Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

沸々と、ああ諸行無常

2019-05-25 | 
承前)第二部、今まで以上に音色旋律的な扱い方、つまりギーレン指揮の演奏などでは聞き取れなかった楽器間の動機の受け渡しがあって、それに伴う音色の出方が、可成り原色に出るところがあった。まるでそれが故マゼール指揮のように思え、それが演奏者のアンサムブル上の妥協なのかどうかは判断しかねた ― そもそもペトレンコがどんなに合唱付きの難しい楽曲であろうと当夜のようにアメリカ楽器配置にするなどは通常は考えられない。なるほどその早目のテムピと共に全く以って間延びするどころか、直ぐに次の緊張の線が描かれる。そして楽想、動機毎のイヴェントが築かれる。

罪深き女と罪を悔ゆる女との対照が明らかとなる。我々が思っていたよりもこの第二部はマーラーの名作であることがよく分かるところだ。そもそも第一部の展開部で明確に楽想を定義していたため、ここではそのセマンティックな展開を楽しむという知的にもとても高度な楽しみ方が出来て、まさしくゲーテの「ファウスト」というホッホクルテュ―アが展開される最高度の芸術音楽となっている。そこまで来れば到達先も見えてくるが、そこからが終演後にも話題となった愛の主題における歌いぶりであり、第一部のテムピの早さがあった故の余裕を以っての第二部内での大きなテムピ上のメリハリが可能となった。会場の方を向いて先ずはバルコン席の上の歌手を指揮して、最後に再び下の金管が深々と吹奏されると、もはやその三次元的な音響効果と共に付け加えるものの無いフィナーレとなる。まさしく諸行無常が大きく歌いあげられるのだが、その指揮振りの憎いこと。これに匹敵するほどのペトレンコの指揮は限られていて半神たる所以だった。ベルリンではまだ一度も見せていないからこそ、バイエルンでの様にはコッミシェオパー時の馴染みのように扱われて、まだまだ神になっていないのである。

ああした途轍もない大きなクライマックスは容易には築けない。なるほど途上のフォルテッシモではもう少し音が解放されればと思わないでもなかったが、緊張と緩和で十二分にコントラストが築かれていて、音楽的な効果は申し分なかった。楽譜を見れば気が付くように、マーラーの交響曲においては楽想の誇張によって咆哮したり情動的に泣きわめいているようでは、このように作曲家のペン先から紡ぎだされるような音響とはならない。その音楽から決して内声を聴くことも叶わず、それはグロテスクと陳腐さに終始する。

いつものように放送枠の関係から週明け月曜日から二週間に別けて放送されるようなので、先ずはそれでもう一度じっくり確認したい。余談ながら、昨年の第七交響曲は放送を待っていたのだがされなかった。許可が下りなかったに違いない。よって、その前に録音しているのは第五交響曲で、日本公演で指揮する準備ともなっていた。週明け月曜日の放送の予告はされていて、先ずは中止はなさそうである。オンデマンドもいつものようにあるが、残念ながらMP3の128kでは音質的に厳しい。

スタンディングオヴェーションは何度も経験したことがあるが、当夜のものだけが本当のそれだった。なにが違うか?近しいところではハイティンク指揮の演奏会後の一斉に立ち上がるそれであったが、その切っ掛けや間が全く異なった。多くの場合は前が見えなくなるとか、帰る序でに腰を浮かすかの両方の混じった形で徐々に殆どの人が立ち上がり、その間に座ったままのお年寄りがいるというような塩梅である。しかし今回は残響が鳴り止んで二三秒で拍手と同時に前列数列が立ち上がり、様子を観察した私がその二秒後に立ち、周りが総立ちになるのに更に二秒ぐらいしか掛からなかった。

そして管弦楽団よりも合唱団に、合唱団よりも独唱陣に更にペトレンコへと沸いたのを見てもそのスタンディングの意味するところは明らかだった。それが何回か繰り返されるコールの間座り直す者も殆ど居らずに永遠と拍手が続くのは嘗ての人民公会堂でもなかったほどである。そこで独唱陣が下がっても下がっても、更にまたふつふつと沸き上がる感じで拍手が継続されて、彼らが袖から出てくるのを待ち続けて更に盛大に拍手された。多くの場合は呼び出しの拍手へと移っていくのだが、ここではあくまでも静かに沸々と沸く感興だった。(終わり)



参照:
Radio Vorarlberg Kultur Das Konzert, ORF Voralberg, 27.5.2019
静かな熱狂の意味 2019-05-20 | 雑感
総練習に向けての様子 2019-05-15 | マスメディア批評
指揮台からの3Dの光景 2017-09-18 | 音
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身体に精神が宿るとき

2019-05-24 | 
少しづつ気温が上昇してきた。印象からすると今年ほど涼しい春は無かった。このまま推移するとそれほど暑くはならないと予想する。空気が充分に冷えていて、陽射しの中でのランニングも気持ちよかった。当然月が替われば気温は上昇するだろうが、長袖が必要な五月は久しぶりだったのではないか?五月の気持ちよさが今一つで、六月、七月と快適だったらよいと思う。但し六月は例年の如くヴァインフェストで騒がしくなる。

承前)最初のハイライトであったドッペルフーゲに関しては既に言及した。フォルテシモの頭出しの付け方とアクセント、到底今までの演奏では出ていなかった頭出しとそのカノン、残念ながら合唱ほどには管弦楽団に十分なアクセントが付けられていなかった。全てはコンツェルトマイスターの責任だったが、楽団は実力なりにしっかりと弾いていた ― 最後の喝采において管楽器奏者も何人も立たせた、しかし同じ楽器群でも立たせない楽器の一番二番の奏者もいた、それはペトレンコがいい演奏をこそ誉めるという矜持であって、ラトルのだらしなさとは正反対である。こうした対位法的な扱いにおけるペトレンコの腕前は劇場でも何回となく経験しているが、劇場作品ではこれほど凄まじく立派な楽譜は無い。

しかし、今回の八番の恐らく最も成功していたのはそこへと繋がると同時に第二部の素材となる楽想や動機の扱い方で、私が注目していたのはこの交響曲の展開部に相当するところでのその力感である。早いテムポにおいて第二主題部を上手に運んだのは当然なのだが、この第一部においては誰が指揮しても降臨する第一主題部とその他の部分へのあまりにものコントラストが難しい。

そして展開部の流れの中で、特に既に第二部での準備となっているところは、なにも楽譜が頭に入っていなくても予習に繰り返し音源を聴いている耳には、ミサ的に「インフィルマノストリ」と聖霊(精神)が宿るのは明らかではなかったかと思う。それほどの場の劇性こそが、ペトレンコ指揮では、ギーレン指揮者や小澤指揮などと同じようには音楽が淀んだり流れてしまわない所以である。

管弦楽の実力も影響したかに思えたのは、今まで聴いたどのペトレンコ指揮の音楽よりも、ややもすると説明的に感じたからだ。つまり対旋律などの当て方がで残念ながら上手く出てこなかったところがあるからだろうと想像する。反面、主旋律がアクセントをもって出てくるので見通しが良過ぎるぐらい流れが分かり易い。この点に関しては一年後のミュンヘンの劇場での公演でも完成しようが無さそうなので、ベルリンでの演奏が待たれるところである。恐らくマーラーのこの代表的な交響曲の本格的な回帰へと繋がり、バーンスタインのルネッサンスを漸く乗り越えることが可能となるに違いない ― 晩年にもう一度振ることを拒絶して「何も新たにすることが無い」と敗北宣言を捨て台詞とした指揮者アバドの無能力さを改めて回顧する。

