明日12月6日で Daily Classical music Critique in Tokyo 時代から通算して、満10年。おぉ、10年!
何か記念になるモノを書くつもりだが、ピアノのブログが オペラの記事で10周年、と言うのは変だ(藁
ピアノの記事で『満10周年記念号』は掲載する。人気高いグールドの記事にしようか? 人気薄のグルダの記事にするか? シューマンピアノソナタ第3番か? バッハ「フーガの技法」か?
う~ん、いきなり大袈裟なタイトルを掲げてしまった。10周年を前にひとふんばりするか!
今回の「レパートリーシステム演目」上演の「意図」、これは明らかに
である。
これほど「初演」が近接した『2つのオペラ大国の、根源に限りなく近い作品』を並べることに拠って、相違点を描こうとしたことは明らかである。 ベートーヴェン&ロッシーニの2人が手本とした モーツァルト は、ドイツ語でもイタリア語でもオペラ作曲していたので、この2人からが「枝分かれ」となる、とノボラツスキは考えている。
など『対比』は満点である。
今回上演の2演目は意外な共通点がある。
である。そして、ノボラツスキ自身は「ウィーン国立歌劇場時代に起用していない指揮者」かと思う。(全公演の公式指揮者一覧が見付けられなかったので、間違っていたらご指摘頂きたい)つまり
のようだ。既に経験を積んでいたカルッリは大成功、25才で「若さ丸出し」のマイスターは大崩壊、となった。
この「結果」をノボラツスキが、事前予測できたのか? できなかったのか? これは本人しかわからない。
と言うことになる。実行力があるとは言い難い。
次に、演目数について。えらそうなことを言って登場したのに、かえって年間演目数が減った。これは 「口だけで実行力皆無」 と末代まで語られることだろう。
そして「オペラ聴衆の拡大」は、朝日新聞にさえ揶揄される惨状。「フィデリオ」の入りの悪さは唖然とした。初日の入りが続くならば、3日公演でも空きが出る「スカな入り」だったことを報告する。これも 実行力皆無 である。
最後に「ソリスト陣の出来」を比較したい。これは
と断言できる。昨年度トリ演目の「こうもり」しか、「さすがノボラツスキ!」というキャスティングが無かった。(逆から見れば「こうもり」は収穫だった)
が印象深い。
・・・で、全く意義皆無か? と言えば、違う面もある。
をついに実行した初の芸術監督となった。
で一貫したことは、ほとんど誰も指摘しないが 高く評価されて良い だろう。
「費用対効果」を考えたときには、「招聘」自体の意義は薄かったように感じる。特に公言していた3点が全部実現しなかったことは、ノボラツスキ本人の責任。 世界中どこのオペラハウスでも、経費削減は実行しているので「予算が無い」なんて言い訳は、「子供だまし」である。
但し、意義は上記の通り 原語上演の徹底 に於いては、過去の日本オペラ界が到達できなかったことを実施した足跡を残した。これは記憶してほしい。
上記の通り、外国人初のオペラ部門芸術監督招聘は相当に多くの課題を抱えたママ、ノボラツスキ解任へ繋がった。「もっと長く任期があれば、さらに良くできた」は、畑中良輔 & 五十嵐喜芳 両芸術監督も感じたことだろう。
が、このオペラの世界。他のクラシック音楽の世界に比べると、評定期間が短いかも知れない。
ノボラツスキは、結局
と言う事実を鑑みるに、
と感じる。
若杉弘次期芸術監督には思いっきり、「自分のオハコだけ」を上演できる体勢を作ってほしい。それが、今回の反省として、最も聴衆にプラスに活かされる方向と感じるからである。
何か記念になるモノを書くつもりだが、ピアノのブログが オペラの記事で10周年、と言うのは変だ(藁
ピアノの記事で『満10周年記念号』は掲載する。人気高いグールドの記事にしようか? 人気薄のグルダの記事にするか? シューマンピアノソナタ第3番か? バッハ「フーガの技法」か?
日本のオペラハウス新国立劇場の「レパートリーシステムは構築できたのか?」を検証する(4)
ノボラツスキの「意図」「実行力」を検証し、「招聘」自体の意義を検証する
う~ん、いきなり大袈裟なタイトルを掲げてしまった。10周年を前にひとふんばりするか!
