パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

火曜聖書研究会 2018年8月28日

2018-08-28 23:05:21 | 日記
聖書箇所:ヨハネ9章24節~41節

研究ノート
24節:パリサイ人たちは生まれつきの盲人の目が癒されたことが信じられず、その人の両
   親を問い正しましたが、彼らを恐れた両親が、「あれに聞いてください」と言った
   ので、再び目が癒された人物を尋問します。「神に栄光を帰しなさい。」というの
   は、全知全能の神がいるのだから正直に話しなさいという意味合いで、罪の告白を
   求めるような時にも用いられた言葉だそうです。
27節:「あの方の弟子になりたいのですか。」という問は、皮肉であったか、さもなけれ
   ば、イエス・キリストの素性が知りたければ弟子になればよいではないかというこ
   とを示唆したのかもしれません。
29節:パリサイ人たちのここでの物言いと、7章27節の物言いは相反する内容になってい
   ます。(比較確認してみてください。)「どこから来たのか知らない」という表現
   は、どこで学んだ人物か不明であるという意味も有るかもしれません。
32節:旧約聖書には、死人が生き返る奇跡は記録されていますが、盲人が見えるようにな
   った記録は有りません。盲人の癒しはその意味で大きな印ということができます。
   そして、イザヤ35章5節等の盲人の癒しの預言は神の栄光とメシアの到来に関連付
   けて考えられていました。この盲人の癒しはイエス・キリストがメシアであること
   を明らかに示していましたが、パリサイ人たちの頑なな心はそれを認めることがで
   きませんでした。
34節:パリサイ人たちが、この目の癒された人を「全く罪の中に生まれていながら」と表
   現したのは、2節で弟子たちが示したのと同じ理解と言えます。そして、パリサイ
   人たちには自分たちは罪人ではないという誇りや優越感が有りました。
   「外に追い出した」という部分については、学者によって理解が異なるようです。
   民から切り離す断絶とする考えと、単純に追い出したとする意見が有ります。断絶
   するためには審議、更なる尋問、30日の猶予、90日の猶予などの段階、手続きを経
   る必要が有りますので、単純に追い出したと考える方が自然に思います。
35節:イエスは、偶然再会したのではなく、この目の癒された人を探し出して会われたと
   いうことがわかる語形が用いられています。
38節:目の癒された人は、自分を癒したイエスがご自身が「人の子」すなわちメシアであ
   ることをお示しになったので、「主よ、私は信じます。」という信仰告白をします。
   ここでの「主よ」という呼びかけは、神に対する呼びかけに用いられる語形が使わ
   れています。36節でも「主よ」と呼びかけが有り、こちらも語幹は同じですが、敬
   称としての表現にあたる語形が使われています。それで、英語では36節は"Sir"、
   38節は"Lord"と訳し分けてあったりします。
   「拝した」ということは、この人がイエス・キリストを神であると認めたことを示    
   しています。
39節:ここでの「さばき」というのは、法廷などにおける正誤の陳述などを表すことので
   きる語ということです。イエス・キリストは霊的に何が正しく、何が誤っているか
   を示すために来られたということになります。
   一方12章47節ではイエス・キリストは「さばくために来たのではなく」と言ってお
   り、矛盾するように思われるかもしれませんが、この場合は、滅びに至る者として
   断罪することを指しており、内容が異なります。

ごく簡単なまとめ
・盲人が癒されるということは、旧約聖書には例の無い大きな印でした。イエスがメシア
 であることがはっきりと示されたのだと理解されるべきことがらです。
・イエスがメシアであることがどれだけ明確に示されていても、目を癒された人とパリサ
 イ人たちの反応は異なったものでした。霊的心構えが大事であることが示されています。

   
   

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