そして件のフーゲを超えて、更に大きな合一のフィナーレへ、勿論ペザンテからのテムポの運びも、どうしてもこうしたペトレンコ指揮の専売特許として注目してしまうのだが、例えば指揮者ヤルヴィなどだと地団駄踏んでギアを入れ替えるところを一瞬の体の屈伸で見事に大フィナーレと運んだ ― 例えると昔のミッションの五足ギアと、最新式の九足のフルオートの相違であろうか。第一部の残響が捌けたところで拍手が来るかどうかと構えた。最近の傾向からすれば大都市圏ならばここで湧き起ったと思うほどの圧倒的な出来だった。

しかし流石にそこはローカルな地方都市の住人であって、そこまでトレンドに影響されていない。明らかに一部のドイツの都市からすると聴衆の平均年齢も高かった。そこに楽譜に指示があって、ヴィデオで見るロート氏のように会場を振り返って受けを狙わないのは当然だが、兎に角早い動きで大指揮をしたので汗だくだったようだ。いつも以上に長い時間を掛けて汗を拭いていた。(続く)



参照:
ああ無常、賢いゲジゲジ 2019-05-18 | 生活
イヴェントの準備をする 2019-05-16 | マスメディア批評
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店仕舞い商法もどき

2019-05-23 | 雑感
ドルトムントからティケットが届いた。二枚組になっていて発券番号も連番だった。そして四重奏団の名前も繋げて書かれている。やはり前半後半で弾くのだろうか。まだまだ先のことなのであまり考えないが、日本での放送の一部を小耳にするとベルチャと言う方は本格的な弦を弾いているがその分音も分厚く、第一ヴァイオリンの女性の見映えそのものだ。あまり和音を響かせたベートーヴェンは聴きたくないが、もう一つの四重奏団エベーヌの方が名前の通りならバランスが取れるだろうか。あまり共通性の無い二つの四重奏団のような気配がある。

今年の準備も追々進めていかなければいけない。先ずは、ヘンデル「ロデリンダ」である。なんと完売している。更に調べてみるとネットにフランクフルトのトレーラーが出ている。なるほどクラウス・グートのプロジェクトアイデアを聞くとそのあまりもの明晰さに揺さぶられる。やはりこの人も週末に話したピーター・セラーズとはまた違った意味で天才的である。音を聞くと、ちょっと信じられないような音が座付楽団から出ている。指揮のマルコンにもとても期待したい。
Georg Friedrich Händel: RODELINDA, REGINA DE' LONGOBARDI, Oper Frankfurt


それに引き換えカムブレラン指揮の「王ロジャー」の売れ行きは酷い。自らが監督だったらまた辞めると喚きたてるだろう。バイセクシャルの人間は皆似ているところがある。日本で人気があると言えばもう一人、ぺレスと言う女流ピアニストがいる。元々そのモーツァルトの安売りCDをネット試聴して内田の録音などに比較すればこれは価値が無いと思っていたが、引退騒動でインタヴューなどを聞いていて更に驚いた。「ピアノが弾くのももう嫌だけど日本で最後稼いでくる」という意味のことを語っていたので驚き、腹立った。そして今また盛んリサイタルどころかルプーに代わって登場するなど稼いでいる。恐らく住居のあるユダヤ人の多いチューリッヒへ暇に出てくるというなら分かるのだが、ハムブルクまで公演旅行をするというから只者ではない。あそこまで嫌と言ったのが本当だったのか、何か訳ありだ。まるで閉店閉店と万年掲げているような布団屋の閉店商法である。出てくるならばピアノを弾くのが嫌になったとあの歳で言うべきではなかった。余程金に困っているのだろうか?日本人ほど簡単に金を巻き上げれる聴衆もいないであろう。

その次の週のケント・ナガノ指揮のアイヴスの交響曲の副指揮者三人目の名前が出ている。兎に角、作曲家のピンチャーが序でに指揮するということは無いらしい。こちらの方はまだまだ売り切れていない。

コンセルトヘボー管弦楽団の演奏会が安売りになった。少々感じるところがある。ルツェルンのフェスティヴァルでのことだが、売れ行きが極端に悪いことは分かっていた。責任はルツェルンの舞台でコンツェルタントでもオペラを上演するという魂胆だ。同様のカラヤン二世指揮のダポンテシリーズは中ホール販売なので完売寸前である。勿論バルトリ効果は見逃せない。同様にソヒエフ指揮も人気が無いが、こちらはギャラが安いから問題になり難い。楽団の問題もあるが結構実力があっても入る入らない人気あの有る無しの指揮者がはっきりしてきている。私がこの二人を今まで聴いていないというのがとても良くそれを裏付けていると思う。

本当に危惧されるのは、コンセルトヘボーの人気低落つまりシャイーなどの時からは明らかに技術的に落ちている。そしてルツェルン音楽祭の安易なコンツェルタンテのオペラ上演である。バーデンバーデンとは異なって可能性が限られるというのは支配人も述べていたことであるが、やはり余程創造的に動かないと駄目だ。

一方、懸案のペトレンコ指揮シェーンベルクは大分出たのでこれは殆ど売り切れるだろう。ラトル指揮の中ホールも先ず先ずだ、同じ金を出すならばこれの前夜に一泊して、シャイー指揮のマデルナやリームを聴く方が価値がある。安くいい宿が見つかればである。



参照:
ワークインプログレス 2019-05-02 | SNS・BLOG研究
儒教に沿わない男女同権 2019-04-01 | 文化一般
カロリーだけでなく栄養も 2017-12-12 | 生活
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光闇、強弱のコントラスト

2019-05-22 | 文化一般
車に乗って、コンソールのレヴァーを上げた。トランクが開いた。日曜日にコーヒーを零して不通になっていた。窓も開かなくなっていたが、これも開いた。最後にサイドミラーである。これも動いた。てっきりヒューズが飛んで取り換える必要があると思っていたので手間が省けた。同時に車は水に少しでも浸かると制御不能になることも実感した。コヒー半分でこうである。水難事故はやはり脱出が難しい。

承前)コンサートの後、敢えて席を予約しなかった祝祭劇場のレストランで席を待ちながらカウンターで一杯ひっかけていた。そして二杯ほど飲んだところで、相席しますかときた。爺さん婆さんのお通夜みたいな二人だった。湿気てるなと思いながらも、様子を見ていて、声を掛けた。私が話したかったのはペトレンコの地元の定期会員の人であるが、そもそもあの時間に食事をしようという谷の人は少ないだろう。車でも距離が結構あり、雷雨も予想されているような天気だったからである。

しかし返ってきた答えは「シュトッツガルトから」だった。それならば話が早かった。爺さんの方は婆さんに振り回されて走りまわされているようだったが、婆さんは、「よく知っているねと言う」と、「そりゃ何十年もやっているから」と完全な団塊の世代のクラオタだった。話しを総合すると、ペトレンコのこのシリーズには何回か来ていて、ヨーナス・カウフマンにも出かけ、地元ではカラヤン二世の会に通い、夏はザルツブルクという人だった。ペトレンコに関しては、アニヤ・カムペ狙いで、ボッフムの「トリスタン」で無名のペトレンコを聴いて、「ディ・ゾルダーテン」、「ルル」を聴いて、2015年にバイロイトに出かけたらしい。目下の楽しみは夏の「イドメネオ」と次回のマーラー第九と、来年のバーデンバーデンのマーラー作曲六番となる。

因みにユロウスキー指揮の「ヴォツェック」も良かったというので、こちらはミュンヘンの宣伝を兼ねて、ユロフスキーとドルニーのペアの話しもしておいた。そして、シュトッツガルトの新聞にはティーレマンとのスワッピングの話しが載っていたというので完全否定しておいた。同時に今後のバーデンバーデンへの話しでは、新プログラムにはコンセプトが感じられたというので新支配人スタムパの話しになった。どうも私が通ってた頃のザルツブルクはあまり知らないような感じであったが、現在は再びの状況であるという意識を話していた。

