Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

オペラ劇場ってところ

2018-04-21 | 文化一般
これを書こうとしたら、二回目上演の日の新聞に一週間前の初日の評が出ていた。今まで出す紙面が無かったのだろう。マンハイムの音楽劇場はどんなゲストの楽団が入ってもその程度は変わらなかった。つまりドイツの二流どころのその音楽的な演奏程度が良く示されていた。二流というのはその給与体系から両シュターツカペレやミュンヘンの超Aのその次のAクラス給与に含まれる。つまりBクラスもある。歴とした二流である。ドイツに移住した説にはオペラ座があるところに住みたいという事を語学学校で例文にしたことがあるが、上のクラスの差は分からなかった。そしてマンハイム程度では音楽の分かる耳効きには耐えられないことが直ぐに分かった。そしてザルツブルクなどのスーパーオパーを経て、ミュンヘンで本当のスーパーオパーに慣れ親しんだ耳で四半世紀ぶりにマンハイムに戻ると余計に耐えられなかった。ゲストの古楽楽団がシュツッツガルトから訪れているのにも拘らずである。

出掛ける前は、フランクフルトの我々のバッハコンサートで様々な欧州のトップクラスの古楽楽団を招いたことから、四半世紀前の録音などからすれば遥かに優れた演奏が奏される期待をしていた。その希望は昨年末に訪れたロココ劇場でも裏切られなかった。しかし弦の音調も合せずに前半を通してしまう野蛮さには我慢がならなかった。そのような指導者であるからリズムもしっかりとれないのが示すように、舞台への指揮も全く出来ていなかった。要するに音楽的準備が出来ていない。勿論イタリア語の叙唱であるからドイツ人には難しいのだろう。だからパッサカリアの出し方だけは見事でルネ・ヤコブスやアーノンクールでもなせなかったような明晰さで余計に驚いた。基本的には恐らくナポリ版で精々四声の扱いで、デュプレの曲などを交えて本当に挿入曲を入れたセンスは決して悪くは無かった。

我々音楽愛好家には下手な演奏には我慢できない。勿論音楽は技術だけではないのだがアンサムブルとなるとそこが出来ていないと話しにならない。我々がオペラ上演には何も期待せずに、態々出かけないのは聞いていられないからである。しかし、ミュンヘンで経験したことは指導者がしっかりしていて超一流の歌手を集めればある程度の上演が可能になることであり、どうしてもそれをオペラ上演の基準とすると更にその差異に我慢ならなくなる。出来る人は十二分の練習の上に更に舞台への指揮まで細かくするのを思うと、如何に方や天才コンサート指揮者とはいいながら通常のオペラ業界で棒を振っている人の職業は全く異なるのを知らされる。

ガイダンスの席で一緒にベルリンの国会に行った知り合いの夫婦に出合ったが、SWRの記事を読んでいた。私もそれで出かけた訳だが、これであの連中ならばシュツッツガルトに就任するカラヤン二世君を絶賛しかねないのも合点が行く。要するに文化波とはいってもそこで書いている一部は全く音楽のドレミも分かっていない連中なのだとハッキリした。音楽的にあれで満足すると書いたらもはや音楽について一言も書く必要が無い。

そして私が今回ロージェを独り占めして30ユーロであったが、ミュンヘンでのそれとの価値の差は大きい。私の場合はミュンヘンへの往復で80ユーロ駐車料金最低14ユーロにプログラム代掛かるので、マンハイムへの全て合わせて15ユーロほどとは大分違う。それでもやはりマンハイムには芝居訪問だけにしたいと思った。ミュンヘンに住んでいるのとマンハイムではこれだけの違いがある。それだけ聴衆の質も違う。その点も今回確認したかったことで、バーデンバーデンでのその評価の資料にしたかったのだ。

それでも新聞にあるようにその公演自体は音楽的な価値を差し引くと音楽劇場としての価値はやはりダルムシュタットやハイデルベルクよりは上だった。流石に名門シラー劇場の素地がある。そのヴェネツィアの水を張った舞台は音響的な悪影響が多大で二幕だけは水が無く落ち着いていた。要するに音楽劇場の演出としては非常に不味かったが、芝居の舞台としては決して悪くは無かった。そしてポッペア役のニコラ・ヒレブラントはザルツブルクやミュンヘンでも歌っているように最後のピアニッシシモで歌い熟していて技術的にもまだ先のある人であることが際立った。その他ウヴェ・アイケッターのように東京やブタペストでミーメを歌っている歌手や、ご当地で人気のマレー・べレ・サンディなど何人かはある程度の水準の人が居たが、なるほど嘗てのマルクス・アイへなどがミュンヘンでは声が無いと批判されるのが分かる陣営だった。あの程度の会場であの声ならば到底ミュンヘンでは難しいという人が殆どだった。合唱団の声のトレーニングもやはりミュンヘンのそれとの差は明らかだった。

さてもう一つの興味であったのは二十年ほど前に新装なったオペラ劇場である。購入したのは上から四番目のクラスだったが、視界も写真の様に良く、一部上手が切れるぐらいだった。テロップも見やすく、近代的な劇場としても悪い方ではない。なによりも1156席よりもコムパクトな感じで小劇場と同じコンセプトで平土間が傾斜付けられていて悪くはない。音響はこの大きさならばともう一つ上を望みたいが、少なくともマンハイムのあの座付き管弦楽団には以前の劇場よりも明晰さが増したので悪くは無かっただろう。建築素材などは安物の公団住宅や二等客車のようでマンハイムらしく安物臭い。それでもあそこであの「パルシファル」がやられるのかと思うとうんざりするのも正直なところである。よほどしっかりした指揮をして貰わないとどうしようもないのは変わりない。ある意味、視界も音響も、倍もあるバーデンバーデンの劇場のそれは可成り奇跡的な成功例であることを改めて確認した。




参照:
「ポッペアの戴冠」再会 2018-04-15 | マスメディア批評
偉大なるマルクス様像 2018-04-16 | 文化一般
ツルツルピカピカに 2018-04-17 | 文化一般
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ポッペアに追い込まれ

2018-04-20 | 
何時もの様に追い込まれた。「ポッペアの戴冠」の準備はまだまだだ。最後の最後に版の選択など細かな具体的な事項に目が行くかどうかわからない。それでもどのような取捨選択がされて、現時点でのモンテヴェルディ解釈の一端を垣間見てみたいと思う。ルネ・ヤコブスの録音もシュヴェツィンゲンのロココ劇場での公演も20世紀を否世紀末を代表する演奏実践なのは違わないが、それならばそれから四半世紀経った今、それがどのように発展解消されているのか?

