デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




サモトラケのニケの周りでも人がまばらに。閉館時間が迫る。

フランスの歴代政治家の肖像画が壁にかかっていた、革命前のフランスの王族がつけていた宝石が特別展示されていた部屋をみたあと、ミケランジェロの作品がある部屋に来た。
ミケランジェロの作品といえば、大半がイタリア、とくにフィレンツェで多く見られるが、ルーヴル美術館にもミケランジェロ作の彫刻が二作品ある。「瀕死の奴隷」と「抵抗する奴隷」だ。


ミケランジェロ・ブオナローティ「瀕死の奴隷」(1513年頃)
左に「抵抗する奴隷」

ミケランジェロといえば「最後の審判」の壁画や「ダヴィデ像」「ピエタ像」などが知られているが、それらはただ作品としてミケランジェロが作りたいから作っただけじゃなく、誰かから制作を依頼されることがないと今に残らない。これらの有名作品はローマ教皇や、実権を握った貴族や資産家らと切っても切れないの関係にある。
ルーヴルにある二体の奴隷像は、教皇ユリウス2世が自分の墓廟をつくるために、フィレンツェにいたミケランジェロをローマに呼んだことがきっかけで作られた。つまり、ルーヴルの二体の奴隷像は、お墓を飾る予定の作品だったのだ。
私にはそれだけでも当時の教皇の権力が絶大であることを表しているように思えるが、なんと教皇ユリウス2世は自分の墓廟をサン・ピエトロ寺院の真ん中に置いて埋葬されることを考えていた。
墓廟制作の計画は壮大なもので、ミケランジェロ制作の彫像たちで飾られる予定になっていた。ミケランジェロはプランに沿って制作を続けていたが、1513年ユリウス2世が亡くなったあと、計画は時が経つごとに縮小されていき、ついには中止になってしまう。この《墓廟の悲劇》は、ミケランジェロを大いに落胆させたことだろう。


像の表情は甘くて眠るような静けさをたたえていて、陶酔感すらあるのです。

像はもとは大きい墓廟の各面に4体つくられる予定で、その1体1体に意味があるらしい。あと2体が制作される予定だったうんぬんの研究から、「瀕死の奴隷」は多血質・若さ・春のことを表すとか。足元にいる猿のことも含めて、このあたりのことは正直難しいなぁ…。
ルーヴルで実物の「瀕死の奴隷」を見て、私がミケランジェロの作品に抱いている、美しくも粗野で力強いイメージが少し変わった。そして、薄暗い寺院のなかで墓廟の飾りの一部としてしか存在しなかったかもしれない像が、今や世界中の人々に開かれたルーヴルで一際目を引く作品として鑑賞することができるとは、歴史の皮肉といえばそうなのだが、像にとってみればよかったのかもしれないと思う。


一つの部屋に傑作がずらり。なのに狭苦しくなく、
囲いも鑑賞者がなるべく近くで見れるように
いたってシンプルにしてあるかのようでした。

閉館時間が迫ってきて、他に見ておきたい作品を思い出そうとしたが、やっぱり疲れもあり、思い出せなかった。
ルーヴルのガラスのピラミッドの出口へ向かおうとすると、下のベンヴェヌート・チェッリーニ「フォンテーヌブローのニンフ」があった。数年前、ルーヴルを特集した雑誌のなかで、この壁にかかった彫像の前の踊り場に座り込み一心不乱に写生をしている女学生の写真が載っていたことで、印象に残っていた。その写真がなかったら、作品に気づかなかったかもしれない。


ベンヴェヌート・チェッリーニ「フォンテーヌブローのニンフ」(1542-43)

イタリアからやってきた芸術家たちの作風の影響を受けて、フランス宮廷の好みを反映させ、優美で洗練された美術家たちの一群をフォンテーヌブロー派というが、そのフォンテーヌブロー派に影響を与えたのがチェッリーニである。彼はマニエリスムを継承したが、上の作品では独特の美を放っていた。
しかし、彼自身が書いた自伝では、喧嘩っ早く論争好きで、時に人を刃物で刺してしまい逃げ回っていたという。さらにローマをドイツ皇帝カール5世が襲ってきたとき、教皇クレメンス7世の護衛軍の射撃手として働き、敵の仕官を倒したこともあると記している。
ううむ、芸術家にはいろいろな経歴の人がいるものよねぇ…。

   ***

さて、「名作たちシリーズ」は今回で終わりますが、ルーヴルにはまだまだたくさん見逃していたものがあり、またご覧いただいているみなさんのなかにも、ルーヴルのこれが良かった、あれを見てみたいといったことが、きっとあると思います。
もし、そういった思いを抱かせる作品がありましたら、コメント欄にてお教えくだされば幸いです。

ではまた、次のシリーズの「オルセー美術館」で!?(笑)。

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