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菅孝行が語る「越境者・佐野碩の軌跡」

2010年01月05日 | Weblog
12月17日靴の底から冷えてくるような寒い夜、阿佐ヶ谷市民講座で菅孝行さん(評論家)の「越境者・佐野碩の軌跡を、今、読み解く」という講演を聞いた。
佐野碩(さの・せき)は、1905年生まれ、戦前の左翼演劇の演出家で、1931年ニューヨークを経てベルリン、ソ連に渡りメイエルホリドの助手を務める。37年、スターリン体制の下、ソ連を追放されパリ経由でメキシコに渡り、近代演劇を育成し66年9月客死した。61歳だった。菅さんは「自由人佐野碩の生涯(岩波書店 2009年6月)の著者、岡村春彦さんが編集の途中で病気に倒れたため、原稿整理作業を行い出版に漕ぎつけた。

佐野は日本にいたときから、旧制浦和高校でフランス語を選択し東京帝大では法学部仏法専攻だったためフランス語、英語が巧みで、ドイツ、ソ連、メキシコで暮らしドイツ語、ロシア語、スペイン語にも堪能な語学の天才で、世界をまたにかける演劇活動を行った。
佐野の人生を知るうえで、現在と異なる2つの背景に留意していただきたい。
佐野の青春時代は、政治と芸術が対立するのではなく、「革命の目的は政治も芸術もいっしょ」という時代だった。ベルリン・ダダの中心は共産党員だったし、表現主義のトラーはバイエルン革命の活動家、シュルレアリスムのエリュアール、アラゴンもあとでフランス共産党に入党する。海外では新しい芸術と政治運動を同じ人が担っているという情報は日本の若者にも伝わっていた。佐野の青春はそういう時代であったことを前提に考えるべきである。
もうひとつ、当時、ブルジョアや官僚の家に生まれた子弟が「未来は自分たちと反対側の陣営にある。もうすぐ革命が起きる」と、ドロップアウトする流れがあったことにも留意すべきである。「プロレタリアートへの階級移行」という言葉があったほどだ。有島武郎は大蔵官僚の息子、土方与志は伯爵、小川信一は理研グループの創業者・大河内正敏子爵の息子、そして佐野は後藤新平の孫で、父は病院長だった。
演劇人、演出者としての佐野の生涯は3つのステージに分かれる。まず日本でのプロレタリア演劇運動での活動である。最初に演劇にかかわったのは1926年10月移動演劇「トランク劇場」の「犠牲者」(作・久板栄二郎)の演出だった。帝大2年、まだ22歳のときだった。トランク劇場は共同印刷の大争議を支援するプロパガンダ劇団だった。
これより前、1917年のロシア革命とアヴァンギャルド芸術の影響で、日本では21年「種蒔く人」創刊、22年共産党結成、24年築地小劇場開場と左翼文化運動の勃興期だった。左翼陣営では福本和夫と山川均の論争から分派闘争が激化した。演劇の世界でも27年にプロレタリア劇場と前衛劇場に分裂し、佐野はプロレタリア劇場に所属した。
コミンテルンが調停に乗り出し27年テーゼが出て山川は除名、福本は執行部をはずれ再合同への模索が始まった。劇団も28年に東京左翼劇場に統一した。佐野は29年「ダントンの死」を村山知義と共同演出し、フランス語で「ラ・マルセイユーズ」を役者に歌わせた。日本語では上演中止になるからだ。「全線」(作・村山)では中国語で「インターナショナル」を歌わせた。
このころスパイMの暗躍で共産党員の大量検挙が始まり、佐野も村山も30年5月共産党シンパ事件で逮捕された。佐野は偽装転向し出所、ドイツに5年派遣されていた千田是也と交代する必要もあり、アメリカに映画の勉強に行くという口実で出国した。
こうして第2の演劇活動のステージが始まる。31年に横浜港を出港し、ニューヨークでスタニフラフスキー・システムを学びベルリンで国崎定洞、勝本清一郎らベルリン反帝グループと親交を深める。千田と同じようにドイツ共産党に入党した。
32年にはIATB各代表者会議に出席のためモスクワを訪問し5年間滞在することになった。そして33年12月からメイエルホリド劇場の研究員となりメイエルホリドの演劇助手を務めた。
この当時ソ連は、32年の満州国建国で東には日本軍国主義、ナチス第1党躍進で西はナチスドイツに挟まれ、スターリンはソ連の防衛を第一にし、コミンテルンは社民主義者を敵とみなす社会ファシズム論から統一戦線論へ舵を切った。芸術の分野では32年に全ソ作家同盟で社会主義リアリズムが討議された。いくつかのテーゼのなかに、様式の前衛性の追求は社会主義リアリズムに反するというものがあった。本来、芸術は想像力の解放、夢の共有であるはずなのにこれはおかしい。非難の矛先に挙げられたのは、映画ではエイゼンシュタイン、音楽ではショスタコヴィッチ、そして演劇ではメイエルホリドだった。大粛清が始まる。また国家防衛のため、日本人は敵であり、共産主義者でも野坂参三のようなエージェントを除きスパイとみなされ、37年7月末か8月に佐野と土方与志は突然72時間以内の国外退去を命じられる。佐野が退去したあとだが、国崎や杉本良吉は銃殺、メイエルホリドも粛清された。土方は日本に帰国し逮捕された。
佐野はパリ、ニューヨークを経由し39年4月メキシコに到着する。そして佐野の演劇活動の第三ステージが始まり、メキシコ電気労働組合の文化活動に関与する。演劇学校を開設したり「吊るされし者の叛逆」を上演する。しかし、スターリン派からは追放されたトロツキスト、反スターリン派からはモスクワから送られたスパイ、日本社会からはアメリカのスパイとみなされた。佐野がトロツキー暗殺に関与したという説もある。暗殺を試みたシケイロスを支援したからだが、これは「反ファシズム統一戦線」という考えからだと思う。
佐野は演劇人としてメキシコでようやく居場所をみつけた。
戦後、佐野はなぜ帰国しなかったのだろうか。3つのことが考えられる。ひとつは戦前の共産主義運動の関係者がまだたくさんいたので、その人の過去の立場とのしがらみにためらいがあったのではないか、また佐野はソ連やメキシコで家族や同棲者がいたが、日本の妻・平野郁子と親族への後ろめたさがあったのではないか、最後に佐野はフランスやメキシコでも憲兵につけねらわれたので、たとえば違法出国の訴追など権力(日本政府)への警戒があったのではなかろうか。

