ヴィッテチェク=シュパウン筆写譜(Wittecek-Spaun)が1曲も無い「シューベルト:舞曲」
私高本はドイツ語の単位が埼玉大学で揃わなかったバカ頭(中国語で卒業したよ~ん)だが、「シューベルト文献」は「犬のサンダル集め」のごとく集めている(爆
ベーレンライター新シューベルト全集 が重視していて、「主題カタログ新版(1978)」には全て掲載している(だろう)資料なのに、アインシュタイン著「シューベルト」とか、他のシューベルト著作から「完全に無視されている」かのように感じられるのが、「ヴィッテチェク=シュパウン筆写譜」である。これは、(資料が少なくて断定出来ないのだが、状況証拠から判断するに)フランツ・シューベルト の兄=フェルディナンド・シューベルト が「フランツ・シューベルトの死後」に『未出版曲を楽譜商との交渉中に紛失しないための筆写譜作成』を目的に作られた筆写譜、と推定される。
フェルディナンド・シューベルト は、歌曲もピアノ曲も室内楽曲も分け隔て無く、「筆写譜依頼」をした。そのおかげで、「自筆譜はオークションやらで行方不明になっているシューベルト楽曲が現代に引き継がれ、永遠の命を保っている曲も多い」のだ!
だが、アインシュタインを初めとする「シューベルト学者」は(ベーレンライター新シューベルト全集関係者を除き)全く興味が無いようだ。『ヴィッテチェク=シュパウン』日本語表記ででグーグル検索掛けると「ありません表示」が出る(爆
ヴィッテチェク=シュパウン筆写譜 は「遺作3大ソナタD958,D959,D960」も筆写したが、ベーレンライター新シューベルト全集「楽譜」を購入してもその記載が見付けられない><
くらい、「資料的価値」は高い、とは言えない><
だが、決して低くは無いのである = ヴィッテチェク=シュパウン筆写譜。
交響曲 とか オペラ とか ミサ曲 のように、フランツ・シューベルト 死の直後に「カネになるとは思えない大編成」の楽曲は、作られなかった様子。
・・・と言うことは、兄フェルディナンド・シューベルト か、シュパウン のどちらかが、 ヴィッテツェク に「カネを支払って写譜させた楽譜」なのである。これで現代にまで伝わった楽曲(大半が1884-97年編纂のブライトコプフ旧シューベルト全集まで)が多い。フェルディナンド・シューベルト & シュパウン & ヴィッテツェク には感謝するばかりである!
・・・と言いながら、少々頭を抱える私高本であった。なぜなら
シューベルトピアノソロ舞曲には「ヴィッテチェク=シュパウン筆写譜」が1曲も残されていないから!!!
この点を指摘した文章は、私高本は(英語とドイツ語文献を含めて)見たことが無い。他の言語は知らないよ(爆
シューベルト「舞曲」にも、「筆写譜」は数多く存在する。「op.9 D365」「op.18 D145」は特に多い。他にもあるよ、D299 のように作曲年を詐称して ヨゼフィーネ・コラー に「マリー・シュパウンに捧げた 1818」と書いた筆写譜を誰かに作らせ、捧げた曲もある。自筆譜には 1815.10.03 って明記されているんだけどな(爆
だが、兄フェルディナンド・シューベルト の判断は「フランツ・シューベルト の舞曲はカネにはならない」だった様子。1828年以前に何がウィーンで起こったのだろうか?
ヨーゼフ・ランナー が1824年に「自分のウィンナ・ワルツ演奏団体」を有して、ヨハン・シュトラウス1世 もそれに続いた状態
フランツ生前は「冬のワルツシーズン」にはカネに出来ていたのだが、兄フェルディナンド・シューベルト は交渉才覚は乏しかったようだ。武田信玄 と同じく、「死んだ」とバレていると足元叩かれるよな(泣