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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

死刑廃止のいま――2018年年末の2人の執行に抗議する

2019年02月01日 | 集会報告
1月21日(月)夜、四谷の岐部ホールで「山下貴司法相の死刑執行に抗議する緊急集会」が開催された(主催:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90公益社団法人アムネスティ・インターナショナル日本NPO法人監獄人権センター「死刑を止めよう」宗教者ネットワーク)。年末ギリギリ、官庁の御用納めの前日12月27日、大阪拘置所で岡本啓三(旧姓・河村)さん、末森博也さんに執行された死刑に抗議する集会だった。

岡本さんは、第1回大道寺幸子基金表現展(2005年)で優秀賞に選ばれ、その後も奨励賞を取るなど5回も応募された方だった。
この集会では4人の方からお話があった。当日の講演順序とは違うが、弁護士による事件の概要、友人のお話を先に掲載する。二人とも旧姓である「河村」さんと話されたので、旧姓で記述する。

●写経に励んだ心やさしい河村さん
小田幸児弁護士は、控訴審から河村さんの弁護を担当したので20年以上の付き合いとなる大阪の弁護士だ。事件の概要と論点を中心に説明した。

事件は1988年1月29日に北浜の風雲児と称されたKさんと秘書的な役割のWさんの2人を殺害し、遺体をコンクリート詰めにし1億円を奪ったもので、「コスモリサーチ殺人事件」と称された。実行者は河村さん、末森さん、Iさんの3人。
河村さんには両親と姉がいた。小さいころはケンカして負けて泣いて帰ってくる、まじめで気の弱い子どもだった。カネがあることで成功するという発想はあったようで、大学生時代はアルバイトに勤しみ、サラ金や水商売に手を染めてヤクザと知り合い、暴力団組員になった。小心者だが強く見せたいところがあった。結婚し子どもが一人いたが逮捕後、子どもが3歳ごろに離婚した。しかし死刑判決確定後に子どもが接見に来るようになった。
末森さんは株の仕出筋の仕事をしており、Wさんから情報をもらいカネを支払っていた。また債権回収などを通じて河村さんと親しくなった。1987年3-4月にWさんの話でKさんが5-10億円を新幹線で運んでいたことを知った。6月ごろ河村さんと、Kさんを拉致しカネを奪おうという話になったがいったん立ち消えになった。12月ごろふたたび計画を練り、Kさんの住所やマンションの調査・確認をしたり、もう一人空手の先生のIさんを仲間に引き入れた。
1月28日Wさんを呼び出し、Kさんを自宅で拉致し29日に殺害し、1億円を奪った。
事件の争点はいくつかある。いつごろから強盗・殺人をしようとしたか、Wさんへの殺意はいつごろ生じたか、強盗殺人なのか、強盗+殺人なのかなどである。強盗殺人なら無期懲役か殺人だが、殺人は5年以上の懲役から死刑と大きな違いがある。まただれが主導権をとっていたかも争点だったが、河村さんが首謀者という判断は一審からずっと変わらず、末森さんも重要な役割で責任があるとされた。Iさんは最終段階で加わったとされ無期懲役でいまも徳島刑務所で服役している。ただ殺害行為の中心はIさんで、無期と死刑のあいだには大きな違いがある。
また計画的殺人でなく、たまたまだということを、何の拘束もせずWさんといっしょにラーメン屋に行ったことを具体的客観的に立証し、1次から3次の再審で主張し、第4次再審請求を申し立て中だった。
彼は逮捕されてから、反省を深めていった。教戒師の先生が浄土真宗で慕っていて、得度し法名ももっていたし、熱心に写経をしていた。また一審の途中から被害者Kさんの父に毎月手紙を出した。何度も書くうちにお父さんから返事が届いた。「たくさんのお便りありがとう、ゆっくり読ませてもらいました。君の現在の心境もわかるような気がしました。あなたも体に十分気をつけてほしいと思います」という内容だった。河村さんの母といっしょに一度お墓にお参りさせてほしい、という話も進んでいた。残念ながらお母さんが先に亡くなりそれはかなわなかった。
死刑になったあと、遺体を引き取ったのは娘さんだった。彼にとってせめてもの慰めになったことと思う。
末森さんは、再審請求や恩赦請求をすすめられても一切断り、粛々と執行の日を待った。
会場に、河村さんの写経や仏画が展示されている。河村さんの字は手書きなのに活字のような書体で、仏画もていねいにていねいに描かれている。ここにも几帳面で小心な彼の性格が表れている。本来は心やさしい人だった。力及ばず河村さんを死刑執行させてしまった。自分の力のなさを詫びたい。