いつものようにバイロイトの初代音楽監督の話しになって、私の書き込みの話しや、彼の駐車スペースにはポルシェでなくてVWフォエトンが停まっている話し、その才能の無さに話が進み、少なくともカラヤン二世は才能があるということになった。そこから演出のセラーズ、更に南アフリカ出身のゴルダ・シュルツが攻撃されたこと、そのことをラッセル・ト-マスが語っていたことを、知らなかったようなので、説明しておいた。ティーレマンがAfDかPEGIDAかどうかなどは話さなかったが充分だったろう。

しかし肝心な話は、やはり当夜の感想だった。私が強調したのはその音響のあまりにもの鮮烈さであり、それはいつも同じで劇場でもそうなるから、「キリル・ペトレンコはオペラ指揮者ではない」といういつもの力説を述べると、やはり驚かれた。それゆえに後任者のユロスキーの口八丁へと話が振れた訳である。すると婆さんは当夜の第二部の緩やかな部分の歌を反論として挙げた。

今回の八番の演奏を一言で評すとなるとそのコントラストとなる。強弱、光闇、緩急がとても大きく、緩やかな場面もペトレンコの指揮ならば更に間を持たせることも可能だった。それでも後年のギーレンの様には粘らない。ギーレンと比較すれば、その激しさと厳しさは到底比較できない指揮だった。レパートリーは異なってもムラヴィンスキーを想起させる指揮にペトレンコのそれは近づいているて、その厳しさはあまり例を見ない。楽譜を見ると確かに今回のペトレンコ指揮が正しいとしか思えない。

その分、合唱や歌手陣には求められるものを多かったが合唱団も少年少女も天晴れだった。合唱の入った大管弦楽では初めての音響体験であり、振り返ると日に日にその演奏の意味が更に大きくなってきた。当日の中継録音放送が流れるのにはまだ時間がある。(続く



参照:
静かな熱狂の意味 2019-05-19 | 雑感
ああ無常、賢いゲジゲジ 2019-05-18 | 生活
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PC音楽再生再び

2019-05-21 | テクニック
NASからの音楽再生が再び可能となった。この三週間ほど不可能になっていた。切っ掛けはNASからの転送速度が落ちたことだ。だからケーブルもクラス7へとグレードアップしたが根本的な解決とはならなかった。それどころかファイル転送が一時停止するようになった。通常はサインカーヴのようなものを描くのだが、少なくともMINTの音楽再生PCではゼロ停止してしまっていた。

勿論PC内のファイルを再生するのは全く問題が無い。またPCの方ではNASをHDDのように使っているので画像などを開けるのにぐずぐずしているとストレスがたまって来ていた。理由はNASの方にあるのだが、それ以前はそれほど問題が無く、テストプログラムも問題なく回っていた。

兎に角、時間が無かったので、放っておいてSACDや問題の無いファイルで音を鳴らしていた。それ以前に問題があったのは大きな動画ファイルの再生だった。中断までいかなくとも音が途切れる症状があった。明らかにNASからの転送が上手く行っていなかった。

しかしどこにネックがあるのかが分からなかった。そこで十日ほど前に新しい方のルーターにNASを接続することにした。理由は速度が表示もされて、監視しやすいからで、実際には転送速度はそれほど変わらないと思われた。しかし結果は変わらず何よりも不都合だったのは録音をそのまま保存しているAudacityのファイルが中断でステレオの左右チャンネルがズレてしまって、するとさらに再生出来なくなった事である。中断ならばさらに続行されるのだが、左右がズレた音源は再生不可能である。

調べた結果、NASで指定しているバケット通信に相当するジャムボフレームが災いしていると分かった。これは有線のイーサネットの企画で大容量の転送をスピードアップさせるものだ。そもそもイーサネットなどはWIFIに切り替えてから長く使っていなかったのでケーブルのクラス分けがあることすらも知らなかった。だからジャムボフレームに合わせてPCの方でも調整しなければいけないことも忘れていた。しかしである、PCの方はルーターからWIFIで飛ばしているので関係ない。そしてルーターの設定に見つからない。どうも知らぬ間によさげなジャムボフレームの値を最大にしたようで、転送が難しくなったようである。

そこで、ジャムボフレームを外して、通常の音楽ファイルを再生すると最後まで問題なく流れた。そしていよいよ懸案のAudacityである。流れる、これで解決である。実際にPCのネットを量的に見るとサインカーヴの上側に近くなってきた。間隔は4sから10sぐらいである。

具体的には外すことで1500バイトとなるようだ。また転送速度を自動としたので2MiBsほどの受信が可能となっているようである。実測1MiBsぐらいは出るようになった。プレーヤーのキャッシュも二倍三倍にしてみたが、大型映像再生の音飛びは完全には解消しない。古いPCの方のCPUの稼働が上に振れているので仕方がないだろう。そもそも映像はそんなに観ないからアーカイヴ扱いである。

なによりも助かったのは、通常にPCを遥かに使いやすくなったことで、ケーブルを購入して数週間ほど経過してようやくその効果を発揮した。これで以前よりも早くなったのを確認した。一体この間何をしていたことだろう。

そして今大変なことに気が付いた。全く同じことをクリスマス前に書いていて、その記事が「健忘症のミスタービーン」となっている。アルツハイマーではないかと恐ろしくなるようなことを繰り返している。そして解決まで今回の方が時間が掛かっている。



参照:
NAS回転音の審査 2018-11-30 | 生活
健忘症のミスタービーン 2018-12-22 | 暦
カテゴリー7ケーブル導入 2019-04-06 | テクニック
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宇宙の力の葛藤

2019-05-20 | 
イヴェントでグスタフ・マーラー作曲「千人の交響曲」が演奏された。演奏規模として最大級のものであり、この名前が付けられている。待ち構える満席聴衆の前に表れたのは合唱団からで、最初から拍手が送られたために合唱団が一通り並ぶまで絶え間なく拍手が続けらて、管弦楽団がまた大きいので長い強い拍手が続いた。途中で止められないのも身内がいるからかなとも思ったが、どうもその拍手の大きさが違った。

そして330人へとなる独唱者陣がぞろぞろと出て、最後に指揮者のキリル・ペトレンコが出てくると更に活気が付いた。地元の定期が核になっているにしては「待ってました」という感じでもなかった。そして指揮台に上がると勿体付けることなくいつものように上段に上げた手を振り下ろした。すると、それまで、どうだこうだと想像が吹っ飛ぶ。やはりぺトレンコが読む楽譜と我々が聴いていたりして想像する楽譜の風景とは何時も異なるのである。そもそもその通りならば態々出かける必要もないのだ。

最初のVeniの前奏からして異なる。その音響もあるが、そこで影響しそうなメディアが伝えるこの演奏会でのその特別な場のそれではなく、とても毅然とした研ぎ澄まされた響きだったからである。前回の放送で聴いた第五交響曲においては最初がトラムペットでのソロもあって、ナイーヴさもあり、続く葬送行進曲も弦を鼓舞するかのような指揮振りだったが、今回は曲想の違い以上に練習の成果も見えた。しかし同時に前日にTVインタヴューで見た通りコンツェルトマイスターの実力はとても限られていて、楽団の程度がそこに反映されていた。なるほど音取は管と単独で合わせて、それを弦のトップに次いで、更に後ろにまで特別に聞かせるというような雀の学校のようなやり方をしていたが、例えば嘗てのシカゴのような低弦から合せていくというような哲学は見えなかった。

比較すれば、如何にも同族的ななれ合いの響きがする斎藤記念などの音響が特殊なのである。往路では小澤征爾が指揮したタングルウッドでの録音を聴いていたが、思ったよりも静的な指揮で、それゆえに楽譜が見えてくるところもあって面白かった。その意味からすれば、ペトレンコ指揮がどこまでもの楽譜の音化つまりミヒャエル・ギーレンの「この曲では音響を形造るところが指揮者の何よりもの仕事」がそこで実証されていた。