例えば二幕のマドリガル風の音楽構成は正直音楽劇場のドラマ的発展が無い限り少なくとも我々の耳には退屈でしかない音楽となっている。その理由は、特にルネッサンスの対位法の音楽に慣れた耳にはあまりにも単純に収まり過ぎていて、マドリガールと特定しないでも復古的なルッソーのその和声の重力に辟易するのとよく似ている。それらが北ドイツに移植されるとシュッツなどの嘆き節へとそして中部ドイツのバッハ家族へ流れていくことになる。蛇足乍らそこに20世紀の大衆音楽となったカラヤン指揮の管弦楽などの和声の響きと同じく、あまりにも当然過ぎるように収斂してしまう単純さへの嫌悪に近いものを感じる。

Monteverdi - L'Incoronazione di Poppea, Schwetzinger Festspiele, Trailer [Arthaus Musik 102304]


ルネ・ヤコブスの表現自体は、当然のことながらその和声的な重力感を伴った繊細へと表現の方向を定めてはいるのだが、如何せん基本となるマドリガール自体がそのように書かれている限り、そうした冗長さは避けがたいかもしれない。上のような理由からモンテヴェルディの今日的な意味合いをマドリガールに見出すのは難しいのだが、オペラにおけるやはりその劇場表現媒体の基礎としての関心は変わらない。なんといっても久しぶりの生公演に接してみないと語れないことは沢山ある。

あとどれほどの時間があるかは分らないが、学術的な検討や解釈によって導きされるその残された楽譜や台本からの解釈の余地はそれなりにあるようで、どうしてもその一貫した演奏解釈の肝心な所だけは準備しておかないと皆目解らないと思う。

それでもCDのノートにもあるように、残された楽譜の読み方は重要で、ヤコブスが叙唱におけるリズムの訂正などについて触れている点が重要だ。つまり氏の経験からモンテヴェルディがテクストから逸脱する記譜をすることは殆ど無くて、二カ所のドラマ的な肝心な部分を除いて、この「ポッペア」でおかしい点は間違いなく他の人によって記譜されていて、その他の人によっておかしなオブリガートなども付けられている箇所は訂正したとある。

これは歴史的な演奏実践の場合に良くなる点であるが、少なくとも何らかの楽譜が残っていて、その楽譜がいい加減なものとすればそもそも歴史的な価値などは無い。あるのは装飾とか、現実の楽器やその機会に合わせた時代考証などであって、最初の物はそもそも歴史的に継承されているものでもありあまり問題は無く、寧ろ叙唱などの自由度の重要性が器楽的な通奏低音のそれに勝ることは当然のことである。勿論、ヤコブスの書く様に、カストラートが現在はいないという事の方が音楽劇場表現には頭の痛いことであることは言うまでもないだろう。

朝一っ走りした。短い坂上がりコースだったが、最初から普段の感じに近づいた。息使いも普通になってきた。少なくとも前回とは大違いだ。まだまだ早くは走れないが、掻く汗が気持ち良いものになってきた。これで劇場でおかしなことにならなければ嬉しい。



参照:
ツルツルピカピカに 2018-04-17 | 文化一般
偉大なるマルクス様像 2018-04-16 | 文化一般
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隠されている問題

2018-04-19 | BLOG研究
比較的早い時間に走った。折り返し点で汗を掻いた。陽射しが充分だ。まだまだ本調子ではないのだが、前夜も煮豚のスープにニンニクとショウガをおろして、コラーゲンラーメンとしたので満腹度以上に効果があった。気管支の炎症も治まって来ていて、木曜日でのオペラ公演中の鼻水と咳は何とか抑えられるかもしれない。しかし、のど飴だけは忘れてはならない。

そのような塩梅で「ポッペアの戴冠」を水曜日中に最後まで通しておかなければいけない。天気が良く摂氏27度ほどまで上がりそうで、Tシャツの生活が始まった。まだ風が冷たいので半ズボンは必要が無いが、気持ちの良い季節になった。そのお陰で窓を開け放って仕事することになる。すると流石に市の役所前に住んでいるので町が騒がしい。週末にも反対側のシャンペン工場でお祭り騒ぎの喧しい音楽が流れていた。あれは音楽というよりもただのリズムボックスの野蛮なものでしかない。今回ノイズキャンセリングのイヤーフォーンを購入する心算なので、自宅でもワイン祭りの時にどれぐらい効果があるのかと旅行時以外の使用の可能性に気が付いた。あのリズムボックスと喧噪がどれぐらいキャンセルされるのだろう。キャンセルされて圧迫感があると生活にならないので適当に音楽を聞けるぐらいの感じが良い。高等な耳栓替わりである。

ネットで様々な音楽に関する話題が飛び交っている。エルブフィルハーモニーでのカーネギー公演への壮行演奏会のクリップが上がった。最初に上がった時には二時間もしないうちに消去された。どこが問題だったのかは調べると分かった。見出しのテロップの演奏会の期日が23日のところが24日と間違っていたのだった。その映像の鮮烈さと座付き管弦楽団らしくない分析的な響きが聞ける貴重なヴィデオである。会場が違い、管弦楽団の並び方も違い、楽員がお互いに目が効くので、全く違う指揮捌きと演奏が出来たと話題の演奏会であった。なるほどこの鳴り方は今までこの座付き管弦楽団が経験したことが無いアンサムブルとなったことが分かる響きである。一体地元のハムブルクの管弦楽団はどんな響きを奏でているのだろう?
Kirill Petrenko and the Bayerisches Staatsorchester: Tschaikowsky's Manfred Symphony (Clip)


日本の音楽評論家と名乗る教授がお話しにならない音楽会の感想を書いている。益々日本人の教養や学術的な程度が落ちてきているのを感じさせる。吉田秀和の文化勲章でさえ可成りスキャンダルなものだと思うが、まだ彼の場合は自身はただの物書きだと自己弁護していたので救いようがあったが、少なくとも学問をする者が非科学的な思考でなぐり書きをしているのが日本の文化で芸術の程度である。

しかし、フランスでもドイツでも音楽芸術特にオペラ上演に関してはあまりその程度は変わらない。フランス人でヴァンダラーと名乗る人の書いたもので分るのだが、特に注目したのは「バーデンバーデンの聴衆」について触れた部分だ。その聴衆の質で容易にザルツブルクと比較されているが、なるほど夏や復活祭の音楽祭とバーデンバーデンの都市圏の地元民とは大分違う。

しかしここにもう一つの問題が隠されていて、それは日本からの聴衆が経験したことと共通していて初日以降のこのフランス人の経験した聖金曜日と最終の復活の日曜の上演などは初日の地元の人たちは殆ど居らず、もしいるとすればバーデンバーデン周辺で地元の無関心層に捌いたようなティケットを安く購入した人が多かったと思われる。それは初日でも第一幕が終わってからザイテンバルコンのみならず正面のバルコンからも人が沢山消えた現象が物語っていた。経済的には成り立っているようだが、有効入場者数には幾らかの偽りがある感じさえするのである。

La question des productions de Baden-Baden se pose à plusieurs niveaux, aussi bien artistiques qu’économiques et sociologiques. Le public du Festival de Baden-Baden est moins habitué que celui de Salzbourg aux productions un peu décoiffantes.

もう一つの問題として、今シーズンで勇退するメーリッヒ・ツェブホイザー支配人の責任について触れているが、これはある意味正しいのだが、つまらない演出に金を掛けるぐらいならば適当にした方が良いだろうという言い訳も成り立つ。大問題はその芸術的コンセプトを描くことの出来るような人物ではなくて、なにはともあれ破産した劇場を今後の可能性を期待出来るほどまでに経済的に立て直した功労を語るべき人物である。

Enfin au niveau artistique, l’énormité du théâtre et du plateau déterminent des choix, mais le directeur artistique, Andreas Mölich-Zebhauser qui n’a jamais été trop intéressé par la question scénique. Baden-Baden est un Festival d ‘ « events » où les mises en scènes trop problématiques ou idéologiques ne semblent pas trop bienvenues.