小田弁護士は、河村さんから正月明けに事務所に届いた賀状の「猪突猛進でがんばってください。今年もよろしくお願いします」という新しい年の希望があふれる文面にも触れ、死刑執行は肉体の消滅だけでなく「もう少しすると正月、もう1年がんばれる」と思う、人の心もないがしろにし、虫けら同然に心自体を打ち砕き、押しつぶした。法務大臣や総理は、河村さんたち死刑確定者だけでなく、刑務官や執行する執行官の心も、踏みにじっている。ふざけるなと言いたい。

●書くことで自身を見つめ直した30年
岡本さんの最高裁上告中から20年近く親交があった深田卓さんは、支援者でもあり友人でもあった。

年報死刑廃止」の創刊号(96年)から死刑囚全員に送っていたが、99年6月に河村さんからはじめて礼状が届いたのが交友のはじまりだった。送っていただいたのに礼状も出さず申し訳ないとのおわびと、執行されるまでに自伝を書きたいという内容だった。その理由は、今後似たような事件を防ぎ人命を救うことに役立つかもしれないからというものだった。
河村さんの原稿にアドバイスをし、大阪拘置所で面会し、最終的に5年かけてB4サイズ400字詰め30-50枚程度の原稿が完成した。それをこちらで入力し、彼が推敲する作業を繰り返し、ちょうど第1回大道寺幸子基金表現展の作品を募集している時期だったので勧めたところ、彼は応募した。優秀賞受賞は2作品だったが、そのうちの1つに選ばれた。選考委員は池田浩士さん、加賀乙彦さん、川村湊さん、坂上香さんらだったが、「犯罪をまさにリアリズムで書いている。こういう文章を書いた人をなぜ殺してしまわないといけないのかというところまで読む人を引きずり込み、考えさせることになるのではないか」と講評された。
その後「こんな僕でも生きてていいの(インパクト出版会 2006年4月)というタイトルで発刊された。河村さん自身も、校正をみながら「自分はこんなに悪いやつだったのかと改めて思い知らされた」と言っていたが、犯罪を描き切り、苦しさを避けず自分のやったことを見つめ直すことをずっとやってきた。自分と向き合い原稿を書くことが自分の生き方となり、その後も2008年「生きる 大阪拘置所・死刑囚房から」(第3回奨励賞受賞)、2011年「落伍者」(第7回応募)などを書き続けた。
「こんな僕でも生きてていいの」の出版により、離婚したときに3歳くらいだった娘が自分の父が死刑囚であることに気づき面会に来てくれるようになった。獄中の河村さんにとって、毎日のように娘が面会に来てくれた時期がいちばん幸せな時期だったのではないかと思う。
昨年末12月19日にもらった手紙には「いま、まじめな小説を執筆中。あせらずじっくりやりますので応援してください」とあった。
2017年には再審請求中でも死刑執行が始まり、昨年7月には再審請求1度目のオウム事件の死刑確定者たちですら執行された。河村さんは井上嘉浩さんと100日あまり同じフロアで生活し、処刑の日の朝、井上さんが刑務官に連れて行かれるのを鉄扉の視察孔から目撃した。自分の執行も近いのではないかと確信し、「接見にきてほしい」という手紙を何度ももらった。最後の手紙は12月25日13時付けで「年内の執行はないだろうし、そうあってほしい」という内容だったが、2日後に執行された。
河村さんは、2人の人を殺し1億円を奪ったことは事実であり、冤罪ではないので、執行されるのは当然と考えていた。彼は初めの30年の人生で事件を犯し、あとの30年で事件と向き合い反省してきた恩赦制度が機能するなら、彼ほど恩赦にふさわしい人はいない
いま確定囚で死刑を飛ばされる可能性があるのは、高齢、病気などしかないところまで僕たちは追い込まれている。この死刑の状況をどう突破していくか、みんなで考えよう。

●再審請求中の執行は殺人罪だ
フォーラム90の安田好弘弁護士から、7月の13人の処刑に続く年末の2人の執行の意味と加速化する死刑社会をどのように止めるか、話があった。