それにしてもここまでの激しい音響は今まで誰も想像しなかったに違いない。弦楽器はチェロだけで10艇もあり、通常以上に合わせるのは難しかっただろうが、明確に拍毎の音響が出ており、大きな破綻が無かった。その分、この楽譜ではとても激しいことになる。特に展開部のフーガの辺りは、大管弦楽団で様々なものも聴いてきたが、ペンデレツキなどよりもある意味厳しい音響となっていた。なるほど作曲家自身がこれほど難しい曲がなぜこう簡単に人気を博するのだと不満げに訴えていたのもこれで理解できよう。如何に平素の演奏では、そうした激しい対立がずらされることで誤魔化されているかが分かる演奏で、惜しむらくは対位法的な対旋律の線が綺麗に繋がるには管弦楽が明らかに非力であった。

兎に角、想像以上にテムピも早く、この第一部における力感、つまり聖霊の降臨からそれへの対峙としての二部の「ファウスト」に繋がる宇宙の力の葛藤が対位法的に描かれている訳だが、ここまでその対位を明確に響かさないことには何も表現されないのに近い。作曲家自身が、若いブルーノ・ヴァルターとオットー・クレムペラーを助手にしてミュンヘンのフィルハーモニカーの前身を指揮して、歌はヴィーンから楽友協会ライプッチッヒからと寄せ集めても叶わなかったに違いない。

その合唱団がとても健闘していた。初日には控えめだったという少年少女合唱団にも特別にペトレンコが鼓舞していたので全く問題は無かった。ミュンヘンでは劇場の自前で行くのだろうが、ザルツブルクからの大人の合唱団と共に、ミュンヘンの初演でも楽友協会を引き連れたように、とてもいい結果となった。

しかしなによりも新聞では「まるでバイロイト級のペトレンコが選んだ歌手陣」とあったが、過剰な表現と思ったが、確かに今まで知るクラウディア・マーンケよりも声が出て存在感もあり同時に技術的にも安定していた。感心していたのだが、ミュンヘンのマイスタージンガーで批判されていたヤクビアックに代わって入ったサラ・ヴェークナーは発見だった。今まではケント・ナガノ指揮などで歌っていてオペラは少ないようで、今年東京でリゲティで登場するようだ。なるほどヘルヴェッヘで歌っているのでフランクフルトで聴いている筈だ。そして表情もあるのだがなぜかオペラ界ではそれほどキャリアを積んでいない。この人が放つまさしくプンクトな一声は第二部でも光を放っていて、トッティーの中でも通る声は私の知るソプラノの中では最強だった。(続く



参照:
静かな熱狂の意味 2019-05-20 | 雑感
イヴェントの準備をする 2019-05-16 | マスメディア批評
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静かな熱狂の意味

2019-05-19 | 雑感
泊まったホテルは高得点が付けられていた。しかし実際には全くだった。それどころかタオルも部屋になく、言いつけておいても結局は届かなかった。最後にそれを指摘すると朝飯を奢らせてくれと言う。時間が無いと断るとコーヒーを持って行けと渡される。序でにジュースも飲んだ。

結局はコーヒーも運転席でひっくり返してシャツを汚すだけでなく、窓も開かないようにショートさせてしまった。大変な損害だった。それでも気を取り直して調べた近所の湿地帯へと立ち寄る。そこで持ってきたものでピクニックしたかったからだ。天気も丁度良く気持ちよかった。

今回は演奏会前日から興奮して睡眠時間が短く、演奏会後にシュツッツガルトの老夫婦と話していたらまた寝不足になった。それでも無事帰宅した。やはりあれはイヴェントだったと思う。詳しくは改めて纏めたいが、会場の座席選びも図星で、とてもいい席を押さえた。キリル・ペトレンコ指揮マーラー作曲交響曲八番をあれ以上にいい席で聴けるのは今後ともなかなか難しいかと思う。

公演前には夏のブレゲンツ音楽祭の水上舞台と観客席も見学した。一言、あれではヴェローナあたりのオペラ上演とどっこいどっこいだと分かった。そこで弾いているヴィーナーシムフォニカーと言うのがどの程度の楽団かもそれで知れる。まともな音楽家はあれには拘わりたくないであろう。

要するに音響も劣悪そうで、更に舞台の可能性も全く大したことが無いと認識した。あれならばヴェローナのアイーダの方がましかもしれない。あんなものを中継やらメディア化してもどうにもならないであろう。要するに観光客目当ての夏の人寄せアトラクションでしかない。私なら個人的にイルカショーの方が行きたいと思う。

そのようなところに併設されている劇場だから文化的な香りはとても薄い。場所にヴィーナーシムフォニカーと名を付けるぐらいだから、バーデンバーデンにベルリナーフィルハーモニカー広場を作るかという話しになる。白い頂が会場からも見えてそれは素晴らしいのだが、所詮その程度である。

しかしそうした会場であれだけの熱狂を湧き起こす演奏会を催すということ自体が如何にイヴェント性が高いかということになる。誤解があってはいけないが、折角の最弱音に携帯電話が鳴り響いたことを除けば ― あそこは折角の録音をどうにかしないといけないだろう ―、そんなに悪い聴衆ではなかった。その静かな熱狂について考えなければいけない。



参照:
まるでマイバッハの車中 2018-05-27 | 生活
再びルクセムブルクへ 2018-04-26 | 文化一般
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ああ無常、賢いゲジゲジ

2019-05-18 | 生活
マーラー作曲第八交響曲、再び第一部に戻ってみる。第二部との関連にも気を付ける。とても沢山の材料があって、死の足音を聞いた指揮者クラウディオ・アバドが「やり尽くした」とこの曲の指揮を拒否したことを思い出している。その演奏の編成規模や構成だけを見ても指揮者にはその力が無く、振り切れる自信も無かったのだろうと主に技術や体力面で考えていたが、それ以上にこの曲にはまさに聖霊の霊感が迸るようなところがあって、それが滝から奔流となって押し寄せるようなところがある。死を身近にした人には到底感受出来るものではなかったかもしれない。

嘗ては、その規模の大きさとかから、圧倒的な威力とか息吹をこの第一部に期待していたが、今は大分その音楽的な内容に足を掬われるような気がする。ペトレンコ指揮の初日の公演評にもあるように、「この交響曲が素材の、色彩の、形式の、編成の多様性にばらばらとなることなく、尽きない流れのフローを有していることを、集中した演奏で示した」となるが、その奔流は当然ながらのアンサムブルの質を超えて存在するガイストとしか思えないのである。

もう一度、ミヒャエル・ギーレン指揮の録音を聴き直した。第一部の詳細ももう少し分かったが、第二部の問題の長い大きな流れが見事で、後にバーデンバーデンで聴いた演奏よりもいいことが分かった。1998年のフライブルクでの録音とあるから、先ごろ亡くなったこの指揮者の絶頂期はこの頃だったのだろう。難しい部分は録り直ししているにしても見事な出来だ。ダイナミックなど不明なところもあるが、後年とは異なって管弦楽団もいいアンサムブルをしている。

燃料を満タンにしたが144で高くついた。久しぶりに100ユーロを超えてしまった。現金も少しも持っていくが、出来ればカードで済ましたい。夕食だけが不明なところだろう。ブレゲンツ市内でカードを使えそうなところを調べてみよう。宿まで40分ほど掛かるが、時間が早ければ少々飲んでも大丈夫だろうか。

宿の朝食を申し込んでいないのでバルコンで簡単に食せるようなものを持っていけないだろうか。飲み物も余分に持っていけば何とかなるかもしれない。前夜の就寝時刻によるが、宿からは三時間半ぐらいなので、ゆっくり出てきても帰宅は早い午後である。早ければお昼過ぎである。

