風のアダージョ

切なさの向こう側、樹木を渡る風笛が聞こえる

幸福のレシピを捨てる時(下)

2017-07-16 | 自作小説
【最終章】

 悠太との約束の日が来た。遥はもう一時間以上も自室にいる。気持ちが揺れていた。会いに行けば、その後の自分の心は流されるまま決まってしまいそうだった。

 遥には、忘れることができない思い出がある。19歳の時に愛し合った、三つ年上の怜。
音楽と文学に造詣が深く、キラキラと輝いていた恋人。とりわけブラームスがお気に入りで、曲を聴きながら文学論を展開し、個性的な自説を楽しそうに話してくれた。ふたりは、すぐに意気投合した。恋に落ちた二人を ”お似合いね” と周囲は囃したてたが、遥はそれすら嬉しかった。楽しい月日が流れた。そして、梅雨明け間近のあの日がやってくる。蒸し蒸しとやけに暑い日だった。新宿駅で待ち合わせをしていたふたり。大勢の乗降客が、汗をふきふき改札口を通過していく。遥は、笑いながら片手を上げるいつもの怜の姿を想像して楽しかった。しかし、30分経っても1時間経っても怜は来ない。ケータイも繋がらず連絡しようもなく、ひたすらケータイ電話を握りしめて遥は待っていた。
 だんだんと不安が募る。やっと鳴った着信音は、母からだった。怜が事故に巻き込まれ、意識不明で運ばれたと。遥は、全身の血が引いて行くのをハッキリと感じた。その後、どうやって病院まで行ったのか記憶が飛んでいる。言葉を交わすこともなく逝ってしまった怜。何故?何故?何故?悔しくて悲しくて拳を上げても誰に向かえばいいのか、虚空をつかむような日々が続いた。もう声も聞けないということが、どうしても受け入れられない。命に限りがあることさえ呪った。無気力になって閉じこもってしまった遥を、周囲は心配した。
 しかし、時が経つにつれ、遥は少しづつ明るさを取り戻していった。時間というものは優しい。同時に残酷だと遥は思う。笑えるようになった自分を思う時、胸に突き刺さったままの破片が痛む。”あなたを忘れたわけじゃないのよ。” 今では、自分より年下になってしまった怜の写真に呟く。一生、怜のことは忘れられない。けれど、生きていかなければ、進んでいかなければ、そう思った時、遥の中で怜が別の次元へと昇っていった。

 遥は、なおも心が決まらず、さっきからぐるぐると同じことを考えている。なぜ、一度きり話しただけの、それも10歳も年上のあの人の何に魅かれているのだろう。悠太をはじめて見たあの日、悠太の左手の薬指には指輪があった。それをこの前は外していた。
”私、気がついていたのよ。なぜ外してたの?” 疑問が湧く。が、それ以上に真っすぐに自分を見つめてくる悠太の瞳が胸を占めてしまう。遥は、悠太の孤独の影を無意識に見ていた。
 ふと気がつくと、開け放した窓から初夏の風が入ってくる。”夏の風ね…” 遥を過去へと連れ戻していきそうな、風の匂い。”今年も、あなたがいない暑い夏がやってくるのね。”
 風は窓のカーテンを揺らしながら、遥を包む。物思いに沈みそうになるその心をふっきるように、遥は立ちあがった。悠太に会いに行こう。そして、自分の心と向き合おう。ドアを開けた遥は、真っ直ぐに前を向き歩き始めた。

Fin


この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係 ありません 

ジャンル:
小説
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