12月27日の執行は、御用納めの前日で過去1回あるのみの異例中の異例である。昨年は1年で15人もの執行が行われた。この人数も2008年(鳩山邦夫法相のころ)の一度しかない。12月29日から1月3日までの間は死刑執行してはならないという規定(刑事収容施設法178条)があるので、27日になるともう少しすれば安心して生活が送れると思っておられる。その期待を裏切る残虐な執行だった。
さまざまな考え方がある。たとえば昨年はオウムの死刑確定者13人の執行があったが、それ以外の人を執行しオウムだけを狙ったものだけではないという「弁明」のためという観測もある。あるいは2019年は天皇代替わりの国家慶事の年なので執行しにくい。駆け込みで執行したという見方もある。いずれにしても死刑を断行するという強い姿勢に基づく。
山下貴司法務大臣は12月27日の記者会見で「国民世論の極めて多数が、極めて悪質・凶暴な犯罪については、死刑制度の存置もやむを得ないと考えて」いる。だから「死刑を廃止することは適当でないと考えて」いる、と述べた。しかしなぜ12月27日に執行したかは説明していない。死刑執行が彼の責務であり権限だった。死刑制度について語っても仕方がないのに、説明責任を果たしていない。
再審請求中の確定囚への執行は2年前の2017年に始まった。山下法相はこの件で「再審事由の有無等について、慎重に検討し、これらの事由がないと認められた場合に執行命令を発する」と答えた。つまり法務大臣が再審請求の事由があるかどうか慎重に判断したというわけだ。しかし入管法改正の国会答弁などをみても慎重に検討したなどとは考えられない
わたしは再審請求中の執行は法律違反、殺人罪に該当すると考える。くどいようだが刑事訴訟法475条2項には「但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であった者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない」とある。「6か月以内の死刑執行」期間に算入しないということだ。この規定にない場面(例 確定して6か月を過ぎた後の再審請求中の執行)については、死刑を執行するかどうかは、政府の解釈でなく、国民主権なのだからもう一度国会で議論し法律で定めるべきだ。人の命に関わることだから、法治主義に反するようなことをしてはいけない。再審を受ける権利は命を防衛する憲法上の権利であり、権利を奪うようなことは許されない。法相の判断だけで執行するのは司法権の侵害であり、違法行為、殺人行為だ。小田弁護士に司法の場で争ってほしいと希望する。
オウム事件の死刑確定者執行のときに「一度に12人を死刑にした100年前の大逆事件の時代以前に戻った」と述べたが、実際そうなっている。死刑執行の強固さが一段と強化されている。今回の執行は「一度決めたことは最後まで実現する」という強い秩序感、姿勢を示した。
この状況を打ち砕くにはどうすればよいか。死刑廃止はまだまだ困難なので、わたしたちができるのは死刑廃止の準備をすることだ。「死刑がなくてもよい」あるいは「死刑でなくてもよい」と人々が考えるようにすることだ。個人的意見だが、死刑を確実に減らすには終身刑の導入により、もう一度死刑制度について見直す、あるいは第二の選択肢を設けて廃止の準備をすることだと考える。
彼らは天皇即位と関係なく執行してくるかもしれない。廃止に向けて何を準備するか、どこからスタートするか考え、多くの人のコンセンサスをえられるようにすべきである。

最後に「安倍内閣は一次で10名、二次以降で36名、合計46名という過去最多の死刑を執行し、歴史と世界の流れに逆行する内閣となってしまった。私たちは山下法務大臣に、今回の死刑執行に強く抗議するとともに、再び死刑の執行を行わないことを強く強く要請する」という決議を参加者全員で採択した。
☆この日の集会で、死刑廃止議員連盟の初代事務局長だった二見伸昭さんのスピーチがあった。ごく一部を紹介する。

事務局長だったとき印象に残った3人の法務大臣のエピソードを紹介する。
左藤恵法相は「わたしは仏門の僧侶です。だから人を殺すことはできません」と語った。三ヶ月章法相は突然泣き出し「法相を受けるべきかどうか、三日三晩悩み苦しんだ」と言った。同じハンコを押すのでも山下法相とはまったく違う。後藤田正晴法相は、わたしといっしょに元裁判官の江田五月さんがいたこともあるが「死刑判決を出したのは裁判官だ。
死刑をやるなら裁判官がやればいい。死刑の下請けをオレたちがやるのはいやだ」と言った。
イギリスも世論は死刑賛成だが、死刑をやめた。世論と異なり政治家は死刑反対だ、
死刑廃止は政治家の品格だといわれた。またフランスのバダンテール司法大臣も死刑廃止をしたのは政治家の良心、人権意識だと語った。
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