パース日本語キリスト教会

オーストラリア西オーストラリア州パースに有る日本語キリスト教会の活動報告を掲載いたします。

日曜礼拝 2018年12月16日

2018-12-17 21:47:51 | 日曜礼拝
聖書箇所:ヨハネ1章9節~13節
説教題:アドベントの姿勢

(テーマ説教で、講解説教ではありません)

(導入)
 アドベント第三日曜日になりました。アドベントの期間中の4回の日曜日を通して心を整え
ます。アドベントはラテン語に由来し、「到来、来ること」という意味が有ります。この期間
私たちイエス様の降誕を祝うためばかりでなく、イエス様の再臨の期待の向けても心を整える
のです。そればかりではなく、私たちはイエス様の日々の生活における臨在にも心を向けて過
ごさなければなりません。つまり、アドベントの姿勢はクリスマスの季節に限らず、いつも持
っていなければならないものです。どのような態度を持っているべきでしょうか。

(本論)
1)キリストに対する熱望を持つ(9節)
  9節の宣言は、当時キリストを受け入れた人たちには大いに興奮するべき内容だったに違
 いありません。ユダヤ人たちはメシア、キリストの来臨を1000年以上も待ち望んでいました。 
 旧約聖書にはキリストの来臨の預言が百以上有ります。その興奮の理由は、また、それが最
 も偉大な神の約束だからであり、キリストの来臨は神の愛のクライマックスだからでもあり
 ます。
  現代に生きるクリスチャンとして、今でも私たちは日々の生活の中でキリストに対する熱
 望を持っている必要が有ります。その態度は、キリストの臨在を歓迎する心、キリストの主
 権を宣言すること、キリストの戒めに従う力を祈り求めることなどによってあらわすことが
 できます。「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」という一節を含む、主の祈りを繰
 り返し祈っていくこともその実践の一つと言えるでしょう。

2)キリストを受け入れ従う(10節―11節)
  ユダヤ人たちはキリストの来臨を待ち望んでいましたが、10節にあるように、多くの人々
 はキリストを認識しませんでした。ルカ3章15節でも人々がキリストの来臨を待ち望んでい
 たことが書いてあります。彼らはバプテスマのヨハネにその期待を持ったりしました。バプ
 テスマのヨハネがはっきりとイエスをキリストと証したのに、全ての人がキリストに従うと
 いうことは起きませんでした。彼らは目の前に与えられていた神の恵みと祝福に気づくこと
 ができなかったのです。
  現代に生きるクリスチャンして、私たちは常にキリストを受け入れて従う心構えができて
 いなければなりません。多くのユダヤ人たちは、自分たちが考えるメシア、キリストのイメ
 ージに固執してイエス様についていくことができませんでした。私たちは、キリストのイメ
 ージを自分の理解に押し込めるようなことをしてはいけません。聖書に現れるイエス様のご
 性質をそのまま受け入れ、その戒めに従うのです。聖書を読み続けて、イエス様がどの様な
 方であるかを繰り返し確認し、その戒めに従っていきましょう。

3)キリストの恵みを能動的に追い求め経験する(12節―13節)

  ヨハネは、この世はキリストを受け入れなかったと述べていますが、それでもキリストを
 受け入れた人々がいました。イエス様がキリスト、救い主であるということを信じたのです。
 その信仰が神の恵みと永遠の命への扉を開いたのです。この信仰を通して、私たちも神の子
 となる特権をいただきました。「特権」と訳された言葉は「委任、権限の付与、権力」等の
 意味が有ります。それは13節に有るように、神によって与えられました。
  もしキリストを自分の救い主と受け入れないならば、クリスマスを祝うことに意味は有り
 ません。キリストにある信仰によって歩まなければなりません。神の恵みを数え、神の戒め
 を守って歩まなければなりません。聖書を読んで祈ることによって聖霊の親しい交わりを保
 たなければなりません。それは少々面倒なことかも知れません。
  ここで、東方の博士たちの ことを考えてみましょう。彼らは遠く東の地からキャラバン
 を率い、盗賊に襲われないように護衛を付けてイエス様を拝みに来たのです。ですから私た
 ちも面倒を厭わずに能動的にキリストを求めていくのです。また、彼らの贈り物には信仰が
 現れています。昔の文献にも黄金と乳香は王や神への贈り物としつれて出てきます。また没
 薬はイエスの死と復活の信仰につながるものと考えることができます。私たちもその信仰を
 持ち 続けるのです。
  一方、べツレヘムの人々は、自分たちのすぐ近くにキリストがいることがわかりませんで
 した。心が開かれていなかったからと考えることもできるかもしれません。しかし、私たち
 はキリストを見出す期待をもって神との交わりを求めていかなければなりません。探し求め
 れば探し求めるほど、更に神の恵みを見出すことになるのです。

(機材の不調により説教音声は有りません)
コメント
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