多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

芸術の秋の東京国立博物館

2017年10月11日 | 博物館など
■史上最大の運慶展
東京国立博物館で「運慶展」をみた。運慶(1150ごろ―1224)は鎌倉初期に活躍した仏師で、父・康慶も息子・湛慶も仏師という一族だった。快慶と並ぶ代表的な鎌倉仏師ということは知っていたし、教科書
に出てくる東大寺南大門金剛力士(仁王)像の作者(の一人)ということも知っていたが、詳しいことは知らなかった。
会場は平成館の2階。展示は「運慶を生んだ系譜」(父・康慶)、「運慶の彫刻」「運慶風の展開」(息子と周辺の仏師)の3部に分かれていた。現存する運慶の仏像は31体、そのうち22体がこの展覧会に集められたので、「史上最大」というわけだ。

時代は平安貴族から鎌倉武士への過渡期、運慶のデビュー作「大日如来坐像」(1176奈良・円成寺)や仏頭(1186奈良・興福寺)は穏やかな表情だが、「不動明王立像」「毘沙門天立像」(1189横須賀・浄楽寺は、もちろん神の性格の違いもあるが、猛々しく胸板が厚く、腰も太い。毘沙門天は邪鬼を踏みつけているが、邪鬼のふんどしや尻の描写までリアルだった。
水晶を使った玉眼と像内納入品に関し、トピックスのような説明が掲示されていた。NHKドキュメンタリー「運慶とは何者か?」によればこの2つは運慶の彫刻の特徴ということだ。
聖観音菩薩立像(1201ころ 愛知県岡崎・瀧山寺は、ピンクがかった白い肌、朱と緑の着物が鮮やかだった。どうしてこの像だけ退色しなかったの不思議に思うと、彩色は明治との説明があった。有名な興福寺の無著菩薩(1212)や四天王(13世紀)は彩色がはがれかかっていたが、鎌倉時代に完成したときは、もちろん鮮やかに彩色されていて人びとは「ありがたい」と思ったはずだ。それなら鳴門の大塚国際美術館のようなバーチャル展示もありではないか、そのほうが「リアル」だという考え方もある。
もう7年ほど前だが、週刊読書人でデザイン室長の方へのインタビューで「照明や展示を変えた」という話を読んだことがある。一回みてみたいと思っていたが、やっと実現できた。部屋の真ん中に置かれている仏像は光背の裏まで回り込んでみることができる。また壁際に並んだ仏像は、左右から淡いライトが当たり壁にシルエットが薄く投影され、厳かな雰囲気を出している。ただ全体的に室内が暗く、かつ音声ガイドのイヤホンをして歩いている人も多いので、人と人の接触アクシデントが多いようだった。ただし美術館なので、せかせか歩いているわけではなく、事故にまでは至らない。
薄暗くしてあるのは、演出上の効果だけでなく、「温度・湿度・照明は作品保護のため所蔵者の貸出条件に従い厳密な管理をしている」という注意書きがあった。
その他気づいたこととして、仏像をみて、手が実物以上に大きくつくってあり指も大きいことがある。それで指が発する表現力、パフォーマンスがすごい。この点舞踊と同じだと思った。
なおわたくしがいちばん好きだった作品は父・康慶の「法相六祖坐像(1189奈良・興福寺)だった。苦悩する僧、悲しみを湛える僧の表情が非常に人間的だった。

■国宝・重文をはじめ名品が並ぶ東博
次に同じ平成館の1階で特別企画「清朝末期の光景-小川一眞の北京城写真」と考古展示室「日本の考古」が展示中だった。「日本の考古」は全国津々浦々の郷土資料館にある土偶、はにわ、勾玉、銅鐸、鏡、刀剣、瓦などと同じジャンルの物が並んでいたが、大きさや完全度、色などさすが東京国立博物館(以下、東博)というものばかりだった。本館の陶磁器の部屋だけでなく、ここにも伊万里の色絵付き皿や壺、猿投や瀬戸の壺があったが、これだけでも見に来る価値がある。
引き続き平常展をみる。東博の平常展は総合文化展という呼び名だ。本館は何度も行っているので後回しにし、入ったことがない館からみた。