先日就寝しようとしたら机の下からゲジゲジが出てきた。それほどいない筈だがときどき見かける。そしてテープで絡め獲ろうとしたら気配を感じて再び机の裏側へと逃げ込んだ。本能的な何かかもしれないがあの手の奴でも生存本能でこちらの動きを察知するのである。見た目も嫌であり、知らないところに足や手を入れて触ると嫌だと思って就寝した。翌朝の陽射しにふと机の下を見ると奴がふらふらと寝起きのように出てくるではないか。私と同じような生活をしていることになる。今度は逃がせないとテープを張って捕獲しておいた。そしてパン屋から帰ってくると影も形も無い。下が絨毯なので上手く逃げたようだ。益々よくやるなと思っていたら、夜になって机の後ろの壁を上ってきた。今度は取り逃がさないぞと本気で捕獲した。カマキリとかはただただ攻撃的なのだが、それよりも頭の悪そうなゲジゲジの方がとても巧妙に動いていた。



参照:
詐欺の前に凍りつく聴衆 2012-08-19 | 文化一般
イヴェントの準備をする 2019-05-16 | マスメディア批評
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ドルトムントに電話する

2019-05-17 | 生活
来年のヴァインフェスト避難の切符を購入した。一年以上先のそれも弦楽四重奏団の切符である。ケルンからドルトムントに一日遠足に行く。出し物はベートーヴェンマラソンで、二つの人気四重奏団が四曲づつ演奏して合わせて八曲、再来年と合わせて全十六曲という企画である。冗長な感じはするが、若い四重奏団が二日続けてでも各々八曲演奏するとなると、あまり信用できない。四曲でもレパートリーを練るには限界だ。四重奏団はエベーヌとベルチャという二つでなぜか人気がある。その評価は詳しくは知らないが、近所でやっても直ぐに売り切れているので、中々実力を確認出来ずにいた。訳の分からない四重奏団がベートーヴェンを弾いても大抵は行かないが、今回はケルンに滞在予定で近辺でも出し物を探していて見つけた。バーデンバーデンの新支配人スタムパが活躍した場所も一度見てみたかった。


Ludwig van Beethoven Streichquartett F-Dur op. 18 Nr. 1
Ludwig van Beethoven Streichquartett Nr. 9 C-Dur op. 59 Nr. 3
Ludwig van Beethoven Streichquartett Nr. 2 G-Dur op. 18 Nr. 2
Ludwig van Beethoven Streichquartett Nr. 11 f-moll op. 95 »Quartetto serioso«
Ludwig van Beethoven Streichquartett Nr. 12 Es- Dur op. 127

Ludwig van Beethoven Streichquartett Nr. 4 c-moll op. 18 Nr. 4
Ludwig van Beethoven Streichquartett Nr. 10 Es-Dur op. 74
Ludwig van Beethoven Streichquartett Nr. 13 B-Dur op. 130 mit Großer Fuge op. 13


シーズン売り出しで一挙に最後の方の公演を購入したことになる。もう一つの魅力は15時からつまり14時にガイダンスがあって、休憩後に19時から再開なので丁度上手く土曜日一日が潰れると思った。更に恐らく事務所の関係か二種類の四重奏団を同時に聴いてしまえるので手っ取り早い。更に一日券が38ユーロは魅力だった。そしてカテゴリー無しとなると、逸早く予約してしまえばお得間違いない。万が一前後の両日の関係やらで行けなくなってもこの価格なら諦めがつく。

結局ちょこちょことネットを監視していたらお昼頃にオンライン化した。席は選べないが、カテゴリー無しならばお任せでいい。実際にやってみると結構よさげな席が出てきた。恐らく一般売りでは先着何名か様だろうと思う。前夜に舞台の高さなどを研究しておいた。それほど高くなく、最前列でも行けそうな会場である。その分平土間自体が階段教室のようになっていて視界が効くようになっている。音質に関してはあまり入らなければエコーが還って来るだろうが、恐らく中ホール売り規模で満席になるだろうから近い席の方が細かなところまで聴きとりやすい。

そしてプリント受け取り送料無料でお支払いに行っても、二枚で50ユーロの表示が変わらない。これはおかしいと思って、先ずいい席だけを抑えておいた。五日以内に引き取るか電話をしなければ流されてしまう。この方式は初めてだが、試しに専用電話に早速電話した。すると直ぐに通じて、現在押さえている場所は25ユーロになっているので一瞬マニュアルで外して小定期扱いに入れ替えるというのだ。それでも両方とも場所を変えずに定期扱いにしてくれた。そしてカードで払うからとなって、面倒そうに思ったから二枚を3ユーロで郵送で送って貰うことにした。〆て41ユーロ、文句をつけて9ユーロ安くなった。なによりもスタムパが形作ったそのホールの雰囲気が感じ取れた。バーデンバーデンも今後間違いなくいい方へ変わると思う。

なるほど未知の四重奏団に25ユーロづつ払うとなるとお得とは思わないが、一日券で21ユーロづつなら大分印象が変わる。四曲づつだから一曲5ユーロだ。あれだけ人気の四重奏団であるから、それぐらいの演奏はしてくれるのではなかろうか。

それにしても、これ以上計画のために資金を出していくとなると、一度は地元のワイフェストの日程も観光局へ確認しておかないといけないかもしれない。残る公演で発売されれば然るうちに購入しておかないといけないのは、一週間前のミュンヘンの「千人の交響曲」ぐらいだろうか。ケルンのフィルハーモニーでの券は両日とも全く問題が無い、そもそも売り切れになるかどうかも疑問である。



参照:
来年の避難の下調べ 2019-05-08 | 暦
避難第三弾を計画 2019-04-04 | 生活
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イヴェントの準備をする

2019-05-16 | マスメディア批評
週末の旅行の準備を始めた。宿の位置確認など、ブレゲンツの祝祭劇場までの経路を研究して印字した。先ず問題はなさそうだ。終演後の食事ぐらいを考えておけばよい。燃料も価格を監視しておこう。

なによりも大切なのは演奏曲目のマーラー作曲交響曲八番の準備である。前回はミヒャエル・ギーレン指揮の今は無きSWF交響楽団での演奏会だった。当時はネットにおいても八番などの書法よりも六番の書法などにその指揮が合っていてと話されていたのだが、実際に聴くと第二部での弛緩気味のところがあったが、息切れすることは無かった。それはそれでその抒情性と諸行無常感がとてもよい感じだった。しかしどこかではCDで馴染んでいたテンシュテット指揮の演奏が好ましくもあった。

先週のヴィーンでの演奏会の放送を聴くと、指揮者のメストはそうした粘りも無しにひたすらクリア―に音楽を流していたが、諸行も無しにただ無情な感があった。そして、ギーレン指揮のCDを流すと、やはりこちらの方が正しいと思った。往路の途上で何を耳にするかが問題であるが、CDをリッピングなども面倒なので小澤指揮の実況録音でもダウンロードして行こうかと思う。

小澤指揮のマーラーはそれなりの評価があったのだが、当時に比べて上のメスト指揮のそれなどと比較となると全くその評価の尺度が変わっているのに気が付く。もう少し研究してみたいが、第一部においても以前とは異なるところへと関心が向かう。そのように解釈自体が変わってきているだろう。

キリル・ペトレンコのブレゲンツでの練習風景の報告などを読むと、そしてその演奏を予想すると、ペトレンコ指揮のこうした大掛かりな作品では本当のイヴェントが催される。それは二月の「ミサソレムニス」においてもそうで、八月の就任コンサートの第九、特に翌日のブランデンブルク門でのオープンエアーは正しくイヴェントだ。そしてこの千人の交響曲も初演の時は大イヴェントだった。「ミサソレムニス」、第九の流れをくんでいる。そしてそれは彼の指揮の実力からして音楽的に壊滅的にはならないどころか高品質なものが期待される。そこで思い起こすのがやはり大掛かりなものが得意だった小澤指揮でのサンドニ大聖堂での演奏会中継などである。