その他のアコースティックやラトルのオペラ指揮に関しては態々触れるまでもないことだが、結局ヴァークナーの音楽劇場作品に関してはそもそも音楽劇場効果を期待していく人間の方に落ち度がある。本当にその効果を信じている人が居るのが不思議でたまらないのである。セリフ芝居を音楽劇場と比較すれば一目瞭然であるが、どうしてこうもヴァークナー愛好家はなんとも非理知的なのだろうと感じるだけだ。要するに音楽だけでなくて劇場空間もよく理解出来ていない人たちなのだ。



参照:
ツルツルピカピカに 2018-04-17 | 文化一般
「ポッペアの戴冠」再会 2018-04-15 | マスメディア批評




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華為製品を買い物籠に

2018-04-18 | テクニック
プライムシートという無料でデジタルコンサートホールを聞けるサーヴィスを試してみた。デジタルコンサートホールの音響面を担っている日本の企業体であるから日本国内限定無料なのだろう。我々音楽ファンにとっては動画はどちらでもよいことの方が多く、ハイレゾリューションで無料で聞ければあとはトレイラーだけを見ていればもう要らない。試してみるとやはり重かった。少なくとも現在の私のスピードでは少しだけ音を聞けたぐらいであとは流れなかった。今回は断念するしかないが、八月のベートーヴェンプロはこれで聞いてみたい。

そのためにこちらの環境を整えるべく、昨年二月から懸案となっていたグラスファイバー回線へと移行する手続きを取った。机周りだけでも三種類の電話回線と少なくとも五つの電話番号があるので、これを整理するのも目的だったが、その支払元など様々で複雑だったのだ。どうも一つの番号は廃止にしないことには、回線数を減らすことは難しいようで、先ずは新しい契約についてくる新たな二つの番号が増えて、全部で七つの番号になる。最初半年は割引価格なので、それが切れるまでにもう一つの回線を解約すれば事実上月々の全支払額は殆ど増えない。

なによりもインターネット回線が二つになることで偶に起こる「音信不通状態」を避けることが可能になるだろう。そしてなんといっても毎秒27.9MBit以上のダウンロード、2.7MBit以上のアップロードが保証されるために、現時点での大抵のネットでのコンテントは問題なく落とせる筈だ。今回は間に合わなかったが、今まで遅れたのには最初の導入時期のよりよいお得なオファーを躊躇させた原因は他にもあったからだ。なによりもそれ用に準備されているルーターの評判が悪く、飛びにくいという事だった。

グラスファイバー化を果たしても現在使っているデジタル回線は維持するためにルーター二機がWiFiを飛ばすことになって猶更その性能や安定性が問われた。しかし評判は散々だったので、そのモデルが一掃されるのを待っていたのである。独テレコムのやることであるから、その予定数を導入時期のお徳用パックで捌いてしまわない限り、それに代わる機種に力を入れない。漸く、通常にルーターと一緒に注文して、月々賃貸料払っても新モデルが主力になってきたことを確認した。要するに少々安くても旧モデルは御免だったのだ。そして今回新モデルの賃貸料金が5ユーロ弱になっていて、アマゾンで購入すれば115ユーロなので二年も掛からずに償却可能となる。つまり買いだった。これで決心した。

これで上の速さならばデジタルコンサートホールもその他の生中継映像も少なくともこちらの速度でその質に制限が掛かる事は無くなる。室内のWiFiに関しては従来通りで使えるが、NASは新しい方がDLNAとも上手く使える可能性が高い。するとどうしても従来のルーターで構成しているWLANの方はサブのシステムになってくる可能性が高い。そこまで新システムがよいならば万々歳だ。そしてなんていうことは無い、メーカーは華為なのだ。流石に信頼おける独テレコムの選択だ。

最後までの問題はFAX専用にしている番号が移せないようなので、FAX番号が変わることになることだ。平素からその番号を使っているのは必要のない宣伝目的の業者なので全く問題は無く、もはや仕事でFAXを使う人は殆ど居なくなっている。少なくとも電子メール化している。個人的に最大の問題はその番号を印字してある名刺と便箋がまだまだあることで、便箋の方は印字で変更してしまえばよいが、名刺の方は少なくとも線で消さないと不親切かもしれない。大抵の人は電子メールか電話をする筈だが。携帯電話の番号もいれていないのでこれも手書きで加えることはしばしばあるのだ。勿論契約を解消する前にもう一度だけ番号移転も相談してみたいとは思っている。



参照:
Accept 華為 or 羽佳!?  2018-02-23 | 雑感
I love „Made in China“2018-04-08 | 生活
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ツルツルピカピカに

2018-04-17 | 文化一般
久しぶりに煮豚を取ってきた。前回は謝肉祭時期であるから二月程ぶりだろうか。とってもそのようなものを食する元気は無かったが、ここに来て全快への道を歩んでいる。それでもまだ口がおかしく、ざらざらしたりするので一週間投与した抗生物質の副作用が出ているのかもしれない。

久しぶりに峠を攻めてやはり疲れが残った。特にどうのこうのというわけではないが、インフルエンザの影響がぶり返したような微熱感などが残った。決して悪くはなっていないのだが、まだまだ元気がない。そこで煮豚を食することにしたのである。なんといってもコラーゲン満載で、これだけで口の中のざらざら感や肌乾き感などが一掃される筈だ。東洋医学的な効果をそれほど信頼しないが、この煮豚の効果だけは普段から実感しているので間違いない。これで精がついて全身がツルツルピカピカになってくれると嬉しい。

「ポッペア」のお勉強は奥が深い。ザルツブルクでのプログラムを見つけた。演出はユルゲン・フリムとあった。あまり記憶にはないが比較的分かり易い舞台だったと記憶する。1990年代初めのプログラムを見ていると全く覚えていないコンサートやオペラが次々と出て来る。如何に記憶に無いか、如何に意味の無い催しだったが、それも記憶に無い。しかしざっと見ると、今のような念入りの準備どころか、自身の好みとか目的がハッキリしておらず、ただ有名で定評のあるような出し物と演奏家の催し物に通っているようで、逆に特殊な目的を定めて出かけたものは記憶に深く残っている。要するにミーハーまでは行かなくても、一種のクラオタ的な思考がどこかにあったのかもしれない。勿論プログラムを見ると微かに思い出すものも少なくはないが、全く思い出さないものもあってがっくりする。あの当時はその上に開演前にアルコールを飲んだり、休憩時に飲んだりしていたものだから全く残らない。時間と金の無駄だったと反省する。要するに、「俺はあれに行っていたということを自慢する程度のバカな行為」をしていたという事になる。浪費以外の何物でもない。

残念ながら当時のザルツブルクのプログラムは、マルティン・ヴァルサーの手記が載っている位でそれ以外はあまり資料的価値が無い。歌手もマックネールとかぺトラ・ラングとかクルト・モルとかが歌っているが、プロフィールも載っていないのでその当時のそれも分からない。変なプログラムだ。

それに引き換えアルモニアミュンディのCDのブクレットは情報満載だ。なんといってもルネ・ヤコブスによる楽譜の読み方の論文がとても興味深い。それによると二種類の手書きの譜の系統があって、ヴェネツィアでの上演、ナポリでの上演に纏わるもので、二通りに別れるらしい。いずれにしてもそこでの器楽的な音楽はシムフォニアとリトネッリに限られて、通奏低音を伴った音楽によるドラマであることには変わりない様だ。そして、そこで演奏させる器楽曲はモンテヴェルディの指導の下で各人に作曲された器楽曲となるから、先日のSWRでの当時の常套として様々な器楽曲がという事がこれに当たるようだ。