1. ノボラツスキの「意図」を探る
今回の「レパートリーシステム演目」上演の「意図」、これは明らかに
同時代の「ウィーン」と「イタリア」の対比を鮮明に描きたい
である。
- 「フィデリオ」最終稿 = 1814年初演
- 「セビリアの理髪師」 = 1816年初演
これほど「初演」が近接した『2つのオペラ大国の、根源に限りなく近い作品』を並べることに拠って、相違点を描こうとしたことは明らかである。 ベートーヴェン&ロッシーニの2人が手本とした モーツァルト は、ドイツ語でもイタリア語でもオペラ作曲していたので、この2人からが「枝分かれ」となる、とノボラツスキは考えている。
- 「フィデリオ」最終稿 → 台本に近いフツーの演出
- 「セビリアの理髪師」 → 時代を1960年代に飛ばした演出
など『対比』は満点である。
2. ノボラツスキの「実行力」を検証する
今回上演の2演目は意外な共通点がある。
初来日指揮者を起用
である。そして、ノボラツスキ自身は「ウィーン国立歌劇場時代に起用していない指揮者」かと思う。(全公演の公式指揮者一覧が見付けられなかったので、間違っていたらご指摘頂きたい)つまり
指揮者2人は「本番起用」は初めて
のようだ。既に経験を積んでいたカルッリは大成功、25才で「若さ丸出し」のマイスターは大崩壊、となった。
この「結果」をノボラツスキが、事前予測できたのか? できなかったのか? これは本人しかわからない。
- 事前予測できなかった → 目利きが悪過ぎ
- 事前予測できた → 「ウィーン国立歌劇場の下請け」として起用した?
と言うことになる。実行力があるとは言い難い。
次に、演目数について。えらそうなことを言って登場したのに、かえって年間演目数が減った。これは 「口だけで実行力皆無」 と末代まで語られることだろう。
そして「オペラ聴衆の拡大」は、朝日新聞にさえ揶揄される惨状。「フィデリオ」の入りの悪さは唖然とした。初日の入りが続くならば、3日公演でも空きが出る「スカな入り」だったことを報告する。これも 実行力皆無 である。
最後に「ソリスト陣の出来」を比較したい。これは
五十嵐喜芳前芸術監督の方が圧倒的に上だった
と断言できる。昨年度トリ演目の「こうもり」しか、「さすがノボラツスキ!」というキャスティングが無かった。(逆から見れば「こうもり」は収穫だった)
- イタリアオペラ でのキャスティングが弱く
- ドイツオペラ では「ルル」で ボロボロ
が印象深い。
・・・で、全く意義皆無か? と言えば、違う面もある。
原語上演の徹底 = 訳詞公演の徹底排除
をついに実行した初の芸術監督となった。
- 「こうもり」は原語上演
- 「ヘンゼルとグレーテル」は上演せず
で一貫したことは、ほとんど誰も指摘しないが 高く評価されて良い だろう。
3. 「招聘」自体の意義
「費用対効果」を考えたときには、「招聘」自体の意義は薄かったように感じる。特に公言していた3点が全部実現しなかったことは、ノボラツスキ本人の責任。 世界中どこのオペラハウスでも、経費削減は実行しているので「予算が無い」なんて言い訳は、「子供だまし」である。
但し、意義は上記の通り 原語上演の徹底 に於いては、過去の日本オペラ界が到達できなかったことを実施した足跡を残した。これは記憶してほしい。
4. これからの新国立劇場オペラ部門芸術監督招聘の時の方針への提言
上記の通り、外国人初のオペラ部門芸術監督招聘は相当に多くの課題を抱えたママ、ノボラツスキ解任へ繋がった。「もっと長く任期があれば、さらに良くできた」は、畑中良輔 & 五十嵐喜芳 両芸術監督も感じたことだろう。
任期内に「結果」を出さなければ解任されるのが常
が、このオペラの世界。他のクラシック音楽の世界に比べると、評定期間が短いかも知れない。
ノボラツスキは、結局
- ドイツ物の中で
- 特に手に入っていた「こうもり」が最大の収穫であり
- これは ウィーン国立歌劇場のオハコ
- 今後のキャスティング&指揮&演出を見ると、ノボラツスキは「ばらの騎士」も良さそう。これまた「ウィーンのオハコ」
と言う事実を鑑みるに、
今後の芸術監督は「得意分野のみを徹底して実行頂く」のが最善
と感じる。
若杉弘次期芸術監督には思いっきり、「自分のオハコだけ」を上演できる体勢を作ってほしい。それが、今回の反省として、最も聴衆にプラスに活かされる方向と感じるからである。