ぽちごや

FC東京のディケイドSOCIOです。今シーズンは丹羽ちゃんとともに闘います。

みちのくの旅 ―2011/8/26 三陸沿岸―

2011-09-03 12:02:30 | 旅行記

二日滞在した山形をあとに。お世話になりましたー。

天気は晴れって聞いていたんだけど、山形道蔵王を越えるあたりから濃い霧と雨でした。けっこう怖かった。

仙台市街の渋滞を抜け、仙台東部有料道路を南下、仙台空港に行きます。今日は被災地に行きます。

名取に会社の東北事務所があるのですが、4号線沿線のため津波の被害はありませんでした。ただ、地震の影響は甚大で、当面操業不能です。復興工事をみるために名取に向かいます。その途中、仙台空港によりました。

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津波の爪痕の除去は、米軍のトモダチ作戦などの尽力ですっかり綺麗になってました。なかにもずいぶん浸水したようですが、水のあとはまったく見えませんでした。駐車場の料金所が破壊されてしまったようで駐車無料なんですけど、ほぼ修復が終わっていました。有料に戻るようです。

空港復興の歩み。

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JALの応援メッセージ

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ANAの応援メッセージ

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空港を出て名取に向かうのに、いったん空港の東側(海側)を通ります。津波に根こそぎさらわれた地区。荒れた家一軒を残し、何もありません。ちいさな祠が残っていたのが印象的だったんですけど、再築したのかな。

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そこから4号線に向かいます。東部道路の東側は津波により浸水したとのことですが、空港より西側は家屋は大丈夫なようでした。畑や樹木があったので、波の勢いが弱まったからかもしれません。すでに住んでいらっしゃるお宅もありました。床上までいったのかな。大変だっただろうな。

東部道路を越えると景色が一変します。東部道路の東側は田畑がほぼ荒れ放題でしたが、西側は畑が青々としてるんです。たぶんずんだかなあ。印象的でした。

4号線を少し南下し、ウチの東北事務所に行きました。外からみただけですが工事は順調に進んでいるようです。共にがんばろう!のエールを送り、名取をあとにしました。

がんばろう! おれたちの東北

ふたたび東部道路にのり北上します。イオンモールの横に小川があるんですが、小川の北側美田園駅地区は新しい住宅街。そこはあまり津波の被害をうけていないようでした。海抜もほとんどかわらないのだけど、小川が津波をふせいだのかな。それにしても怖かっただろうな。

火災があった仙台港を右手に北上し、利府JCTから三陸自動車道に入ります。石巻まで山合を通るので、塩竈も松島もようすを見ることはできませんでした。山合には田んぼに稲穂がなびいていて綺麗です。とても静かで、震災をまったく感じさせない風景。

石巻に出ると視界がひらけ、右手に石巻港が見えます。石巻河南ICでおり、石巻街道に入ります。石巻駅を越え中央三丁目を右にはいると津波の影響が目につきます。旧北上川を津波が遡ってきたのでしょう。家屋の1階が破壊されています。中瀬に出て石ノ森萬画館に行きます。石巻街道をちょっと右に入ったところ。

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中瀬を出て女川街道に入ると、被害がいっそう酷くなります。家屋の一階部分が津波にもっていかれ、骨組みだけ残っている家もありました。家は残っているんだけど地面に植物やカラフルな看板がなく、殺伐とした光景です。人もまばら。

女川街道を女川に向かいます。石巻線に沿い進み沢田駅を越えるととても平安とした風景です。万石浦は松島と同じように半島にぐるっと囲まれた内海なんで、津波の被害がなかったのでしょう。本当に紙一重です。

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女川第一小学校は女川街道を万石浦から女川に出る半島の根っこ、峠にあります。ここを越えると女川。港に向かって下っているとふと風景の異様さに気づきました。基礎だけ残った家屋の跡が段々畑のように沿道に続くのです。気づいたときは、「あー」と叫んでしまいました。突如として景色がかわるので脳がついてこれず、一瞬理解できません。万石浦の平和な風景から一変するギャップに本当に驚愕を覚えます。すぐに女川港に出ます。鉄筋の建物を残し、街が 根こそぎやられていました。

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港は潮の香りがし、波も凪ぎていて静か。とても被災時のことが想像できません。でも、街は粉塵が撒い、復旧のダンプが行き交い、ひとの生活が感じられません。ことばもなく、呆然としてしまいました。

石巻に戻り、一関街道を河北から女川に出ようとしますが、アゼリアプラザの北から45号線は震災の影響で通行止。三陸自動車道に戻り、桃生津山IC(ここは無料区間)から東浜街道(45号線)に入ります。南三陸へはこっちのほうが普通のルートのようですね。ウチのカーナビはボロで、30分ほど手間取ってしまいました。

道の駅津山で休憩をとり、気仙沼線にそって東浜街道を東に向かいます。陸前横山をすぎても山間の平和な光景。それが、女川同様、一変します。陸前戸倉駅付近は岬に囲まれていて海がまだ見えないのですが、気づくとまた家屋の基盤だけが並んでます。気仙沼線があったあたりの山は津波がきた部分だけ森が変色してました。