ブックレットにおいてもその著作権の捜査は音楽学者に委ねるとしているので、まあ「様々な曲が挿入されたという言い方」は、何も適当に取捨選択して挿入するという事ではないという事だろう。そして当時はまだ座付き管弦楽団という楽団が存在しなかったとなれば、当然今回のマンハイムでの公演の様に二本づつの楽器編成が正しいとなる。ヤコブスは中声部に当たるヴィオラを書き加えているようだが、マンハイムでも同じような様子だ。

そしてヤコブスに言わせると「当時の劇場は500人規模だったことを考慮すれば、現在の劇場は大き過ぎる」となるが、マンハイムは1156席あるらしい。ロココ劇場の二倍である。但し古い劇場とは違って響きはよいかもしれない。奈落の深さなど色々と考慮する点はありそうだ。



参照:
コラーゲンをたっぷり摂取 2016-04-13 | ワイン
「ポッペアの戴冠」再会 2018-04-15 | マスメディア批評
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偉大なるマルクス様像

2018-04-16 | 文化一般
トリアーのマルクス像が設置された。贈答主の中共政府と一悶着あったが、ローマ遺跡のポルタニグラとマルクスの生誕家の近くに設置された。最大の争点は中共政府が提案したその像の大きさだった。今回設置されて5月5日の200歳のお誕生日にお披露目を待つのは、― 恐らく待つのは政治家諸先生と送り主の中共の大使達のご臨席だろうか ―、なんと4.40mの高さで2.3Tの重さの像である。つまりトリアー市で反対された巨大像は6m以上の計画だった。如何にもシナ人の考えそうなことである。

兎に角、シナ人の旅行目的地となったトリアーであり、その観光収入を考えると少なくとも中共の申し入れは断る術はない ― 姉妹都市のヴァイマールなどはシナ人などに来て欲しくないとまで言っている。それでもシナの感覚に合わせる訳にもいかぬ。三十年前ならばマルクス像自体に反対の意思が強かったとSPDの政治家が語っている。まあそれでも、十分な大きさで、中共も容認可能なプレゼンスは確保されたのだろう。それでも式典までに壊されてはいけないので昼夜監視体制が引かれて、五千ユーロから一万ユーロの費用が掛かっていることから、それだけでも雇用が増えたともいえる。先ずは正式のお披露目まではコートを着せられているようだが、先ずはお顔だけは捲って写真撮影と相成ったようである。式典はその割礼から始まるようだ。
Kurz vor dem 200. Geburtstag: Trier widmet Karl Marx eigene Statue


久しぶりの峠攻めだ。日曜日にパン屋が開くようになったので、土曜には休んで日曜日に備えた。感想だけを目指した。前回は熱を出すその聖土曜日だったと思う。往復出来た。投薬を止めて初めての朝の鼻の調子も喉の調子もまずまずだった。それどころか前夜のステーキの消化も良さそうで、走って来てすっきりした。これで頭痛も消えて、気管支炎の炎症も収まれば完治である。インフルエンザは怖い。

早速、「ポッペアの戴冠」一幕10景までを流した。DLした楽譜ではアレグロとなっているところが、ルネ・ヤコブス指揮では悉く無視されていて、それより遅いテムポの快適さの中に散りばめられている。なるほど手書きの古い楽譜を見ると、そのような感じでよいのかとも思うが、解釈には違いない。この辺りは注目で、今回のマンハイムでは舞台も当時のヴェネツィアバロックの考証をもとに制作していて、音楽も当時のバロックオペラ風に様々な器楽曲が挿入されているらしい。ある意味、ヤコブスの仕事は楽譜から繊細さを抽出して再現したものであるが、個人的にはバロック表現として若干の違和感も持ち続けていたので吟味したいところである。このオペラの父のような作曲家のマドリガーレとオペラの関係がそこにあるのかなとも思う。

それにしてもこうした一次資料に近いようなものが簡単に居ながらにしてDL可能となり、嘗てならば指導者か研究家ぐらいしかが目を通さなかったようなものに目に触れることが可能となっている。とても良い時代であると思うとともに、聴衆の目や耳が肥えて来るのは当然で、それに匹敵するようには音楽ジャーナリズムが追いついていないことを嘆くしかないのであろう。様々な専門分野において、ジャーナリズムがプロフェッショナルからアマチュア―へとその質と量とも変わってきて来ることは当然のことなのである。



参照:
Statue von Karl Marx in Trier aufgestellt, ka/ (dpa/twitter.com), (DeutscheWelle)
多重国籍の奨めと被選挙権 2017-03-15 | 歴史・時事
自宅よりも快適な車内 2005-02-14 | 歴史・時事
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「ポッペアの戴冠」再会

2018-04-15 | マスメディア批評
ナチョナルテアターのティケットを買った。12日のベルリンでのコンサート評を読んでいて、SWRのサイトにマンハイムの初日の評が載っていたからだ。二十年ほど前に新装なった大劇場に初めて入ることになる。小劇場は芝居でお馴染みだが、あのマンハイムのごたごたは御免だったから機会が無かった。しかし今回はバロックアンサムブルが入っていて劇場の座付き管弦楽とは関係が無い。これだけで先ずはいい機会だ。そして「ポッペア」の演出も中々よさそうである。このモンテヴェルディの名作を最後に聞いたのはアーノンクール指揮のコンツェルトュスムジクスだから、これまた20年ほど前のことだ。歌手も悪くないようで、音楽的には可成り質が高そうだ。そもそもドイツ語圏でもヴァークナー協会の発祥の地での屈指の名門なだけあって今でも歌手の登竜門である劇場であることには変わりないだろう。

その横にマンハイム名物の聖金曜日の「パルシファル」上演の維持活動が報じられているが、一寸流れる音楽が莫迦らしい。あのような1950年代の演出を残して、程度の低い音楽でうっとりするような人に音楽もヴァークナーも分る筈がない。本末転倒である。ミュンヘンでも「ばらの騎士」維持の署名活動が始まっているようだが、ああした古い演出を有り難がって残していったい何をと思うのだが、芸術とはまた異なるところでの大衆の動きがあって、如何にもオペラ劇場世界が非芸術的な世界であるかが示されているようなものだ。だから私はそんな退屈なオペラなんかには興味がない。時間の無駄である。

しかしこうなると、一週間のうちにあの長いオペラに目を通しておかなければいけない。楽譜に目を通すのが初めての曲どころか、モンテヴェルディのオペラでは初めてだ。体調が充分でもないのに間に合うだろうか?席はバルコン席を試してみるので、ピットの中は見えるだろうから、通奏低音部もよく分かる筈だ。さてその価格の30ユーロは安いのか高いのか、試してみなければ分からない。ラインネッカー地区ではこの手のバロックオペラはシュヴェツィンゲン庭園内のロコロテアターと決まっているが、今回は近代的な劇場である。同地でのルネ・ヤコブス指揮の公演は今でもレフェレンスであることは変わりないが、その録音を今回通して聞いてみる心算だ。