ここから先は菅さんの講演で語られた話ではない。わたくしが関心をもつ村山知義と佐野の関係を考えてみたい。村山は佐野より4歳年長で、20歳でドイツ留学したりダダの芸術活動をしていた。演劇活動に関わったのは1924年12月築地小劇場「朝から夜中まで」の舞台装置と衣装である。25年9月に河原崎長十郎らと心座を設立し、25年12月日本プロレタリア文芸聯盟創立に当たり美術部員として参加した。佐野とは、トランク劇場、前衛劇場、東京左翼劇場、28年の全日本無産者芸術連盟(ナップ)、29年のプロット(日本プロレタリア劇場同盟)と、27年のプロレタリア劇場と前衛劇場への分裂時を除き、30年5月に検挙されるまで4年間ほぼ同じコースを歩んだ。
以下、村山の「演劇的自叙伝」から佐野との関係が書かれた部分を拾ってみた。
26年1月村山が心座の「孤児の処置」(村山の作・演出)を公演したとき「大向こうから『村山の知恵はそれきりか?』と大声がかかった。私は即座にメガホンをそっちへ向けて『口惜しかったらやって見ろ!』と怒鳴り返したが、あとで聞いたところではそれはマル芸の林、佐野、小川たちが『何とかして村山を社会主義陣営に引き込まねばならぬ。そのためにはあいつをまず怒らせて、それから説得すべきだ』という戦術をまとめて、この挙に出たのであった」(2巻330p)とある。この後、村山はレーニンの「何をなすべきか」やエンゲルスの「空想から科学へ」を読み始める。
佐野が初めて演出した「犠牲者」で、村山と柳瀬正夢は障子・襖・古トタンで舞台装置をつくった(3巻17p)。また前衛座の創立総会は小石川駕籠町の広壮な佐野の家で行われ(3巻27p)、その後稽古場として利用され第1回公演「解放されたドンキホーテ」でも佐野の演出、村山と柳瀬が舞台装置を担当した。村山は役者としても登場した。「公演後の批判会で、佐野は『TOM(村山のこと)のムルチオ伯は冷酷な反動家としての悪辣さが足りなかった』といったので、私は『それならなぜ稽古の間に何一ついわなかったのだ?』と喰ってかかった。すると佐野は『どうもあとからあとから思いも寄らないテが出てくるので、何もいうひまがなかったんだ』とあやまった」と書いている(3巻31p)。村山が役者として舞台に立ったのは、これが最初で最後のことである。
28年に統一した東京左翼劇場の第1回公演は「磔茂左衛門」(作・藤森成吉)を行うことになった。村山の演出・装置で稽古しているとき、「不意に佐野碩が怒り出した。『君たちはそれでも稽古しているつもりなのか?やるつもりのない者は出て行っちまえ!』そのタンカで、緩い、ポカポカした日射しで、少しダレている人達が、一度にシャンとしたものだった」(3巻140p)。ただこの芝居の公演は初日間際に脚本がズタズタになって警視庁から戻ったため「進水式」「やっぱり奴隷だ」(両方とも作・演出 村山)、「嵐」(作・鹿地亘、演出・佐野)の3作に入れ替えざるをえなかった。
29年6月の「全線」は村山作・佐野演出である。村山は自分の脚本は自分で演出する主義で、劇団員の意向ではじめて他人に演出を任せた(「ダントンの死」は場面ごとに佐野と村山が演出を担当する変則的な共同演出)。
村山は「佐野が例の気合のはいった勢いで、代表者達がバリケードを組んで襲撃にそなえる所を、繰り返し繰り返しやっていたことを思い出す。佐野の奴、メイエルホリドに凝って、ビオ・メカニークの真似をやっているな。群衆を幾何学的に組み上げたり、崩したりしていて、どうして現実の切迫した状況が出せようか、こまったことだとは思っていた(略)初めは演技のアラをさがしながら見ていたが、そのうちに、私自身も興奮して来た(略)佐野の、中身はリアリスティックで、しかもその現れは多分にメカニックな集団演技に巻き込まれてしまった(略)それ以降、私は佐野を一流の演出者として尊敬するようになった」と書いている(3巻225p)。佐野は29年にはメイエルホリドのファンだったようだ。
これらの文章から佐野は、ずいぶん勢いのある人だったことがわかる。また村山がだんだん佐野の才能を認めるようになった様子がわかる。佐野の渡航により2人の縁は切れてしまった。戦後村山は、メキシコの佐野に帰国をすすめる手紙を書き、佐野も手紙では「日本に帰る」と書いていたそうだ。しかし20代で別れてから、2度と会う機会は訪れなかった。

☆このあと村山は32年と40年に2回逮捕され、興行取締規則98条により本名では演劇の仕事はできなくなった。
本人の了解を得て名前を借り、北条秀司・菊田一夫・織田作之助らの原作の芝居の演出をした。しかし45年には日本におれなくなり朝鮮でオペラ「春香」の準備を進めた。戦後は、再興した新協劇団や東京芸術座で活躍した。
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