そして、ペトレンコが両親と一緒にシベリアから移住して、僅か二年ほどピアノ科に通い、暮らしていないボーデン湖で待ち構える級友や地元の人たちの熱意が伝えられるとそれだけで胸が一杯になる。2008年にフリーランスになったころに、地元の交響楽団がマーラーの九曲の交響曲を演奏するプランが出来上り、当時次なる分野へと進み出ていた指揮者と合意した。その後はシカゴやメト、リオン、フランクフルト、ケルン、ハムブルク、ドレスデンなどでの客演を繰り返していたが、2013年以降は周知の通り一挙に世界の頂点へと上り詰めた。そして、昔の同窓生で今回もティムパニーを受け持つクレバーが語るように「忙しいからいけないよで済んでしまうよね」なのに、約束を守って義理堅く最後までやり遂げるということで、今度は地元の方も意気に感じて成果を挙げようと大きなイヴェント化しているようなのだ。

まさしく、「ミサソレムニス」などがアマチュア―合唱団の熱意によって今日まで受け継がれてきたことに相当していて、グスタフ・マーラーにもそれを継承する意思があったのだろう。そしてペトレンコはこの曲を来年の監督としての最後のアカデミーコンサートに指揮する。もうこれだけ考えるとお膳立てが整ってしまう。なるほどそうした周辺事情と音楽芸術がどのように関係するのだという問いかけがあるかもしれない。しかし再考すれば、如何にそうしたハレの場とか本当のイヴェントというものが ― つまり高額を叩いて赤絨毯が敷かれるというものではない ―、コマーシャリズムの音楽興業の中で廃れてきていたかに気が付くことになる。それは、奇しくも彼を見出したバッハラー氏がインタヴューに答えて、ペトレンコの「若く真っ直ぐに見詰める姿勢にこれだと思った」と語っていたが、こうしたイヴェントが成立するというだけで、この指揮者の並々ならぬカリスマ性が示されているということではなかろうか。




参照:
Ein risikoreiches Unternehmen, Vorarlberger Nachrichten vom 10.5.2019
総練習に向けての様子 2019-05-15 | マスメディア批評
本物の一期一会の記録 2019-05-13 | マスメディア批評
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総練習に向けての様子

2019-05-15 | マスメディア批評
ペトレンコがブレゲンツに到着して稽古を開始した。今回はその様子を両国の通信社が伝えている。それによると、その小さな男が腕を上げて指揮をしだすと空気が変わるということで、直ぐにビジネスに向かったようだ。だから先頃の会見のこともベルリンのことも語らないという。

通常ならば二、三クールで済ますところをこの楽団はそこまで足を運んでくれたペトレンコに七とか八クールも時間を提供しているという。だからどこでよりもペトレンコの姿が刻まれている筈だという。そして多くの音楽家はペトレンコがそこにいた二年間の同級生であって、自動的に親称でつまりキリルと呼び合っているようだ。

これは、先日の会見でベルリナーフィルハーモニカーとしては敬称でペトレンコさんと呼ぶことにしたと報道があったので、その差異が際立つ。ブレゲンツで楽団員のティムパニストのハイコ・クレバーが応える。

「ここでは皆、彼とはDuだし、彼は勿論一流有名人だよ、それでも我々にとっては今でも彼は昔の儘だ。」

これを読むと、上の「ベルリンのことは話さない」と書かれている意味が分かる。皆が皆親しかった訳では無かろうが、そのような環境で練習が進めれれているということだ。

「彼は抜きん出ていた。時々教授もついて行けなかったからね。」とクレバーは続ける。

この報道で父親が二年前に亡くなったとあるから少なくとも再婚相手でなければ、十年前に亡くなったことを本人が語っているので誤りだろう。だから全ての情報は確証はないが、幾つかの情報が興味深い。つまり、二年の卒業ではピアノ科の卒業だったということで、指揮はヴィーンのビュシュコフ教授のところでとなる。当然ながらフェルドキルヒの学生時代に劇場でも練習のためのピアノを弾いていたりしている。24歳の時のイタリアの指揮セミナーに参加しているので、ヴィーンでの四年の中でフォルクスオパーの音楽監督にまで上り詰めていることになる。そして今、水曜日のGP、そして木曜日、土曜日の本番に向け稽古が進んでいる。

キリル・ペトレンコ指揮「悲愴」SACDの付録のハイレゾ音楽ファイルをダウンロードした。サラウンドは使っていないのでその効果は分からないが、ステレオ24Bit192kHzの効果は圧倒的だった。先ずは自身のデノンのプレーヤーでは直接聞けないDSD変換していないリニア―PCMで聞いてみた。明らかに明晰度が異なる。例えば二楽章のヴァルツァーのところでカフェーの中での笑い声を模した「わっはっはっは」が本当に屈託無く気持ちよく鳴る。SACDの方では若干沈んだ感じとなってしまっていた。

これならばDSD変換しないでいいかとも思う。実際には4楽章全曲で3GBの大きさの音楽ファイルとなる。これを再びDSD変換するとPCMのシャープさがより面的な響きとして落ち着いて聞こえる。要するにSACDに近似した響きとなる。

因みにコードは購入時のヴァウチャーとして換金されるので、通常に購入するのと意味は変わらない。その意味からは19ユーロという価格設定は中々微妙なところをついていて、「一曲で金取り過ぎだろ、泥棒」とならない設定である。



参照:
Warum ein Star wie Kirill Petrenko in Bregenz dirigiert, GEORG ETSCHEIT, dpa vom 14.5.2019
復活祭音楽祭のあとで 2017-04-13 | 生活
本物の一期一会の記録 2019-05-13 | マスメディア批評
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忘却とは忘れる事なり

2019-05-14 | 
承前)日曜日のショパンについて書き留めておかなければいけない。ゆっくり楽譜を見ながら歴史的録音を比べてとか思っていたが、いつものことで到底時間が無い。マルカンドレ・アムランのリサイタルは来年行くので、手短に感想としておこう。

バーデンバーデンでのガイダンスがとても程度が高く充実していたことについては触れたが、その内容はとても示唆に富んでいた。講師はポーランド人なので、ショパンとなると何時にもなく熱が入った。全体のプログラミングに関しても言及していて、若書きと最晩年の作品が合わされたという特徴を伝えていて、一曲目のベートーヴェン最後の四重奏曲と同様にファンタジーポロネーズを扱った。正直ショパンを自分で弾く訳もないので、ただの名曲でしかなかったが、それどころかショパンの作品で最も重要な曲だと言われて驚いた。

つまり簡単に聞き流してしまえばそれだけの曲でしかないが、下降線におけるあまりにも大胆な和声展開のはじまる最初の変ハのアコードからの、それに続く分散される音形、一体それはなにか、一向に表れないポロネーズのリズムの主題。それが謎解きされる。

つまり下降形でアコードとくるところが追憶となる。そしてなんとそのあとの分散音形をして泡だという。泡、このポーランド人が勝手なことをと思うと、洗礼だと断言した。すると当然、前の下降は水に浸けられて、丁度「青いサンゴ礁」のブルック・シールズが水に潜り、そして浮かび上がるときの泡である。なるほど潜在意識化にあるカトリック信者の若しくは人類共通の羊水の中の記憶かもしれない。ここまで聞けば如何にこの曲が通り過ぎる中で何が起こっているかに気付かせてくれるが、本当だろうか?