12日のベルリンでの演奏会評が面白い。そもそもSWRが態々ベルリンのフィルハーモニーまで行って報じること自体が、ミュンヘンのBRが報じないのと対照的で面白い。要するにこれからお迎えする所と、去る者を追わずのミュンヘンとの違いだろう。だから「三日間のどれも売り切れていない演奏会は、あまりにも知られていない曲でのプログラムに原因がある」として、「こうした巧妙で実験的なプログラムに聴衆を獲得しようと思えば、ペトレンコがコミュニケーションで何かを示さなければならないだろう」としていることは、そのもの復活祭で芸術的なコンセプトを高めれば問題となることであり、予め皆で試行錯誤しているという事でしかない。これは我々の問題でもあり、芸術活動の核心で、上のような焼き直しの演出をやるような無批判の悪趣味なオペラ劇場やその聴衆層とは正反対の態度である。

ピアノを受け持ったワンに対する風当たりはどの評を見ても強く、そもそもその名人性をアムランなどと比較するべくもなく、一体何を彼女から期待しているのだろうと不思議に思う。新聞によればまさしく映画館での放映はそのハイカットの衣装のお陰でありというような下らないことを今更書いている大衆紙があるぐらいで、そもそもの市場の相違と、如何にそれをアップグレードして繋いでいくことが難しいかという事である。その意味ではありえないと思われるランランのカムバックで、ペトレンコと共演するというような考えられないことが実現するとなると更にそうした市場への挑戦となり、ただでは済まないことになる。一体誰が背後で画策しているのかは分らないが、話題性だけでは終わらない。

ワンに関しては自己弁護どころか「指揮者も私の早いテムポに慣れて来たわ」というような突っ張った言動のようなものがあったが、正直彼女がとても苦労してやっていることとその言動が全く一致していないので ― 彼女の投資の回収ばかりを考えた目の回るような公演回数では本格的にピアニズムのステップアップしてくることも困難であろうが ―、新聞が「(そうした彼女の考え方は)明らかに失敗であり、ワンはペトレンコの良いパートナーではない」とか、真面な所ではSWRが「ユジャ・ワンはペトレンコの繊細に対応する術がない」というのもあまりにも当然過ぎて態々示すことでもない ― 明らかに彼女の利点に注目する方に価値がある。少なくとも彼女にはランランが学べないことを学ぶ素養がある。新聞にホルンのクーパーと同時期にカーティスで学んでいたと書いてあった。寧ろ管弦楽の出来ていないことを指摘することで浮かび上がることの方が大きい。



参照:
Vielversprechende Eintracht, Christian Schruff / Online-Fassung: Jennifer (SWR2)
解像度が高まると 2018-04-14 | 音
再考察ルツェルンの宿 2018-04-09 | 雑感



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解像度が高まると

2018-04-14 | 
ベルリンからの中継を聞いた。流石にフィルハーモニカーはイスラエルフィルとは違う。分かり易い喩え方をすれば解像度が、1k,P1080に対して780ぐらいの差だろうか。たとえイスラエルでキリル・ペトレンコと練習して何回も本番に上がっても、フィルハーモニカーが初日で見せるような解像度では演奏出来ない。これが一流と二流の明らかな差だ。

今回も鉄のカーテンを引いて徹底的な練習をしたらしい。ワンがピアノを受け持ったプロコフィエフの協奏曲三番では各パートを別途にゆっくりと弾かせてその音を確認させたと想像する。解像度が上がれば上がるほどピントが合っていないところがハッキリしてくる。この曲も一曲目の「ラ・ぺリ」も三曲目のフランツ・シュミットの交響曲もまるでフィルハーモニカーの課題曲の様になってしまった。これらの練習をすれば何が出来ていて何が出来ていないかが明らかになるからだ。

その意味からはプロコフィエフでの弦は特に高弦を主に健闘していて、その程度に管楽器が合わせてくることの難しさを感じさせた。傷は仕方ないとしても、十分に音が出ていないようで、この辺りはどうしても合衆国の超一流楽団のややもすると「アニメーション化」するぎりぎりのところで鳴らすものとの差が明白だ。だからといって個々の楽器がそれほど深い音を出すわけではなく、要するにその程度までアンサムブルの精緻さを上げようとするとそれだけ歌い込めてないという事だろう。合わせるのに余裕が無い。

恐らく管楽器に関してはサイモン・ラトル時代に適当に遣らせたツケがこうして回ってきた感があり、キリル・ペトレンコ時代に変化が期待される面だろうか。金曜日土曜日と二回、そしてザルツブルクとまだ練習する時間はあるので、ルツェルンではその成果を聞かせて欲しいところである。昨年の様に初日で大事故を起こすようなことが無くなっただけでも準備してきているという事だろうか。

管弦楽団以上に顕著にその解像度の相違が出ているのはワンのピアノで、満足行くように弾き切ることが益々難しくなってきているのが分るような演奏で、アンコールを弾かなかったのも頷ける。

ラディオ放送では、前日に収録したクラリネット奏者で楽団長のバーダー氏へのインタヴューが流れていたが、ペトレンコの指揮者としての特徴は氏自身がコーミッシェオパーでソリスツをしていた時からコンサート指揮者であったとするのは必ずしも後付けではないだろう。つまり、指揮者のオーガナイズ能力はオペラ劇場で全体を制御しきるのはとても難しいが、それを経験としてやってきたという事で、それによって歌手にとっても歌い易い指揮者となったのだとしていた。要するにスーパーオパー指揮者でその辺りのオペラ指揮者とは素性が違うのは当然だろう。

まだまだオペラ指揮者云々というのはご愛敬であるが、それ以上に興味深かったのはデジタルコンサートホールのあり方に関する言及である。これはなるほど新しいメディア形態であるが、あくまでも記録以上のものではないとする見解をフィルハーモニカーから改めて聞けたのはとても良かった。それ以上でも以下でもないという事だ。

投薬を止めたいと思ったが、最後の晩は思いがけずもう一つ冴えなかった。喉の感じも鼻もそれどころか頭痛も少しあってまるで微熱でもあるように感じた。それでも森を一っ走りすると気分は上向いたが、油断はならない。ぶり返すとなると今度は医者に行かないと手に負えなくなる。



参照:
再考察ルツェルンの宿 2018-04-09 | 雑感
面白くて、目が虜 2018-04-13 | 文化一般
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面白くて、目が虜

2018-04-13 | 文化一般
サラダ水切り器が壊れた。2014年8月に25ユーロ出したものなので決して安くは無かった。この手の製品は三通りの水切りの駆動方法がある。一つは指で蓋のレヴァーを回して回転させるカム方式、もう一つはモーターの始動の様に紐で引っ張る方法、そして上から押さえてというのを試してみたのだった。これの弱点である上から押さえるのでそこのプラスティックへの加重に堪えられなくなって割れた。更に機構もバネ式なのでその部分への黒カビなども避けがたかった。使った結果は期待したほどではなかった。三年以上使えれば文句は言えまい。そして今度はレヴァー式に戻った。最も安価な商品があるのだが、その倍を投資した。理由は評判が良く、蓋を左右で押さえて固定するという方式を試してみたかったからだ。紐式は最も回転速度が出るが、紐も切れやすく、意地になって回してしまう傾向があるので決して野菜には有り難くないのである。そしてレヴァー式の強みは回転方向を容易に変化させられることだ。

