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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

チキンラーメンの女房・安藤仁子、そして池田市

2019年01月10日 | 
現在放映中の朝ドラ「まんぷく」のヒロイン福子のモデルが日清食品の創業者・安藤百福の妻・仁子(まさこ)であることはよく知られている。

仁子の結婚前の足跡は資料もなく不明だったのが、2010年92歳で亡くなったあと「2007年のダイアリー」に少女時代の思い出がつづられていたのが発見され、最近詳細が判明したそうだ。それをもとにドラマ制作や「チキンラーメンの女房(安藤百福発明記念館・編 2018年9月 中央公論新社 194p)が発刊された。
この本によると、百福が戦時中、憲兵につかまったり敗戦後、泉大津で製塩業を営み奨学金問題でGHQに拘束されたり、池田に転居し信用組合理事長に就任したことなど、大筋実話だったことがわかる。細かいところでは、亡くなった長姉に白馬に乗った歯科医が求愛に来たり、ホテルの男性が缶詰をプレゼントしてくれたこと、女学校時代の仲良し三人組がいたことなども実話だった。
もちろん違う点もある。ドラマでは父は福子が幼少のころ死亡したことになっていたが、実際には72歳(仁子は25歳)まで生きたことや、仁子が結婚したのはドラマでは戦時中の1943年だったが、現実には敗戦直前の1945年3月だったこと、勤務先は大阪のホテルではなく京都のホテルだったことなどだ。ドラマには出てこないが、百福は植民地時代の台湾・台南出身、33年大阪で事業を興した。戦後の池田信用組合の話も、実際は華僑系の大阪華銀という信用組合だった。
仁子は1917年北区冨田町(現在の西天満)生まれ、父は福島県二本松出身で人力車の会社を経営、母は鳥取藩士の娘(本当に「武士の娘」が口癖だった)、3人姉妹の末っ子。姉2人は樟蔭女学校だったが仁子は金蘭会女学校卒業。女学校3年のときに父が事業に失敗し、大阪電話局で夜勤の交換手として働きながら休学したり通学したりして卒業。次姉の嫁ぎ先の画家の家が伏見の醍醐にあり一家で転がりこんだ。そこから東山の都ホテルに通勤した。
百福との結婚は1945年3月28歳のとき、その後の人生の変転は朝ドラのとおりだ。チキンラーメン発売は58年41歳のとき、日清食品に商号変更し取締役に就任したのも同年のことだった(母・須磨が監査役就任)。

その後、1963年日清焼そば、68年出前一丁、71年カップヌードル発売、長男・宏基の担当だが76年カップ焼きそばUFO、どん兵衛きつね発売と社業は順調に発展した。
仁子の趣味は書道や鎌倉彫だった。また観音信仰に熱心で51年34歳のころから日帰りで西国三十三所巡礼や不動尊巡りを始めた。2007年1月百福が96歳で死去、仁子も3年後の2010年92歳で亡くなった。
「クジラのようにすべてを呑みこむ。でないと先に進めない」(本書p8))が武士の娘の娘・仁子のモットーだったそうだ。

このような浮き沈みの激しい仁子の人生をカップヌードルミュージアム 大阪池田(正式名称 安藤百福発明記念館 大阪池田)の「安藤仁子展」でみた。「仁子が語る安藤百福と『チキンラーメンの開発秘話』」という2分30秒ほどのインタビュー・ビデオもあった。秘話というほどのエピソードは出てこないが、チキンラーメン開発当時は仁子も、夜2時ごろまで働き翌朝は5時ごろ起床と猛烈に仕事をした。また商品の包装は仁子だけでなく子どもたちも総動員してこなしていた。まさに家内企業だった。
このミュージアムは、1999年にオープンした体験型の博物館だ。発明家・百福にちなんだのか、小麦粉をこねたり延ばしたりするところから始めるチキンラーメンファクトリー(事前予約制)やカップを自分なりにデザインしスープの味やトッピングの具材を選び包装するマイカップヌードルファクトリーなど実体験するスペースがかなり広くとられている。わたくしは、トッピングにネギ・鳴門・コーン・エビを選んだ。また「安藤百福とインスタントラーメン物語」という展示でも、随所にクイズや仕掛けが取り込んである。「カップヌードルドラマシアター」もキャラクターによる説明と初期のVRでできている。幕間の休憩で子どもは待ちあきるので2分前から卵とひよこのアニメを流していた。実際に子どもたちが目を輝かせてみていた。