二つ目の主題、そしてポロネーズが漸く出てくる。実際、この主題やらトリオに出てくるそれなどが気に成っていたのだが、コラールなどだけでなく、繋ぎが挟まれるところで不明確になると同時に終止形が置かれ曲としての体を整えている。それがどのような意味を持つのか、要するにクラシックな叙述法からすれば一体何だと疑問が呈されるところで、次のように説明された。

だからロマン派と美学的にされるところで、丁度当時の小説類を比べてみたらよいというのである。つまり、ポロネーズという主題が曲の途中から消えてしまうのだ、それは主人公が途中で死んでしまう話しと同じで、その為の展開の準備やドラマテユルギー上の工夫がそこで為されていて、一番単刀直入なのは読者につまり聴者に主を忘れさせることなんだという。全くクラシックの技法とは反対で、忘却から次が展開する。

そこで、大名言が発せられる。反クラシックつまり反啓蒙思想の忘却の話法となる。つまり、「過去に覚えが無いことには習わない」、思わず声が出そうになった。歴史認識、その流れをはっきり把握して構築的に合理的に、指揮者のブロムシュテット爺ではないが、今日より少しでも素晴らしい明日があるという希望とその態度こそが啓蒙の思想であり、そこでは人々は少しづつ開眼されて、覚醒して賢くなっていく。浪漫的とはその反対で、覚醒してはいけないのである。いつも眠っているのである。それどころか忘却の彼方へとひたすら歩むのである。勿論ポロネーズというような舞曲はポーランド人にとっては潜在心理のような土着の心理に働きかける要素である。

日本人がドイツのホッホロマンティックに明け暮れる信条は、見ざる聞かざる言わざるの三重苦の人生観と世界観でしかない。その日本市場でベートーヴェンが演奏されて好まれるという矛盾はここにあり、正直未だにその人気の秘密が私には分からない。確かに何もかもを忘れるための音楽需要と言うのもあったような気がする。

さて、肝心の演奏はどうだったか。今ホロヴィッツのややデフォルメが過ぎる演奏と比較してルービンシュタイ演奏の細やかな感情の襞のようなものは嬉しいのだが、やはり惚けるところ少なくなく常時忘却へと進みそうである。その点アムランのピアノはやはり飛び切りの名人で極力歪になるのを避けていてペトレンコの指揮に相当するような拘りが激しい。要するにあるべき音符を正しくその語法の中で鳴らせば真意は自ずと伝わるという按配でペトレンコも以前は仏頂面の指揮をしていたらしい。

そして、座ったまま拍手をさせずに二曲目へと少し間をおいて進んだ。スケルツォである。こちらは更にその傾向が強く、あまりにもの音符の波に暫し忘却の彼方へと睡魔が押し寄せてきた。フモーアを超えて夢魔である。こうして当代を代表する名人の演奏を聴くと如何に普通のピアニストが楽譜を土台に自己表現にばかり鍵盤を鳴らしているかが分かる。その鍵盤での自己表現のセンスがよいかどうかだけの相違である。

ガイダンスに戻れば、これはと言う面白いことを言った。メモは取らなかったが、その意図を考えると気持ちよかった。このような超名人を祝祭劇場のマティーネーに迎えることは殆どなくて、それもアムランがとなると待ち遠しくて待ち遠しくて溜まらなかったのだという。本当にLangLangだったのだと言った。恐らく、当日の聴衆の半数ぐらいは先日のランランのピアノを聴いたであろう。本当の名人を待ちわびたというのがその旨だった。確かに笑い話にしかならないピアノだったが、あれでも何だかんだと書く記者がいるのだから、全ては忘却へと深い眠りへと沈んでいく。(終わり)



参照:
プロムナード音楽会予定 2019-05-11 | 生活
悦に入る趣味の良さ 2017-03-09 | ワイン
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本物の一期一会の記録

2019-05-13 | マスメディア批評
ベルリンからSACDが届いた。商品と一緒に送り状にカタログが添えられている。フルトヴェングラーの22枚組が先頭に載っているが、バカにするなと言いたい。一体あの価格で何を言っているのだ。気を静めて先ずは御開帳である。

セロファンが張られているので安全だ。開封して表紙の表の波模様が凹凸になっているのは予想外だった。そこに印刷されているキリル・ペトレンコの写真も金を掛ければ三次元に出来た。表紙裏にSACDが挟まれている。コードを探すとSACDを剥がした下に二種類のコードが書かれていて、上はオーディオファイルを落とすもの、下は通常のDCHの一週間券である。

作曲家の写真に続いて、ベルリナーフィルハーモニカーからの巻頭の言葉があって、あまりこなれたよいものではない。そして悲愴交響曲の直筆の表紙の写真からと曲のタイトル、楽章表記、楽器編成などがあって、解説が始まる。

ペトレンコのドラマテュロギーである現在ミュンヘンのマルテ・カースティングの文章である。いつもの調子であるが、興味深かったのはこの録音の発売に寄せたペトレンコの考えに触れた部分である。内容自体はDCHの引用なのであるが、こうして纏めると次のようになる。

過去の数多の録音の意味と、今回の録音の発売の関係は、一言で言えば一期一会となる。過去のそれも歴史的なものは遺された記録であってそれなりの価値があるが、一体しばらくすればここはこうやると既に変わってしまっているものを記録に留める意味との共通点がまたは相違点があるかどうかということでもある。つまり、ライヴ録音と言えども編集されていることからその完成形が正当的とは言えないとして、今まで録音を殆ど残していないが、今回のような特別な機会であり記録と残すに足るものだと感じたと発言させている。若干こじ付けのような感は免れないが、同じような状況があれば今後もあるしかもしれないと含みを持たせている。

同時に悲愴交響曲はしばらくは指揮しないとしている。充分にやり尽くしたからである。このベルリンでの二回、そしてバーデンバーデンでの一回となるが、最後のそれを聴いて、それは容易に理解できることであり、三楽章の後での自らの胸の鼓動を思い起こす。ムラヴィンスキー指揮以来の悲愴交響曲であったが、ベルリナーフィルハーモニカーが一楽章の展開部を完璧に鳴らして再演するのは何時のことになるだろうか?ベルリンで両日座った人と同じように忘れ得ぬ思い出となることだろう。その意味からすると、このSACDの内容は皆の記念撮影集合写真のような意味を持っていて、途中経過のスナップショットでもあるこれは、生演奏を体験した人にはそのまま出来ているところも出来ていないところも思い出であり、体験していない人にとっては一つの本物の記録なのかもしれない。



参照:
鼓動を感じるネオロココ趣味 2017-04-10 | 音
ギリギリの悲愴交響曲 2017-04-06 | 音
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楽章間拍手が意味すること

2019-05-12 | 
ベルリンからのSACD発送の知らせを金曜日に受けた。結局それだけでDHLのピックアップは週明けだろう。こんなことならコードも何もついているならjpcで買ってやればよかったと思って、サイトを見る。同じ価格で国内送料無料だが、一週間ほどかかるというから、こちらから注文が入ってからベルリンへ注文するということだろう。しかしそのおまけに関しては言及がない。それならば手を出さない。

面白いのは、購入者の批評で、「その場にいたが、評判ほどの指揮者で無かった」こと、「普通の出来だった」ことで、「チャイコフスキーもびっくりしないチャイコフスキーだ」と厳しい。そもそもこの人がどこでどのように評判を聞いて来たのかと思うが、概ねはサイモン・ラトル指揮のつるつるのサウンドでアインザッツの揃った管弦楽に期待して絶賛する手合いの人だと直ぐに分かった。確かにあれをよしとする人ならば、ロンドン交響楽団でも十分であり、残念ながらそれではラトルの音楽をもあまりにもつまらなくしていて、丁度ジョン・アダムスに感動する人たちとの重なりが殆どではないかと思う。

タカーチ四重奏団とアムランの演奏会は思いの外よかった。まず驚かされたのがガイダンスで、名人のトップ四重奏団だから、ピアニストのトップとの名人同士の共演だと紹介されたことだ。タカーチが三十年以上のキャリアーであることはしばしばその名前を聞いているので驚かないが、長いキャリアの中でそこまでの四重奏団とは一度も聞いたことが無かった。これには疑心暗鬼だった。そして今はハンガリーでなくアメリカの四重奏団だというのは冷戦後には有り勝ちなことなので、そうかと思っただけだ。写真で日系の女性が第二ヴァイオリンを務めていることも分かっていた。

