまわす。すると、一気に器の中に氷の山が出来上がる。そこに注文のシロップをかけて、またその上に少しの氷をかいて載せ、さらに仕上げにコンデンスミルクやシロップをたらし、あっと言う間にカキ氷を作っていた。

その機械は食べ物を作るものには見えず、何かの工作機械のように思った。
観光客が食べるかき氷を、自分とは無縁のものと思いながら眺めていた子供時代だった。