デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ネタ割れ注意です。

電車の中やコーヒー店でこの作品名を聞いたり見たりすると、人によっては思わず作品名を口に出したりすることがあるようだ。一度、話しかけてきたまったく知らない人と作品について語りあったことがある。

今回の『罪と罰』は岩波文庫版(江川卓(えがわたく)訳)で読んだが、作品自体は3度目の読書である。毎度のこと、再鑑賞したくなる映画、再読書したくなる文芸作品は殻の硬いしかし中身がおいしい卵みたいなものだと思っているが、『罪と罰』も私の中ではそういった作品の一つである。
今回、亀山郁夫訳での読書は控えた。亀山氏はロシアの文芸作品やロシア・アヴァンギャルドの研究者であるが、氏の書いたいくつかの本や、氏のドストエフスキー作品の翻訳の問題点を検証するサイトを冷静に見ていった結果、ロシア文学に造詣はあってもドストエフスキー専門家とまではいかなく増してや第一人者と目すにも剣呑のように思ったのだ。氏のいくつかの「発見」には大いに関心を覚えることもある。が、氏の自らの情念から発するような解釈や思い込みがあたかも最新の研究成果として、これまでのドストエフスキー作品研究からパラダイムシフトを起こすほどの「真実」だと決めてかかっているかのような風潮には異を唱えたくなってきた。また、作品内で描かれている事実すら踏襲できていないことも少なくないこと、つまり氏の作品の読み込み不足によって無理に補完せざるを得なくなったような解釈は私には受け入れ難い。よって、江川卓訳にした。

『悪霊』の感想で

『悪霊』を再読して思ったのは、上に触れたような自分自身に対して、作家が登場人物たちに我意の超越性を付与することで、おのれの精神を正気に保つ努力を作家がしていたのかもしれないということ。もっといえば彼にとって作家という職業は、闘病生活を送る上での、一つの大きな武器であり城だったのではないだろうか。
また『白痴』を描こうとした頃から、上に書いたような自分の性格や嗜好を見つめなおすだけでなく、無神論に対するより深い考察や、過去に抱いていた政治的な思想をより丁寧に清算・再検討しようと思い始めたのではないかなぁ。

と私見を述べた。しかし『罪と罰』を読むと、↑に書いたようなことは想像の域を出ないにしても、少し早まりすぎたかなぁと思う。作家としては↑に書いたことなど、『罪と罰』を書いた時点でとっくにクリアしているように思った。『罪と罰』以降のすべての作品がそうだとはいわないが、『罪と罰』の登場人物たちに、のちの作品の雛形を見いだせることは昔から指摘されているし、いまさら触れることではないかもしれないが(笑)。
作品は、いわゆる刑事コロンボや古畑任三郎形式の「サスペンス」として読むことができるし、それだけでも十分楽しめる。未読の人には『罪と罰』などと重々しいタイトルだからといって倦厭しないで、とある事件の軌跡を追う作品として入ったらいいのではと思う。

しかし作品は読めば読むほど恐ろしく深い小説であることが分かる。主人公ラスコーリニコフは大学を中退し船室のような屋根裏部屋の家賃すら滞納し、日々の食事にもありつくのが厳しいほど貧窮状態に陥っていて、この窮状を脱するために質屋を営んでいる金持ちの老婆を殺害して金を盗むのだが、単純に身を立て直したいという大きな動機に付随する主人公の家族関係やその経済的背景、そして殺人行為への一線を踏み越えるための「勢い」となる論拠(思想・信念)などが、おそろしく込み入っているのである。作中で語られるテーマについてはいずれまたふれることがあるかもしれない。
今回読んで新たに感じたことがある。主にプリヘーリヤの手紙や言、そしてエピローグにあるラスコーリニコフの過去だ。とくにエピローグにある以下の箇所

元大学生ラズミーヒンは、犯人ラスコーリニコフがかつて大学在籍中、自分のなけなしの金をはたいて、肺病にかかった自分の貧しい学友を援助し、半年にもわたってほとんどすべての面倒を見ていたという話を掘りだしてきて、その証拠も提出した。この友人が死んでしまうと、彼は死んだ友人の年老いて衰弱した父親(この友人はもう十三歳ごろから自分の働きで父親を食わせ、世話していた)を訪ね、ついにはこの老人も病院に入院させ、彼が死ぬと、その葬式まで出してやった。
…中略…
下宿の主婦であったザルニーツィナ未亡人も、彼らが五辻街の別の家に住んでいた当時、ある夜、火災が起こったときに、ラスコーリニコフがすでに火のついた家にとびこんでふたりの幼い子どもを救いだし、そのさい火傷を負ったと証言した。


には目を引かれた。とかく非凡人・凡人論が注目されがちな『罪と罰』だが、↑の部分を読めば、私はラスコーリニコフが宮沢賢治の「雨ニモマケズ」その人のような気がしたのだ。
ドストエフスキーは『罪と罰』の構想を練っている際だったか第一稿だったかで、殺人を犯した大学生が火事に飛び込んで人命を救い出したことで、周囲が殺人の罪を許して結末としようとしたこともあったと評伝で読んだことがある。つまり人命救助の行為を「更生」や自分の生命の危険をも顧みない賞賛される最大限の献身に値するものと考えていたほどだった。
しかし決定稿では、いうなれば、普段親切で世話好きで人から感謝もされているような人間が起こす凶行が描かれているわけだ。(TVのニュースで血なまぐさい事件が起こって、それが普段温和で親切で世話になったことのある隣人の仕業であったことに驚く周囲の住人が、ソーニャでありラズミーヒンでありザルニーツィナ夫人なのである。)
ここに私は、目立たずとも知らぬ間に周囲から尊敬の眼差しを受けるような立派な人格者も、ときに病気や思想や境遇や経済状態における貧窮で追い詰められ、また自分の思弁でみずからを追い詰めていったあげく、「一歩踏み出す」勇気さえあれば事を起こしてしまうという、昔からつねにある同じ問題で人類を悩まし続けている、徹底的とはいいがたい思慮の無い場当たり的な犯罪がいかにしておこるかという重要なテーマを読み取りたく思う。
それは貧乏脱出のための凶行、育児や老人介護のストレスによる凶行、反抗期のわが子を手にかけてしまった凶行などなど、実は思いの他あてはまるのではと思う。おのおのには例えのちのち気恥ずかしいものになる可能性があるにせよ、そのときには切羽詰った自分しか持ち得ない独自の理論で自分の意志を一つに統一しているものなのだ。
近所にいる「いい人」がそんなに切羽詰っているならなんで相談しないの?と私などは安易に思うが、そこが本当に根深い問題かもしれない。相談したくともつながりをもてない、人間同士がバラバラになっていくのを後押しする他人に対して閉鎖的で無関心な世相は作品にも描かれているが、21世紀の現実にあてはめていったら怖いぐらい充分警鐘になっているように思う。ひょっとするとラスコーリニコフはラズミーヒンやソーニャやポルフィーリィがいるだけ、ずいぶんとマシな道を歩めるのかもしれない。

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