パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

火曜聖書研究会 2018年9月4日

2018-09-05 17:39:50 | 日記
聖書箇所:ヨハネ10章1節~18節

研究ノート

・10章は9章からつながっていると考えられます。唐突に「まことに、まことに、あなた
 がたに告げます。」という言葉で新しい場面が始まるとは考えにくいものです。
・羊の囲いはパレスチナの気候を反映して屋根の無いものでした。だから、乗り越えて来
 ることが可能でした。
・羊の牧者と言う表現は、パリサイ人たちの注意を引いたと思われます。彼らは自分達が
 民の牧者であると言っていたということです。
・羊の牧者は自分の群れの個体を全て見分け、名前を付けているということです。
・6節で、パリサイ人たちがこのたとえをよく理解できなかったことが記されています。
 それは、話の内容があまりに当たり前なことだったので、たとえと気付けなかったとい
 う部分が有りそうです。
・イエス・キリストはこれがたとえであることを示し、ご自身が羊の門だと言いました。
 イエス・キリストを通してでなければその群れに加わることはできないのです。
・8節のわたしの前に来た者というのは、その頃に表れた偽メシアとかパリサイ人たちを
 指すと思われます。彼らは盗人で強盗だというのです。イエス・キリストは彼らが寡の
 家を食いつぶすと言って非難されています。
・結局パリサイ人たちは私利私欲のために働いていたということが12節、13節からうかが
 えます。
・9節では、イエスに在る者は、救われ、安らかに出入りすると言われています。出入り
 という表現は、ユダヤ的には始めと終わりを指し、生活や人生にも関わる表現です。ク
 リスチャンは、その生活全体を魂の安らかさの内に歩みことができるのです。
・14節でイエス・キリストは彼につく者たちを知っているし、その逆に彼につく者たちも
 彼を知っていると宣言します。しかも、その「知っている」有様が、三位一体の父なる
 神と子なる神が知っているのと同様だというのです。驚くべきことではないでしょうか。
 私たちには実感のわかないことであるでしょうけれども、イエスの身からだなる教会に
 連なっているということは、そういうことになるのです。
・16節の「囲い」という表現に用いられている語は、神殿の中庭のしきりなどを表す語で
 あるということです。神殿では異邦人の庭という部分が有り、異邦人はそれより中に入
 ることができず、離れた場所から礼拝したのです。イエス・キリストが語らえたことは、
 将来ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが一つとなって教会を形成することを
 予めお示しになったことになります。
・17節は直接的に読むと少し奇妙に思われます。三位一体の一位格の父なる神と二位格の
 イエス・キリストは最初から愛の関係に有ります。ですから、キリストが何かをするこ
 とを理由にして、父なる神がキリストを愛するという読み方は違和感が有ります。父と
 御子の愛の関係の総体の中に、父の御心に従って救いの業が完成されることが含まれ、
 その愛が教会にまで届くという関係性を心に留める部分ではないかと思われます。
・18節は、パリサイ人への挑戦と思える部分が有ります。彼らは既にキリストを殺すこと
 を考えていました。そして、十字架にかかる時は、彼らの策略によって命を取られたよ
 うに見えます。しかし、それは神の御心と権威の中でなされたことであり、イエス・キ
 リストご自身が自らの権威でなさったことでした。
・イエス・キリストは良い牧者であり、従う者たちのために十字架でいのちを捨てました。
 それは、10節に示されるように、従う者たちが命を得るためです。しかも、豊かに持つ
 ためだと言われています。いのちが豊だということはここでは永遠のいのちを持つこと
 を指しています。

ごく簡単なまとめ
・イエス・キリストは従う者たちを救うために命を捨てられた。そのことはキリストの口
 を通して預言されている。
・イエス・キリストに従う者たちは、体験的に彼を知っており、キリストの体なる教会を
 通して、イエスと一つである。故に、その関係は御父と御子が互いを知っているのと同
 様であると表現できる。驚くべき関係に入れられている。
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