市井さんが娘。を辞めた時、おそらく様々なしがらみやら束縛からの解放感に満ちあふれていて、さぞかし晴れ晴れとした気分だったに違いありません。
最後の武道館公演で彼女が見せた笑顔には、それがハッキリと見て取れます。
アイドルという型にはめ込まれて窮屈な思いをし、自分たちを利用して私腹を肥やす大人たちの汚いやり方などを間近で見ていた彼女には、そうした不条理な世界から脱出できるという幸福感を全身で満喫したことでしょう。
「自分は自由になったのだ!」という昂揚感。
かくして「自由」を手に入れた市井さんは、高校に進学もせず、髪を金髪に染めて放埓に遊びほうけた。
しかし、やがて彼女は自ら飛び出していった場所に戻ってくることになります。
「自由」であることに飽きたのかもしれないし、やりたい放題に何の束縛もなく生きることに疑問を感じたからかもしれません。
そして今度は「なりたい自分探し」を始めます。
今でも市井さんは「自分探しの途中」という表現を使っていますが、そこには何か自分の内部、あるいは社会のどこかに「かくあるべき本来の自分」が隠されていて、それを探し出そうとしているといったようなニュアンスが読み取れるわけですが、ハイデガーが「本来性」と呼んだような「真実の自分」などというものは決してどこにも存在しません。
人はみんな空っぽな存在です。
「本質的な自分」「自分らしさ」などというものは元々なく、他者や世界との関わりにおいて「自己」あるいは「主体」は形成され、その主体は常に他者に翻弄され束縛を受ける。
「私」とはクモの糸に絡め取られ、身動きが出来ないような状況の中で生きることによってのみ生成するものです。
「型にハマらない生き方」というのが市井さんの信条のようですが、それは原理的に不可能なことであって、「型」の中で拘束されなければ人間は自由には生きられない。
本質的にそういう逆説的な存在なのです。
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