そして一曲目のベートーヴェンの最後のヘ長調のOp.135を弾きだした。先ず何よりもこれは駄目だと思ったのがヴィオラの婆さんで、写真とは異なり、完全に年長組である。ヴィオラが外側でギコギコするのはいいが、何か固い。身体が固まっているようでぎこちない。細かな運弓が出来ていない。これはやはり駄目だと思った。この程度の弦楽四重奏団は幾らでもいると思った。しかし意外に日系の女性が爺婆に混ざった分写真よりも遥かに若く見えて、実際に音を聞いていても弾き方を見ていても、まるで老人ホームで働いているきびきびした若いスタッフのようにしか思えない。若い血の影響もあるのが楽章が進むにつれて、創立メムバーのチェロの爺さんも婆さんとの合わせ方が精妙になってくる。

なるほど世界的に一時は有名だったが、合わせ方が西側のそれとは大分違う。チェコのそれとも違っていて、一時はそれなりに売れていたのも分かった。チェロもそれほど胴音を出さない程度に制御されていて、なるほどと思うところが出てきた。一概にオールドファッションとは言えないが、アルバンベルクカルテット以前のヴィーンのそれらに比べれば完全に名人であろう。ズスケカルテットのような引っ張られるタイプでもなくて、創立メムバーとは異なっていてもある程度その塩梅が感じ取れた。そうこうしていると、温まって潤滑油が効いてきたのか、婆さんのヴィオラもそれなりに味を出すようになってきた。

お目当てのアムランのショパンの後で、プログラムのメイン曲ドホナーニ作曲弦楽五重奏曲ハ短調が演奏された。15歳の時の若書きであるが、中々聞かせる要素がある。何よりもアムランの上に下にのピアノが曲をしっかりと支えていて、精妙な合わせものとなった。そもそもこの四重奏団のアンサムブルからすればこうした五重奏曲の方が成功する。四重奏団が中々ほかのフォーマットでは力を発揮しないのとは異なり、この組み合わせは確かに世界を代表するとしてもなるほど言い過ぎでは無かろう。その証拠に一楽章が終わると拍手が来た。奏者も驚いたようであるが、その価値がある演奏だった。最近は室内楽でもなんでも楽章間に拍手があるかどうかが、曲によってはその演奏の出来のバロメーターになっている感じがある。要するに拍手している人がフライングしたという感じは全くなかった。

そもそもこの会に楽章構成の分からないような人はあまり来ていないと思う。それどころかガイダンスも完全に楽曲分析から美学的な意味づけにまで時間を延長した内容で、完全に音楽の通に向けての内容だった。その内容の程度以上に、四百人程度の聴衆に対して数十人が朝早くからのガイダンスに集まるその知的程度の高さに驚いた。

往路車中で考えていたのは、一体どのような客層がやってきて、復活祭のそれとどのように重なるかであった。逆に、日曜日の朝から詰めかける客層は今後の復活祭の核になれる層で、同時に今までの支配人体制には不足があった層であるに間違いない。(続く



参照:
プロムナード音楽会予定 2019-05-11 | 生活
2019年復活祭の座席確保 2018-03-21 | 文化一般
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プロムナード音楽会予定

2019-05-11 | 生活
ドホナーニのピアノ五重奏曲一番ハ短調を少しお勉強する。放送などで耳にしていて覚えていたのは三楽章のアダージョだった。そしてやはりここが面白かった。ピアノ何重奏はモーツァルトぐらいしか聴いておらず、そもそもピアノトリオ自体が半ばサロン音楽から抜け出さないので興味が無い。しかし、こうして楽譜を見ると、シューマンやらブラームスへとピアノが入ることで少なくとも三種類の弦楽器が低音部や中声部だけでなくソロスト的に弾かせることが可能で、更にその声部間のテクスチャーが作曲家にとっては面白いというのも何となく分かった。実際に録音したものを聴いても、よく分からないところがあるように、その辺りが創作の味噌なのだと理解した。終楽章の六拍子から五拍子との展開も面白く、ブラームスなどと比較して一体どうなのかとあまり冴えない感じがしていたのだが、面白いところが見えてきた。創作年1914年とすれば可成り古臭いのであるが、もう少し何か見えてきそうである。
Dohnanyi - Piano Quintet in C minor op.1


更にショパンの二曲に目を移す。一曲目は変イ長調の幻想ポロネーズで最も有名な曲の一つである。中々細かなところもあるなと思ったが、実際に音サムプルを聴いてみるとホロヴィッツのがやはり面白く、期待していたルービンシュタインは尻窄みの感じがする。やはりショパン弾きではないのかもしれないがホロヴィッツは上手だなたと改めて思う。その意味からも名手アムランの演奏に期待するところ多い。もう一曲はキーシンの演奏で聴いたが、真面目には弾いているようだが前のスケルツァの続きかどうか知らないがとても荒っぽく、折角隠された主題がなんら意味を持たなくなっている。直ぐに想像したのはカラヤン指揮の音楽で、コケオドシで重要な音楽的な表現を塗り込めてしまっている。流石にカラヤンと共演していたようなピアニストであり、ソヴィエトのイスラエルの外貨獲得に貢献してブリキの兵隊のようである。そしてショパン弾きから下に見つけたのはポリーニのデジタル録音だ。デジタルになってから殆どその録音には注目していなかったが、これはとても良かった。先ず何よりもスケルツォの俳諧のようなものがあり嬰ハ短調トリオのバラードのような趣がその俳諧に上手く対応している。そして演奏もとてもバランスがとられていて、長く大きな山を作っている。調べてみると、私のウィッシュカードにこれが入っていて1990年の発売となっている。つまり全盛期に近い頃の録音であると分かった。次の機会に購入しておきたい。
Vladimir Horowitz - Chopin Polonaise Fantaisie

Arthur Rubinstein: Chopin - Polonaise No.7 Op.61 in A flat major, 'Polonaise Fantaisie'

F. Chopin Scherzo no.4 Opus 54 (E) By Evgeny Kissin

Ashkenazy, Chopin Scherzo No.4 in E major, op.54

Frédéric Chopin Scherzo No.4 in E, Op.54


日曜日は、10時にはガイダンスが始まるので、その前にティケットを回収するとすれば、自宅を8時半過ぎにぼちぼち出かけなければいけない。教会なんかよりもずっと早く出かけるのだ。だからパンも前日に買っておいた。出かけると地元の選挙でキリスト教民主同盟と緑の党が陣取っていた。CDUのおばさんがチラシと同時に紙包みに入ったブレッツェルを呉れる、そしてお友達にもと二つ目を渡そうとするので躊躇していると、立候補者から声が掛かった。いつもの醸造所のオーナーのアイメール氏だ。「天気悪いから今日はジョギングはどうだ」というから「行きまっせ」と握手して景気付けておいた。出るときには緑の党が近づいてきたが、知らぬ顔をしておいた。隠れ緑の党支持者であるが、なんとなく表向きはCDU支持者のような顔をしているのである。そして件の親仁も代議士の時は自由党であったので、体良く衣替えをしている。少なくとも醸造所ペッフィンゲンはショイレーベ種に関しては世界を代表するワインを今でも輩出している。

朝一番で何を着ていくか。来週も気温は摂氏20前後までにしか上がりそうにないので、先ずシャツは厚めのものでいい。上着も普段着の分厚いのを羽織っていくだけならば楽である。そもそも恐らく休憩も無く一時間半も続かないミニコンサートなので、面倒なことはよして、プロムナード感覚で出かけて、帰宅して飲みながら昼飯の用意でもしておこうか。



参照:
散髪を済ませた理由 2019-05-04 | 生活
一級のオペラ指揮者の仕事 2019-01-14 | 音
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