ところで、池田というところは初めて訪れた町だった。
池田というと、市立呉服小学校の吹奏楽が有名で、毎年西宮球場でやる「2000人の吹奏楽」というフェスティバルで、小学校が呉服、中学が今津、大学が関西学院、社会人が阪急少年音楽隊と、呉服小は定番の出場団体の一つだった。
帰宅してから地図を検索すると呉服小はカップヌードルミュージアムから西に400mほどのところにあったので、見逃して惜しいことをしたと思った。
少し時間があったので、駅を越え線路の北側を少し散歩してみた。城跡のほうに進み右折し上り道を歩くと、阪急グループの創始者・小林一三の屋敷があり、現在は小林一三記念館雅俗山荘というレストランになっている。その他、逸翁美術館池田文庫、阪急の登記簿上の本社がある。阪急グループの聖地のような場所だ。
逆に左折して猪名川のほうに歩くと、古くて大きな商家があり「呉春」の屋号があった。そうだ、呉春は確かに池田の酒だ。水がよい地ということなのだろう。もう少し進むと旧加島銀行池田支店の赤レンガの建物がある。これも朝ドラ「あさが来た(2015)の広岡浅子が設立に携わった銀行の支店で、現在はトータルインテリアカワムラというインテリアや給食のユニフォームの販売店として使われている。そういえば小林一三も、朝ドラ「わろてんか(2017)の伊能栞のモデルらしい。その先にはなぜか落語みゅーじあむや大衆演劇の池田呉服座という劇場があった。落語みゅーじあむは2007年オープンで比較的新しいが、落語の上演だけでなくアマチュア落語入門講座も初級、中級などクラス別で開設している。枝雀の「池田の猪買い」をラジオで聞いたことがあるが、落語と縁のある地なのだろうか。

池田呉服座は能勢街道の街道沿いに江戸時代からあったようだ。ただしいまはビルの中にあり、場所も少し移動しているようだ。三条すすむ、森川竜二など役者の派手なポスターが掲示されていた。

駅までサカエマチ2番街サカエマチ1番街というアーケードの商店街が続いている。商店街なのでもちろん薬局、クリーニング店、ファッション店などもあるが、種苗店や京染・しみぬきの店が現役で存在しているのには驚いた。衣料品店でも「洋装店」という表示があり、とくに2番街はまるで昭和30年代の商店街の様相だった。駅に近いほうの1番街のなかのフジヤでいしだあゆみたち4姉妹が育ったらしい。当時はパン屋・洋菓子店・喫茶店だったが、その後ブティック、朝ドラ「てるてる家族(2003)の舞台である。そうと知っていたら、見に行ったのだが。

種苗店は愛媛県内子の山間の町でも見かけたが、昔は基幹業種だったのだろう。アーケードの両側には「まんぷくと町のキャラクターであるウォンバット」の幟旗が林立していた。
アーケードの駅の近くで、きつねうどんを食べた。別に有名なうどん店ではなかったが、おいしかった。さすが関西である。

その他、池田にはダイハツの本社があり、かつては池田銀行という地銀もあった(現在は合併し池田泉州銀行、本社も大阪市北区)。考えてみると大阪教育大学付属池田小・中・高校も池田にある。
人口10万人程度の住宅地のイメージが強い都市だが、歴史も産業もあり、それも酒造のような古い産業、自動車のように新しい産業もあるかなり大きな町のようだった。地理関係がよくわからないが、大阪国際空港は伊丹にあるものだったと思ったら、池田にも隣接しているらしい。観光資源が豊富なので、やりようによっては、まだまだ観光産業発展の余地がありそうだった。

カップヌードルミュージアム 大阪池田
住所:大阪府池田市満寿美町8-25
電話:072-752-3484 
休館日:火曜日 (祝日の場合は翌日)、年末年始
開館時間:9:30 ~ 16:30 (入館は15:30まで) 
料金:無料(ただしマイカップヌードルファクトリーなどの利用は有料)

☆なお横浜・馬車道にもカップヌードルミュージアム 横浜がある。ただし入館料:大人500円

☆以前にも書いたが、大阪制作の朝ドラのなかでわたくしが最も好きだったのは「てるてる家族」だ。このドラマに中村梅雀が、千吉博士とい役名で出演しており、三女・秋子(上野樹里)が尊敬していた。安西千吉が安藤百福のもじりであることは一目瞭然である。ミュージアムにあった研究小屋もみたし、ダイハツのミゼットも出てきたような気がする。
その他、秋野暢子、中田喜子らが出ていた「おはようさん
(1975)がなぜか印象に残っている。
NHKに引き寄せると、池田城は大河ドラマ「軍師官兵衛
(2014)で田中哲司の荒木村重役がいた城(その後伊丹に移る)だ。
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