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日本とフリーメーソン②  『アジアの先兵 幕末篇』

■アジアの先兵
前述のイエズス会宣教師の一人が送った報告書に次のような内容のものがありました。「日本は国土も狭く、さしたる資源も無い。だが国民は勇敢で戦いに優れている。我々の中国占領の先兵として利用するのに相応しい」
彼らの真の目的は中国占領にありました。広い国土、豊富な資源、安い労働力と市場としての巨大な人口があるからです。中国占領の先兵として日本を利用しようとした彼らの野望は潰えました。しかし300年後、フリーメーソン達は硬く閉ざされた日本の扉をアメリカの外圧によってこじ開け、再びその計画を実行に移し始めたのでした。

■トーマス・B・グラバー
1859年上海経由で長崎に上陸した一人の英国人貿易商がいました。名前はトーマス・B・グラバー。もちろん彼はフリーメーソンでした。長崎の観光名所グラバー邸は彼の元屋敷です。彼が設立したグラバー商会は東アジアのフリーメーソンの前進基地であったジャーディン・マセン商会の代理店も兼ねていました。

ジャーディン・マセン商会は茶の輸入と清国へのアヘンの密輸で莫大な富を得ていました。ジャーディン商会は1839年のアヘン戦争のきっかけを作った張本人なのです。アヘンを積んだイギリス船の入港を清国が拒否したことから事件は始まりました。開戦の決議にあたり、後のイギリス首相ウィリアム・グラッドストンは麻薬の密輸という開戦理由に『こんな恥さらしな戦争はない』と議会で嘆いたといいます。ジャーディン・マセン商会はイギリスのロスチャイルド家が所有する企業でした。ユダヤ勢力のファミリービジネスは昔から『麻薬に戦争』と相場が決まっているようです。

グラバーは当初。幕府と倒幕派の両者に取り入り、武器、弾薬、軍艦などを調達しました。そして形勢は倒幕派有利と見ると薩魔藩、長州藩に急接近しました。彼は薩長の為に大量の最新式の武器・火薬類を調達したばかりでなく、倒幕勢力の統合を進め、薩英同盟、薩長同盟の成立に重要な役割を果たしました。グラバー邸では坂本竜馬をはじめ伊藤博文、五代友厚、岩崎弥太郎(後の三菱財閥の創設者)ら倒幕の志士が集いました。またグラバーは薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長沢鼎等の海外留学などの斡旋も行いました。

伊藤博文と井上馨がイギリスに密航を企てたことは有名な事実ですが、この密航を手引きしたのがグラバーで、渡航費用と滞在費をスポンサードしたのがジャーディン・マセン商会なのです。これを契機に伊藤も井上もロスチャイルドの紐付きとなった訳です。

■グラバー商会と三菱財閥
グラバー商会は明治維新政府誕生と同時に、わずか10万ドルの負債で不可解な倒産をしています。グラバー所有の造船所や工場などの資産と経営を受け継いだのはグラバーの愛弟子、岩碕弥太郎でした。後に岩崎はこの資産を元に三菱財閥を起こします。三菱は海運業を独占したほか造船業・鉱業・鉄道・貿易・金融とあらゆる分野に進出しました。また軍艦、軍用機を作る軍事産業の雄でもありました。何やらユダヤ金融資本のミニ版のようでもあります。ロスチャイルドに繋がる日本の財閥を作る為に、その資産すべてが譲渡されたと見る方が正しいのではないでしょうか。三菱もメーソンだと言われる理由の一つがここにあります。

■徳川慶喜の英断
幕末に欧米(メーソン)の謀略に気づいていたと思われる人物が三人いました。それは15代将軍徳川慶喜と勝海舟、西郷隆盛ではなかったでしょうか。15代将軍・徳川慶喜は意気地の無い将軍というイメージがありますが、実は大変聡明な将軍であったと私は考えています。慶喜は海外情勢も良く知っており、幕府と薩長の争いが長期化すれば、武力介入の機会を虎視眈々と狙っている英仏の思う壺となってしまう。このままではアヘン戦争後の清国のようになると考え大政奉還を決意したのではないかと思われます。

江戸無血開城を成功させた勝海舟、西郷隆盛も、欧米の驚異を十分に感じていたからこそ、同胞同士で戦うことを避けたように思われます。慶喜の英断によって日本は植民地化の危機から免れますが、明治維新以降日本が近代国家として国際社会の仲間入りを果たすと同時に、フリーメーソンの謀略の中に組み込まれていくのです。

