2004年(平成16年)10月23日に新潟県中越地震が起きから半年が過ぎた翌年4月に初めて佐渡島へ伺いました。
当時、「桜と木造校舎」と言う企画で、全国に現役で残っている木造校舎に通っている小学生を取材しました。
週刊誌(週刊朝日)の発表だったため、西日本と関西で開花している4校(愛媛県・岡山県・島根県・和歌山県)を
廻り、未だ咲いていない東日本の学校からは写真をお借りしました。
お借りした写真のなかで、佐渡島内の学校が2校ありましたので、
お礼を兼ねて伺ったのが初めての佐渡島になりました。
関越自動車道は、地震の復興途中で、高速では走れないほどうねっていた事を思い出します。
自分の車をフェリーに乗せて、小佐渡にある岩首小学校と大佐渡にある内海部小学校を廻って来ました。
桜が満開の美しい季節で、木造校舎をバックに伸び伸び遊ぶ子ども達が印象的でした。その光景を
一年通して撮影出来ないかと思ってお願いしたところ、翌年から1年間撮影をさせていただく事になりました。
平成17年4月、女の子1人だけの入学式が行われました。桜が満開の季節が過ぎて、5月の終わりに田植と
ビオトープの生物調査の授業が行われ、そこで講師として呼ばれていたのが、朱鷺の取材の切っ掛けになった
NPO法人「トキの島」の中島明夫氏でした。
朱鷺のぬいぐるみを持ち、一風変わった出で立ちの人で、私に向かって「今日はいい日に佐渡にお出でになりました」
「朱鷺のヒナが100目が孵りました」「明日の新聞に出ると思いますよ」と、朱鷺命と言う人でした。
子どもの頃から親の影響で鳥が好きで、小学・中学時代は、夏の自由課題で鳥の巣の研究発表をしていました。
写真学校を出て、主題は人間のドキュメンタリー写真になりました。鳥写真の分野は全く興味はありませんでした。
無論朱鷺に関しても全く知らず、そう言えば、岩首小学校の廊下に、昭和時代の朱鷺の写真が張ってあったっけくらいの
知識でした。
小佐渡の前浜地区は、昭和時代最後の営巣地や餌場になっていたところで、岩首の棚田も餌場になっていたそうです。
小学生の授業の中でもビオトープを取入れたり、放鳥に向けての朱鷺に関する授業が行われていました。授業の中で、
朱鷺保護センターに行って朱鷺を見たのも初めての経験でした。
岩首小学校は、私が通った一年で閉校になってしまいました。「最後の記録をしなさい」と見えない力に呼ばれて行った感があります。
当時、岩首地元住民で大石惣一郎さんという、これまた一風変わった市議会議員さんに出会い、
彼の紹介で朱鷺を保護活動して来た人たちや環境省の担当を紹介していただきました。
朱鷺に関っていられる方々の「もう一度佐渡の空へ朱鷺の舞う姿を・・・」と言う熱き思いに心が動き、岩首小学校の
取材が終わってから朱鷺の取材へと佐渡島通いが変わって行きました。