中華製という事であまり出てはいないようだが、材質はFDAやお食事マークが入っているので合格しているのだろう。メーカーは長春成績電気という会社でINTEYと称する商標の商品だ。デザインや色合いの評判はよく、安全性が確保されているとすれば、あとは使い勝手だろう。先ずはそこのゴム輪がはがれたが、これは接着していない証拠で、カビの生え方などが問題になるかもしれない。シリコンスプレーを掛けておこう。

同時に発注したべルント・アロイス・ツィムマーマンの本が届いた。冊子の感じはソフトカヴァーで分厚く、34ユーロ相当の美術展のカタログに近い。パラパラと捲っていてもどんどんと情報が出て来る。書物としては親父さんのコラージュのフォームは取れなかったようだが、より自由でポップな感じで素晴らしい。兎に角溢れる個人的手記や写真の数々が、作曲家を身近に感じさせて、この作曲家に何らかの思いを抱く者は、それは同時代の三島由紀夫世代への郷愁であっても、ヨゼフ・ボイスの時代を感じるとしても、この新刊書は見逃せないと思う。勿論研究者には喉から手が出るほどの資料集となっている。まるで机の上のべルント・アロイス・ツィムマーマン博物館の様である。

それ以上にぺらぺらと捲っていると止まらない。例えば索引に若杉弘の文字が浮かぶと、なぜかなと思ってそこを見ると、彼が日本で「ディ・ゾルダーテン」を初演した時の記録として出ている。勿論のことキリル・ペトレンコも同じように出ている。興味深いのは、この度インタヴューした証言者の中にギュンター・ヴァントの息子さんが出ていることだろう。

またぱっと開けると、そこには手書きの手紙原稿の文が載っていて、マルシュナーがヴァイオリンを受け持つとか、ヴェ―ベルンのカンタータ二番とOpus9の楽譜を送ってくれとか、ついつい目が奪われてしまうことが満載な内容になっている。安くない書籍だと思ったが、既にそれ以上の価値を感じて来ている。目が虜になってしまう。

ベルリンのフィルハーモニーからの中継が楽しみだ。ワンとペトレンコはリハーサルするまでも無く合わせれる筈だが、フィルハーモニカ―がどこまで細かく絡んでこれるのか。ラトルの遺産として管楽器などの合わせ方はお決まりなのだが、その受け渡しや歌い込みの徹底など、キリル・ペトレンコが初日でどこまで絞ってきているかが聴き所だ。そして何よりもフランツ・シュミットの交響曲四番、ルネッサンスになる演奏となるだろうか。



参照:
全力を以ってあたる 2018-04-07 | 文化一般
サラダの水切りのように 2014-09-07 | 生活
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ブラインド聞き比べ

2018-04-12 | マスメディア批評
バーデンバーデンでの復活祭の一連として収録された番組を聞いた。ラトル指揮第七交響曲イ長調演奏の前日の同地での公開番組だ。四人の音楽評論家が四つの録音を持ち寄ってブラインドで聞いて演奏実践に迫るという番組である。この手の評判の高い私の友人が出ているスイスの番組との違いは、演奏実践の相違について分析していくよりも、対抗馬を落として行って最終的に二つを勝負させるというところが大きく違う。つまり客観的な相違を洗う出していくというようなところまで至らない。

今回の番組もだから演奏実践の核というか、演奏家がどのように楽譜を読みどのように音化しているの実態には全く触れない。やはり評論家の質にもよるがアカデミックなアナリーゼを抜けきれない。それでも今回は自身の管弦楽団を持ってベートーヴェンアカデミーを率いているルーヴァンの教授指揮者も一人だったのだが、この人の批評がアカデミックな和声システムの色付けとそこから急に演奏を称して表面的で心が籠もっていないというようなまるで日本人評論家が謂うようなことに飛躍する。

一人目のスイス人が持ってきた録音がヴァイル指揮1811楽団の演奏を称して、音を正しく出すことに終始していると聞こえるらしい。私からすると下手な演奏なのだが、この教授が持ち寄ったアーノンクール指揮欧州管の評判は悪く、最初から落ちた。理由は各声部の方向性が揃っていなくててんでばらばらだったからだ。しかしそれを言い出すとそもそもアーノンクールの指揮者としての限界を定めることでしかなく、そもそもイ長調交響曲と何ら関係が無い話なのである。

二人目が持ってきたのはお気に入りではなく、伝統的演奏実践の例としての提示らしかったが、一楽章主部のヴィヴァーチェでのテムポの動きで皆おかしいと思う。決して伝統的な均整の取れた古典派像ではないだろう。これは細部が弾きこまれていないので仕方ないとされながらも最後まで一つ目と並んで残った。二楽章でもシューベルトのさまよい人や葬送行進曲風が上手に出たからである。教授がここで態々強調するのが二拍目のスラー効果であり、一体この人に習うアカデミーって思ってしまう。要するに二流の音楽学者の二流の指揮者でしかないだろう。二流のアカデミズムに二流の芸術趣味が宿っている。

そこで司会のロッテ・ターラー女史が出してきた録音が面白かった。明らかにフルトヴェングラーの歌い方を真似ているのだ。皆がppの抑え方の難しさについて語るそれで、結局二つ目と比べて本物臭くないので落とされたが、答えはアバド指揮ベルリンのフィルハーモニカーの演奏だった。勿論ラトルはそこまで弾かすことは無かったがということになったが、1990年代当時のあの楽団の状態を表す録音だった。アバドの弟子とされる教授は、この演奏はアーノンクールの指揮だと推測した ― アバドの弟子にはどうも真面な耳を持っているような人が居ないようだ。 

最終的には四楽章フィナーレでのメトロノーム72よりも遥かに速い一枚目が落とされて、二枚目のクレムペラー指揮のモノラル盤が残った。稔りの無い放送だった。キリル・ペトレンコ指揮イ長調交響曲がフルトヴェングラー指揮の価値を超えることなどは期待しないが、上の話しでは触れられていない、楽聖のその筆運びを体感したいのだ。つまり、音楽のアーティキュレーションなどを幾らアカデミックに触れても、その創作の湧き上がるリズムを刻んでというあの感じは演奏家が本当に新鮮な気持ちでムジチィーレンをしていくところでないと伝わらないものなのである。なるほど上の教授が正確に音化しようとする努力だけが耳につくというのは正しいのだが、それはしっかりとアインステュディールングをしてこそ演奏者から湧き上がってくるものなので、教授の言うような「心から出でで心へ帰らんとする」ことはとても技術的なことであることを語らなければ話しにならない。

二拍で区切ろうと四拍を一緒に歌ってその大きなフレージングの流れで和声的に辻褄を合わせようが、その回答は決して伝統的な演奏実践に解があるのではなくて、あくまでも考証的な楽譜への傾倒にしかない筈ではなかろうかと、改めて思い起こさせる放送だった。



参照:
van Beethoven: Sinfonie Nr. 7 (SWR2)
そろそろ詰めよう 2018-03-27 | 雑感
次はシェーンベルク 2018-03-28 | 文化一般
演奏会発券当日の様子 2018-03-07 | 雑感
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激しく咳き込む

2018-04-11 | 生活
Tシャツとシューツで走った。今年初めてである。ゼーゼーは治らないが、前日よりは明らかに好転している。就寝前に解熱剤を服用したのは変わりなかった。それでもヴィールスは徐々に出て行っている。こうなれば少々の粗治療の可能性がある。沢沿いの往復を完走したので、自信が付いた。スピードは出なくてもこれで発熱さえしなければ、完治は近い。