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反対側の岬は山肌がえぐられてました。

そしてすぐに戸倉の港に出ます。女川同様の悲しい光景が見えてきました。戸倉から東浜街道は三陸の海沿いに走ります。それを北上し、南三陸に向かいます。

志津川に出ました。南三陸の中心地です。思ったよりもかなり大きな街です。それだけにいっそう被害がすさまじく見えます。

志津川病院の近くにあったミニストップの跡から海側の風景。

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ミニストップの跡。

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港の方向。

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仮設店舗でお弁当を売ってました。

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南町から五日町の方向。

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南三陸はまだまだ瓦礫の片付けが途上のようです。女川は瓦礫は撤去されていたようですが、ここは石巻から遠いのと、街が大きいからなのでしょう。石巻あたりから雲が切れ、空が見えてきました。明るい夏の日差しがそそぎます。それが、がらんとして、粉塵が撒い、復興車両が行き交う街の風景をいっそう悲しいものにします。いまこの街は、まだまだ復興のスタートラインにつくことができないんだなと思いました。被災地の分も、無事なボクらががんばらないといけないという想いを実感しました。

南三陸をあとに、東浜街道を北上します。内陸に入ったり海に出たりを繰り返す道ですが、途中小さな港に出るたびに被災を目にします。メディアで報じられない小さな地区も、同様に甚大な被害をうけているんです。忘れてはならない。

45号線を走ると随所に「津波浸水想定区域内」あるいは「区域外」という看板があります。低地に来ると区域に入るということですね。今回の震災では、この境界線にそって津波が襲っている印象をうけました。公報が説明する言葉の問題はあるにせよ、いずれ想定は必要なのです。想定をしないなんてありえない。想定が計算に基づく以上ミスはある。大事なことは想定の考え方を国民と共有することなんじゃないでしょうか。そして地方自治体と国民が自己判断できるようにすること。三陸沿岸もリスクがあったにもかかわらず生活のために危険な地区に住まわざるをえなかったのだから、リスクを可能なかぎり減らせるように、住民の避難誘導の導線を、もっとしっかり計画しておくべきだったでしょう。予算の問題は不可避ですから、津波を100%回避できる手段や想定の精度向上を考えるよりも(それも大切ですけど)、できるだけ多くの住民が速やかに避難できるようにしておくほうが、直接的に有効なことだと思います。避難といっても時間帯や場所によって状況が異なります。今回は平日昼間でしたけど、通勤時間帯や夜間だと行動開始や道路事情に影響あるでしょう。家族の状況も異なる。それから海に近い場所にいるひとと山側のひとではまた異なる。当然海側は危険度が増す。南三陸に行って思ったのは、このように大きな街で海側にいると、移動が相当困難。今回の津波には地震発生から30分以内に到達とのことですが、混乱のなかの渋滞を考えると、避難中に被災することも考えられます。

全国に水際の危険地区は、海に限らず多くあります。今震災で我が国がおった苦い経験を、具体的な対策として考えるには、まずなによりどうやって逃げるかに尽きると、被災地にいて強く感じました。

清水浜を抜け、歌津に出ました。バイパスの橋脚が山際を残しなくなっていました。おそらく街の名物だったでしょう。うたちゃん橋。

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もう少し北に行き、大谷海岸の田の沢の港。

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驚異的なことに、すでに漁船がいるんです。ここも街はなくなってますが、港は大丈夫だったのか、あるいは船を借りたのか。それから、45号線沿線の田んぼに稲穂がたなびいていたんです。これは驚きました。津波が浸水したわずか数メートル上にある田んぼに生命が宿っているんです。浸水線以下の被災住宅で再築している家もありました。もちろん地域のひとにとっては生活の糧を得るための決断でしょうけど、ものすごく東北魂を感じました。感動です。

大谷海岸北方の田園地区も広範囲に津波が襲ってます。わずか数メートルの高低差の違いで、被災した家屋と被災を逃れた家屋があるのが印象的でした。

沿道にコンビニがありました。ローソンとセブンだったと思います。プレハブの仮設で営業してました。

気仙沼に入りました。イオン気仙沼店です。

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市街地を抜け、気仙沼港に出ました。魚市場です。

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気仙沼はビルを中心として建物が残っています。津波の高さは建物の1階程度では収まらないようですが、やはり大きな都市ですから鉄筋が多い。そのため街が残ったのでしょう。瓦礫もかなり撤去されていました。ただ被害はすさまじい。気仙沼駅付近の中心部にいくと被災の程度のすこしおさまるようで、ひとの生活があります。ちょうど子供たちが家路についてました。がんばろう。

陸前高田と大船渡まで行きたかったのですが、この時点で夕方になってしまったので断念しました。284号線から343号線に抜け、北上に。藤原の郷に行きましたがすでに閉館時間。そのまま北上に入りました。岩手にはいると、そこら中に「がんばろう東北・岩手」のポスターやのぼりがありました。被災県によってこのあたりの雰囲気が少し違うようですね。

晩ご飯に北上コロッケー。風土さん。お店やお宅によって作り方がちょっと違うみたいですけど、このお店は、里芋、アスパラガス、ホワイトクリーム。

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お店のかたとちょっと会話。三陸に行ってきたんですよと言ったら、2、3年後にまた来なって。ぜったい復興して、元の綺麗な三陸を取り戻すだけじゃなく、もっと綺麗になってるからってチカラ強く仰ってました。まったくそうだなあと思いました。被災地はたしかにものすごく酷かったんですけど、絶望感はすでになかったように感じました。道々、避難所があったんですけど、子供たちや奥さんがたがあかるい笑顔でいらっしゃったのをみて、あるいは田んぼや漁船をみて、復興に向けた地足はできつつあるんじゃないかと想いました。まずは、無事なボクらががんばることです。そして、地元のひとがしっかりと前を向けるように国と行政に基盤を整備してほしい。それからですね。

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