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キリスト教とコミュニズムの不思議な類縁

今回は「日本人に謝りたい」の番外編として、前回に関連して、キリスト教と共産主義の類似点を「佐伯彰一」(著)「神道のこころ―見えざる神を索めて」からご紹介したい。本のタイトルから想像して著者は、神道学者か民族主義者をご想像されるかもしれないが、実はアメリカの大学で教鞭を取っていたこともある、生粋の英米文学者である。筆者は欧米思想を熟知しているだけに、文章は辛辣である。(注:この本はソビエト連邦崩壊前の1989年初版)

では、本文から抜粋引用してご紹介する。

(引用開始)

■キリスト教とコミュニズムの不思議な類縁

さて、わが国の戦後における神道敵視に、もうひとつ見逃しがたい大きな役割を演じてきたのは、左翼的啓蒙主義である。つまり、宗教なぞもう古いという思い上がった大前提にのっかって、神道を蒙昧な文化的遺産と断じさり、さらには右翼的ファッショシズムなどといったレッテルをはりつけようとした。

ここで興味深いことに、近頃地方自治体が、慰霊祭、地鎮祭などの神道行事にかかわる度に、反対訴訟を繰り返す連中というのは、キリスト教牧師でなければ、共産党の地方議員とまず相場が決まっている。前者は、神道は多神教、偶像崇拝であり、劣等低級という一神教徒らしい傲慢さに立って、一つ覚えの「政教分離」の原則をタテにとろうとすれば、後者もまた、われこそ宗教的迷信からの先進的解放者といった、根拠すこぶるいかがわしい思い込みをふりかざそうとする。

ここでおのずと思い浮かぶのは、キリスト教とコミュニズムとの一種不思議な類縁である。ともにユダヤ系が生み出し、組み上げた精密な思想システムであることは、いうまでもないこととして、ともに自己絶対化の傾きがすこぶる強く、他者と異質に対する不寛容が格別目立っている。異端糾弾、さらには異端粛清のきびしさ、徹底性から、その実行方法まで、奇妙に似通っていて、コミュニズムは、いわば逆立ちさせられたキリスト教という気までしてくる。

スターリンによる「大粛清」から、ソルジェニーツィンのいわゆる「収容所群島」へと引き続いた、異端者の抹殺、排除のやり口は、何とキリスト教の「異端糾問」と似通っていることか。さらには、その革命の美化、理想化は、キリスト教の焼き直しの世俗化版であり、両者、なるほど明確に対立しながら、実は合わせ鏡のようにぴったり符号する所が多いのではあるまいか。げんに、哲学者のバートランド・ラッセル(1872~1970)は『西洋哲学史』(1945年)の中で面白い図式、等式を書きとめている。

「ユダヤ的な歴史パターンは、あらゆる時代の抑圧されたもの、不幸なものに力強く訴える要素を含んでいる。聖アウグスチヌスは、このパターンをキリスト教に適用し、マルクスは社会主義に適用した。マルクスを心理的に理解するためには、次のような等式を念頭におく必要がある。

ヤーヴェ=唯物弁証法
メシヤ(救世主)=マルクス
選ばれたる者=プロレタリアート
教会=共産党
再臨=革命
地獄=資本主義者の刑罰
至福千年=共産主義国家

もちろん、誇張好き、ジョーク好きのラッセルのことだから、こうした図式をあまり大真面目に受け取ってはなるまいが、ぼくらなどどちらのシステムにも、ほとんど無縁の異教徒からみても、この対置は、まことに面白く、説得力に富んでいる。

ことに現在のコミュニズムについてみれば聖なる「革命」の達成によって到来するはずのユートピア、至福千年の夢がソ連を筆頭にほとんどことごとくの場合、驚くべき権力集中の独裁制を生み出し、巨大な抑圧装置、収容所列島の悪夢と化しさっている。その軍事力への傾斜も、いちじるしい共通の特徴という他なく、近隣諸国をしきりと「侵攻」するばかりか、キューバのように遠くアフリカにまで派兵する例も現れている。しかも大方のコミュニストは、頑強に「教会」を守り、「至福千年」の夢にしがみついて「資本主義は地獄」だと叫び続けているではないか。

「人民のための阿片」とは、今や、コミュニズム信仰そのものの話ともいいたい現状であるのに、一たん他者批判、異端糾弾となると、わが身の過去と現状は一切棚に上げて、しきりと「地獄」キャンペーンを展開して、相手にばかり「悪魔」のレッテルをべたべたはりつけずにはおかないのだ。

(引用終了)

注:この本は中公文庫から文庫本としても出版されているが、日本教文社刊の単行本共に絶版のようである。

神道のこころ―見えざる神を索めて

日本教文社

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