それでも薄い坂をあがって駐車場に戻るころには嫌な汗を掻いていた。鼻からで出来るだけ放出したつもりだが、まだ全身から嫌なものが出て来る。肉屋で朝食を買っている間も濡れたからだが気持ち悪かった。急いで抗生物質を投与しておく。

昨晩はサラダに続いてスパゲティーを食そうと思っていたが、サラダを残っていたパンと食してヴァイツェンビーアを引っ掛けただけで満足してしまった。朝の走りも距離も短く運動量も少なかったから当然なのかもしれない。それでもまだまだ食欲旺盛とまでは至っていないのでその体調のほどが窺がわれる。

冬タイヤを履いたままだ。サーヴィスのために電話すると5月第二週にしかアポイントメントが取れない。そこでタイヤ交換だけ先にしてもらう。それでも来来週だ。寝ている間に支度が遅れた。電話が辛い。思わず声を張ると咳づいて大変なことになった。



参照:
ナインのはそこやで~ 2018-04-10 | 文化一般
I love „Made in China“ 2018-04-08 | 生活
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ナインのはそこやで~

2018-04-10 | 文化一般
月亭可朝の訃報が入ってきた。ムシの知らせがあった。週末辺りに大袈裟太郎の台北からの中継で名前が出てきたからだ。嘉門達夫に纏わるもので誤って彼の元弟子とか話していたので、鶴光のとまでは訂正する必要も無かった。兎に角、その当時のこの小米朝や小米(後の故桂枝雀)など米朝の筆頭弟子は仁鶴と並んで当時の大阪ラディオの花形だった。関東の談志と並んで鬼才の人物だったと思う。

フィラデルフィアからの生中継を聞いた。現地で日曜13時からの放送がこちらでは19時からだった。先ず送信出力がバカでかくて、どれほどのサーヴァーを用意しているのだろうかと思った。動画ストリーミングほどの容量があるのだろう。初めてだったので、本当に生中継されるのか不安だったが、素晴らしいストリーミングだった。

その有名なサウンドは、ユージン・オーマンディー時代の如何にもアメリカ的に大らかに鳴るそれで、その看板には偽りはなく、ムーティ指揮やザワリッシュ指揮の録音などでもとても立派な音響で鳴っているが、生での実力やその音楽性に関しては未知だった。現常任のナゼ・セガンの指揮は更にこの管弦楽団の可能性を感じさせた。立派に鳴るだけでなく、そのアンサムブルとソリスツの名人芸などが余裕を以って響いた。

ショスタコーヴィッチのソリスツには、日系や日本の姓名などが呼び上げられていたが、その人達は本当に音楽のエリートの人に違いないと思った。こんなに豊かに余裕を以って鳴る交響楽団は他に存在しない。楽器をとても上手に鳴らすだけでなく、楽器も驚くほどよく鳴る。弦から管、パーカッション、ピアノまでが一斉に鳴っても、団子に鳴るどころか、パワーが入れば入るほど音程が揃って分離感が冴えて来る ― ショルティ指揮シカゴの様に音が痩せない。要するに室内楽的に合わせて楽器間の受け渡すと同時にシームレスに合せて来る。

こんなに楽器が鳴る管弦楽団は欧州にはないが ― 奏法の流派や楽器の選択の要素は少なくないとしても ―、昨年聞いたクリーヴランドのそれとは正反対である。敢えて言えばキリル・ペトレンコ指揮のベルリンのフィルハーモニカーの目標ではないかもしれないが、フィラデルフィアのようにたっぷりと余裕を以って鳴らすことも、クリーヴランドのように精緻に鳴らすことも不可能であり、それは昨年の「悲愴」の第一楽章の展開部のあの鳴りの先に課題とするサウンドがあるのだが、この両楽団やシカゴのそれの程度までソリスツも合奏も水準が上がらないことにはお話しにならないと思う。要するに世代交代完了するまでの時間が必要となる。

久しぶりに森の中を走った。走ったと言っても登りは歩いた。胸がぜーぜーすることには変わりなく、就寝前に解熱剤を飲んでいる位だから無理は出来ない。それでも坂を上がると何ともなかったので、徐々に駆け足を初めて、最後には通常に近いスピードまで出ていたようだ。それでも登りには左足の脹脛はパンパンになり、一週間も使わないとこうなるのかとも思った。抗生物質も止めれないが、これで代謝作用も盛んにウィルスが抜けて呉れればよいなと思う。


写真:
ショスタコーヴィッチ七番「レニングラード」のフィナーレ、全強奏になればなるほど各パートの粒が立ってくる。



参照:
細い筆先のエアーポケット 2017-11-03 | 音
現状認識と今後の展開 2018-03-26 | マスメディア批評
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再考察ルツェルンの宿

2018-04-09 | 雑感
二月前にルツェルンの宿を取った。新たに八月の計画を練っていると、二泊しなくても一泊でも十分だと思った。そこで調べてみると、二泊よりも若干安い部屋代で一泊可能な良いホテルが見つかった。予約しておいた。一泊90ユーロ超えであるから決して安くはない。それでも市街地から数キロ圏内のハーロウの高台にある。市内よりもよいのは駐車場が無料なことと景色が良く、静かなことだろう。

朝食を付けると14ユーロほど高くなるが、初日のベートーヴェンの七番の後、アンコールがあってもまだまだ遅くないので、市内で食事をしてから若しくは時間によってはホテルに帰宅後にゆっくり食事をしてからベットに入れる。そしてチェックアウトを11時にするまでゆっくり就寝可能だ。空調も付いているようだから朝寝には困らない。

つまり郊外で二泊するよりも、高価なスイスの食事を二回に限る方が明らかにスイスに落とす金を節約可能となる。スイスは脱脂綿の様にどのような金でも吸い取るような伝統的システムになっているので、滞在期間を短くするのが一番安全だ。上手く行けば、二日目のフランツ・シュミット交響曲4番の後でアンコールがあっても、翌午前一時までに帰宅可能だろう。スピード違反さえ気をつければいいのだ。

来週木曜日と金曜日に放映される同プログラムのお勉強をするつもりだが、中々体調がそれを許さない。まだまだ胸がぜーぜーして落ち着かなく、気力も充実しない。微熱傾向も変わらない。土曜日に皆がTシャツでバーベキューをしたりビキニで陽を浴びていても私は室内で毛のセーターを着て膝から下に寒気を感じていた。特に夕方になると疲れと共に微熱も感じて、食事こそしっかり食べたがまだまだ弱い。結局就寝前に再び解熱剤を服用した。中々投薬を止めれない。

金曜日は欧州中での映画館でフィルハーモニーからの演奏会が中継される。試しに最も近所の映画館の入場料金を調べてみた。8ユーロほどである。自宅で見るためには9ユーロ以上いるのでそれよりは安いが、車で行かなければいけなかったり駐車料金を考えると合わない。平素から映画館に通っている人にはいいのだろう。そのためか、送られてきた絵葉書にはワンのパンツから出ている足が写っている。こういうのはとても販促力があるのは当然だ。その反面、ルツェルンのコンサートの券は今でも余っている。まだまだラトルなどに比較すると知名度が低いという事なのだろう。それでも音楽祭初日のランランのコンサートはまだ完売していない。いわばランランがカムバックするかどうかは分からないでも購入する熱烈なファン層というのは数が限られるのだろう。一方来年のバーデンバーデンのランラン公演の平土間は一席を除いて完売している。

日曜日の晩はフォラデルフィアからの中継を聞いてみる心算だ。指揮はナゼ・サガンで、その才能も限界も分って仕舞ったのだが、それでもライヴァルのクリーヴランドやシカゴと比較してどれぐらい違うのか確かめてみたいのだ。ムーティ―指揮よりもよくなる可能性はあるのだろうか?