粉青鉄絵魚文瓶(朝鮮 15-16世紀)
昼食を取り、まず東洋館に入った。東洋館は5階建て、5階中国工芸、朝鮮、4階中国絵画・書跡、石刻画、3階中国文明の始まり、工芸、2階インド、西域、エジプト、地下1階クメール、東南アジアという配置になっている。朝鮮のものは駒場の日本民藝館、中国のものはたとえば根津美術館でみたことがある。「粉青鉄絵魚文瓶」(15-16世紀)という白磁の壺は、太い線描の魚のデザインがとても現代的だった。三彩龍耳瓶(8世紀 唐)などの唐三彩もすばらしいコレクションだ。仏像の顔立ちはインド・ガンダーラになるととたんにローマ風に変わる。印欧語族という用語があるが、たしかにインドからイラン、イラクなど西側とアジアは異なるのではないかということがビジュアルではっきりわかった。展示はさらに西のエジプトまで広がる。顔がライオンのセクメト女神(プトレマイオス朝)やパシェリエンプタハのミイラまであった。

次に法隆寺宝物館に向かう。宝物館というので、大きな仏像や厨子があるのかと思ったが、そういうわけではない。維新から10年後の1878年に寺から皇室へ献納された宝物300点の収蔵だそうで、もちろん奈良にも宝物がある。それでも1階の大部屋に並ぶ29体の小さな仏像は壮観だった。銅製鋳造鍍金なので、完成したときは部屋中が輝いていたのだろう。
黒田記念館は、地図では宝物館の西なのだが、いったん正門を出て芸大方向に向かう。150mほど西に行った角に京成博物館動物園駅跡がある。1933年建築で1997年まで稼働していたかわいい西洋建築の建物だ。交差点を渡った右に黒田記念館がある。黒田清輝(1866―1924年)は外光派として有名だが、薩摩出身、17歳のときにフランスに留学し、当初は法学を学ぶつもりだったが2年ほどで画家に転向、9年のパリ暮らしのあと、帰国し、東京美術学校教授、帝国美術院院長などを歴任した。子爵であり貴族院議員も務めた。遺言で逝去4年後に、岡田信一郎の設計で記念館が竣工した。黒田の油彩画約130点、デッサン約170点を所蔵する。2階の黒田記念室一室だけの展示なので大きな施設ではないが、赤じゅうたん、黒階段の建物は趣があった。岡田は鳩山一郎邸(1924年)の設計者だ。ちょっと近代美術館工芸館の館内にも似ているように思った。

黒田記念室
最後に本館に戻る。
ちょうど「紅型(びんがた)ができるまで」というギャラリートークを芸大の院生インターンがやっていた。本館に「アイヌと琉球」という部屋があったが、アイヌ関係のものがほとんどで、琉球は写真が2点あるだけだったので、それを補うものかと思った。
このトークは、沖縄現地で紅型の制作工程を調査した発表だった。具体的には「白木綿地牡丹模様」の型彫、型置、色差など6つの工程と両面染めになっていること、貴族の若い女性用の布地であったことなどの特色が説明された。
わたくしが注目したのは芸大大学院染織研究室の存在だ。ここ数年国展の「織」をみに行っているが、出身大学は女子美か沖縄県芸が多く、東京芸大でも染織をやっていることを知らなかったからだ。

本館2階は日本美術の流れという展示で、縄文・弥生から江戸まで時代別かつ内容別(たとえば平安―室町の時代には、仏教美術、宮廷美術、禅と水墨画の3室あり)で13室、1階は彫刻、漆工、金工・刀剣・陶磁などジャンル別で10室とミュージアムショップ、体験コーナーがある。
どの部屋にも国宝や重文の作品が並んでいる。浮世絵では広重や国貞が次々に並び、「武士の装い」では小袖でシックな黒だが豪華なデザインなものや、能衣装の掛素襖で斬新なデザインのものを見つけた。たいていシンメトリーなのだが、ときに図柄を片側に寄せたものがあった。
なお、国宝、重文以外に「重要美術品」という指定があることを発見した。スタッフの方に伺うと、1950年に文化財保護法ができる前は、1933年制定の「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」で指定される重要美術品という制度があり、その名残なのだそうだ。

織部扇形向付(17世紀)
陶磁器でも伊万里の色絵沢潟文徳利色絵花卉図大皿、織部の向付(会席料理などの器の一種)で扇形で茶と深緑のデザインのものがあった。どちらも江戸時代のものだ。後者は現代のデザインといっても見紛う斬新なデザインだった。
いままで知らなかったもので、馬に乗るときの木製の菊花鞍鐙をみつけた。これもフォルムが美しい。
漆工はいつ行っても好きなジャンルなのだが、菊花紋散蒔絵手箱や秋草蒔絵楾(はぞう)が見事だった。 
ドラッカーが好んだ根付は知っていたが、薬を入れる印籠に付けて使われた。その印籠のほうも蒔絵付きの美しいものがたくさんあった。
刀剣も、もともと好きな部屋だった。以前は刀身のほうに目が行っていたが、鞘のほうも螺鈿が施されていたりじっくり見る価値があることがわかった。たとえば鎌倉時代の備前の助真の刀、鞘は江戸時代に蒔絵螺鈿が施され美しい。
明治以降のものも、すばらしいものはすばらしい。絵では、大観、観山、玉泉、波山などの大きな作品がずらずら並んでいる。初代伊東陶山の紺色の竹をあしらった色絵竹図花瓶(19世紀)、清水亀蔵の梅花図鍍金印櫃(1929)、20世紀のものも清水南山の獅子文香炉(1944)などがあった。わたくしははじめて名前を知った人もいたが、「さすが東博」だった。
この日は10時前に到着し、お昼を挟んで、閉館の17時までいた。本館は何度も行っているからと後回しにしたが、最後の1階の数室は駆け足になり少し悔しい思いをした。考えてみると過去と同じパターンだ。しかし秋の一日、満足できた。