続く

コメント一覧

フォトン
としやさん
コメント有難うございます。

結論から申しますと勝海舟はフリーメイソンとは関係がないと思っております。海舟は維新後新政府の顧問的な仕事についていた事もあり、二股膏薬などと言う人もいます。維新後幕臣から新政府に乗り換えて立身出世をした人物もいます。彼が権力志向や金儲け思考が強かったならばもっと重要な職に就けたと思います。顧問的な仕事に就いたのも真の愛国心から日本の針路を心配したからだと思っています。

彼が二股膏薬でなかった証としてのエピソードをご紹介します。維新直後直轄地を召し上げられ、駿河の地に徳川家が移封されたとき、旗本八万騎とも言われた多くの家臣達が路頭に迷う事となりました。海舟は明治新政府に対し、優秀な幕臣たちを雇用してもらえるように奔走します。さらに下級武士達の生計が立つように帰農を促し、茶の栽培を奨励します。その指導ばかりでなく、開業資金として私財も投げ打ってその事業を成功させました。静岡の代表的な産業の茶栽培は海舟のアイデアから生まれたものです。また主家であった徳川家が存続するように、生涯を通じて様々な形で慶喜や子弟達の面倒をみました。

フリーメイソンというのは自由、平等、博愛を謳いながら、実は権力欲と金銭欲にまみれた存在ですから、国を思い、主家の恩を思い、幕臣たちを思う海舟の言動とは相容れないものがあるのではないでしょうか。

また龍馬がフリーメイソンの走狗であったという説には私は賛成できません。竜馬は当時の日本人としては珍しい、大変合理的な思想の持ち主でしたから、善も悪も。勤王派も佐幕派も飲み込みながら、自分の愛国の理想を実現しようと試みたのではないかと思います。数年前にあの有名な日本を洗濯するという龍馬の手紙〈真筆)を見た時に、彼の実直で清明な性格を肌で感じる事が出来ました。龍馬は新政府が設立されても要職に就く意思は無かったようです。

この点は海舟と相通じるものがあります。権力欲や私利私欲に走ることなく、西洋列強の植民地政策を阻止し、日本の独立を目指したと見るほうが順当のような気がします。彼がメイソンのグラバーと深い関係にあった事は事実ですが、メイソンの走狗であったとは思えないのです。

彼が暗殺されたのはメイソンの企みであったとされる説は正しいかもしれません。何故なら竜馬は彼らの秘密を知りすぎていたのかもしれません。また何よりも権力やお金に興味を感じない人物はメイソン達にとって何とも御しがたい、脅威の存在ですから。

としや
勝海舟とフリーメイソンは?
興味深く拝読させて貰いました。坂本龍馬がグラバーの走狗として動いていた事には異論ないです。
どこかで読んだんですが、明治の世の中になっても坂本龍馬の名前、幕末における活動自体一般的には知られていなかった(勿論、幕府、薩長の関連した人々の間では知られていたでしょうが)。龍馬の名前が知られるトリガーは勝海舟が後年「龍馬がいたから薩長同盟が形成されご維新が成り立った」的な発言を記者か何かに喋ったからとの事。龍馬は海舟の弟子みたいなものだからそれを褒めるのは当然としても、フリーメイソンの走狗ならばこれをわざわざ持ち出して褒めるような事をするのかな、と言う疑問があります。海舟もフリーメイソンの息が掛かった人材ではと疑いの目でいますがどうでしょう?
フォトン
りゅうさん
ご賛同のコメント有難うございます。

>田町駅の近くに勝海舟と西郷隆盛の会見地の碑があります。

たしか三菱自動車本社ビルの横(薩摩藩邸跡)ですよね。以前の勤務先が近かったので見に行きました。私も当時を偲んで感慨に浸った記憶があります。

余談ですが。
一つ、残念だったのは両雄会見の場を描いたレリーフが正確に時代考証されてない事でした。レリーフでは勝海舟が自分の左側に刀を置いています。武士が会見する時は、「貴方に敵意は無い」という意思表示で、刀を抜きにくいように自分の右側に刃を内側にして置くのが作法なんです。あれでは勝は、話し合いではなく、西郷を切りに来たことになってしまいます。(笑)
りゅう
私もそう思います
坂本竜馬の興した会社とグラバーの関係は、私も数冊の本で読んだことがあります。
フリーメーソンというのを親睦組織みたいなものと思っている人もいるようですが、とんでもない勘違いだと思います。
徳川慶喜の評価は、私も同じです。彼の英断で日本は救われたものと考えています。
現在、国道15号線沿い、田町駅の近くに勝海舟と西郷隆盛の会見地の碑があります。歩いて帰る途中に何度か目にしていますが、日本を外国の侵略から救った場所として、感慨深いものがあります。

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