参照:
ワイン蔵の温度変化 2018-03-01 | ワイン
演奏会発券当日の様子 2018-03-07 | 雑感
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I love „Made in China“

2018-04-08 | 生活
投薬の影響で粘膜が乾いてきたようだ。鼻の中が洟噛み過ぎで真っ赤になり、喉がくっ付くようになってきた。食事も可能となったので、そろそろソフトランディングと行きたい。抗生物質はまだ中止できないが、解熱剤は止めよう。就寝、起床も通常通りとなったので、買い物に出かけた。大丈夫かと思ったが大買い物を熟せた。週末に完治となればよい。のど飴を忘れずに購入してきた。これがどうしても必要だった。果物も欠かせない。

郵便桶に分らないものが届いていた。どう見てもシナからの直送品のようで、二三日前に充電池が届いたのに、間違いで直送とベルギーからの両方が届いたものと思った。こちらの責任ではないのだが、一つは綺麗に置いておこうと思った。そして封筒を開ける。ドイツの通関の証明も貼ってあるので正真正銘の直送品である。そして開けて分かった。一月前にアマゾンで発注したHDMIケーブルのカップリングのアダプターだった。この間に籠り部屋から出てしまったので、どのような目的で、幾ついるのかも忘れて仕舞っている。そして色々とみているうちに分かった。

細い固定したHDMIケーブルの先にモーバイルのラズベリーなどを接続する目的で発注したのだと分かった。事の始まりは、BENQのモニターには二つのHDMI端子が用意されている機種が少なく、HDMI端子と従来のDVI-D端子の双方を有効利用するためには各々のモニターのデジタル出力をHDMI端子にするアダプターが必要になることで、そこからラズベリーを繋ぐなりPCを繋ぐなりしないといけない、つまりもう一つのHDMI出力にはPC若しくはその代わりにグーグルキャストが接続されからだ。要するに固定されたケーブルにはこのアダプターを使うしかないことがある。三つ発注したのは価格がほとんど変わらないので三つで1.61ユーロつまり一つ54セントだから発注したのだ。54セントならば人に上げても喜ばれるので損はないと思った。

シナでは、今回のトラムプのGAT違反に関して、巷で囁かれているようだ。つまり、現在の対中経済戦争は、嘗ての対日の合衆国の政策と同じで、シナの経済的な脅威に対する合衆国の政策であることには変わらないという事らしい。シナの潜在的な市場規模などは日本などとは比較にならないが、それでも今でも日本がある種の産業部門では先端を走っていることが報道されているらしい。要するに、合衆国は超一流の座から徐々に落ちてきているという事だろうか。



参照:
勝負にならないもの 2018-03-10 | ワイン
Accept 華為 or 羽佳!?  2018-02-23 | 雑感
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全力を以ってあたる

2018-04-07 | 文化一般
投薬の効果があって、通常通りの起床となった。腰の痛みもとれた。通じもあり、朝食も僅か乍らの食欲が出てきた。前日は、抹茶と蜂蜜を入れて吉野本葛で葛湯を作ったが餅と湯の中間のようになった。水で薄めればよかったのだが、その固さ加減よりも味覚が無いので少々持て余した。夕刻にはヌードルスープを十分に食した。熱が下がっているうちに栄養を補給したかったからだ。胃腸を痛める危惧はあったが大丈夫だった。

仕事をしていると病気のことなどは直ぐに忘れて仕舞ったが、走りに行っていないことや洟を盛んに噛んで、戸外は晴天なのに寒気を感じているうちに薬が切れたらと思いだした。忘れる所だった。抗生物質を自身の書いた処方箋通りに飲んで、更に鎮静剤も半量に減らして服用する。再び発熱するのが怖い。

夜中は熟睡もしたが、喉の痛みがその分睡眠を阻害する要因になった。相変わらずベットに入ると寒気が酷く、まるでベットの周りが氷結しているような感じはこの二週間ほど変わらない。今まで一度も感じたことが無いので、屋根裏部屋の不思議である。陽射しが変わることも、暖房のあり方も変わっていない筈だが、今年は比較的早くから暖房を切るようにした影響はあるかもしれない。

寝込み始めるころに平山美智子の訃報が出ていた。初めはその文字から誰のことか分からなかった。音でしか聞いたことが無かったからだ。シェルシの曲を演奏するのにコンタクトを取っていた者から、その名を聞いていた。どこかにCDがあるかと探したが見つからない。作曲家ジャツィント・シェルシは、1988年に亡くなっている。

更に若い世代で生誕100周年の作曲家で、先月20日にそれが祝われたのが、20世紀ドイツの作曲家で一際人気の高いべルント・アロイス・ツィムマーマンである。18歳の時に父親を亡くした娘さんベティーナが中心になって書かれた書籍が出版された。未発表の書き物や写真など豊富な資料と個人の身辺者への詳しい取材に基づいた1970年に自死した作曲家が、研究家ライナー・ペータ―スのコメントを加えて描き出されているらしい。

改めて新聞評にも大書きされているのが、WDRの仕事とそのコラージュ創作への流れ、ダルムシュタットでのブーレーズやシュトックハウゼン、ノーノらとの距離感、そして晩年の苦悩として、ギュンター・ヴァントや先任者ヴォルフガンク・サヴァッリッシュらケルンの座長の反発、特に前者によってミヒャエル・ギーレンによるギュルツェニッヒ楽団での上演まで妨害されて、生を使い果たすことなどである。この本を読むと、もはやヴァントなどは許せない芸術を解さぬ破廉恥な楽師長でしかないとなるに違いない。あのブーブーと吹かすブルックナーを思い浮かべるとそのものこの書籍の表題で、作曲家が得意とした楽想記号ConTuttaForzaつまり全力を以ってを思い浮かべてしまうのが、何とも皮肉である。研究者や演奏家、愛好家には欠かせない書籍のようだ。一冊注文してみたい。

因みに私はあの楽長親仁のLPこそ保持しているが拍手も送ったことが無いだけでも幸いである。そのツィマーマンの生誕百年祭は、ドルトムントでもメッツマッハ―指揮のSWR放送交響楽団の演奏で催される。秋からバーデン・バーデン祝祭劇場に移るスタムパ支配人の最後の仕事のようである。一昨年亡くなったピエール・ブーレーズの百周年も数年後である。それまでにブーレーズハウスも整って、生誕90年以上に大掛かりな祭典がバーデンバーデンで期待される。



参照:
Eine singuläre Erscheinung der Neuen Musik, JOSEF OEHRLEIN, FAZ vom 20.3.2018
Eine Jahrhundertbiografie, SWR
ストリーミングの昨日今日明日 2017-08-20 | 文化一般
「ある若き詩人のためのレクイエム」 2005-01-30 | 文化一般
現実認識のための破壊力 2013-11-25 | 音
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