■顧客を向いた東博の展示や運営
前に東博にきてからもう10年近くになるかもしれない。かつて訪ねた東博との最大の違いは、観客を意識した展示や運営になっていたことだ。
まず原則として写真撮影可能だった。ダメなもののみはっきり表示してある。著作権者との関係なのだろう。開館時間も、毎週週末金土は原則として21時まで開館している。
また小特集がいくつかあった。わたくしが行った日には東洋館で「唐三彩」「チベットの仏像と密教の世界」「アジアの祈り」、本館では「明治時代の日本美術史編纂」「運慶の後継者たち―康円と善派を中心に」をやっていた。
部屋も、ところどころ教育普及スペースというものがあった。学校単位での見学に対するプログラムと一般向けプログラムがあり、一般向けは、ミニトークやワークショップがある。本館では、前述の「紅型(びんがた)ができるまで」をやっていた部屋、東洋館ではモンゴルのシャガイという占いを体験させていた。羊のくるぶしの骨をサイコロのように使う、ただし目があるわけではなく、上を向いた形状で馬、ラクダ、羊、ヤギの4つに分類し、たとえば3100、0112などと読み解き、リストと照合して運を占う。4つの骨を振るだけなので、小さい子どもにもできる。おとなも子どもも結構楽しんでいた。

モンゴルのサイコロ占い・シャガイ
本館2階には国宝室があった。月替わりで東博に88点あるという国宝をゆったりみられるスペースだ。わたくしが行ったときには「法華経一品経 妙荘厳王本事品(埼玉・慈光寺経)」だった。書跡についてはどうみればよいのかわからず、わたしはパスした。文字の配置を一種の空間デザインとしてながめればよい、とか筆勢をみればよいとアドバイスされたことがある。おいおいチャレンジしたいジャンルである。なお慈光寺は、埼玉県比企郡の山のなかの交通がかなり不便な場所にある。  
演出の仕方としては、運慶展のほうで書いた照明方法も違いのひとつだ。
かつて東博は文化財を大量に展示してあるイメージだったが、ずいぶん印象が変わった。

ひととおり博物館を歩いて回ったが、見ていない建物がいくつかある。
表慶館は外観をみただけだが、どこかで似た建物をみたようなと思ったら迎賓館赤坂離宮だった。設計者は片山東熊で、表慶館は1908年竣工、迎賓館は翌09年だ。
迎賓館では武士が左右に並び阿吽になっていたが、ここでは左右の獅子が阿吽の型をしていた。日本人は狛犬だけでなく、何にでも阿吽をさせるようだ。
東博には江戸・明治から平成までいろんなタイプの建物がある。正門の西50-60mにある黒門は丸の内にあった因州(鳥取)池田屋敷表門で重要文化財。加賀・前田藩が赤門、こちらは黒門だ。また本館北側の庭園に転合庵、六窓庵など5棟の茶室がある。「たてもの散歩ツアー」というものが月に2回あるそうなので、いずれ参加したい。

☆上野というと、わたくしにとってはまず文化会館と音楽資料室、次に新制作、院展、現代日本美術展(毎日新聞社)など公募展を見に行った都美術館、そして西洋美術館、東博、上野の森美術館などと続く。それ以外に、昼ごろ上野にいるときにはときどき芸大音楽学部の学生食堂に行った。今回はインスタント・コーヒーを飲んだだけだが、久しぶりに立ち寄れてよかった。
芸大らしく食堂の片隅にアップライトのピアノがあった。さすがである。


東京国立博物館
住所:東京都台東区上野公園13-9
電話:03-3822-1111(代表) 
休館日:月曜日(原則)、年末年始
開館時間 9:30~17:00(入館は16:30まで) 
入館料:大人 620円、大学生410円(高校生以下および満18歳未満、満70歳以上は無料)
        ただし特別展は別料金
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