Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

新弓の道の真髄を味わう

2015-04-16 | アウトドーア・環境
夏のような日であった。陽射しもきつく、気温は摂氏26度を超えていただろう。一年ぶりにトリフェルツ城の岸壁を登った。昨年の今頃シーズン初めに肩を痛めたのであまり行きたくはなかったのだが、今回は既に左肩を痛めて登った。トップロープでお茶を濁したり、後続して登ったが、一箇所だけ次に繋がるところを登れた。前回右肩を痛めた「旧弓の道」の左横の「新弓の道」である。難易は一つ上で七級下であるから、トップロープでも十分に登り応えがあった。

それはトップロープ用のルートでもなく、そしてヨセミテを78年に登ったパン親方が先に見せてくれたからである。実際に登ってみると難しいところは、室内壁のハングのように十分に回転させなければ上の手掛かりに届かない。それが二箇所ほどだんだんに繋がっていて、そこをリードするとなると的確にその間間に中間支点を挟まなければいけない。流石に一度リードしたことのある親方は手掛かりを分かっているようで、それなりに登りこなしていた。要するに、ハーケンは二箇所しかないのだが、上手く中間支点を設置できれば、なんとかなりそうなのだ。これは大きな収穫だ。

取り付きからドュルファー登りで弓の割れ目の左側の弓なり構造までは傾斜も緩いので問題無いのだが、弓なり構造の白い場所にあるリングボルトのとこから難しくなる。その構造の上っ面を押さえて、上部にある庇状のしたの手掛かりまでが遠い。室内での回転を使って手が届いてから、今度はそこに立つのに右上の穴を目差さなければ立ち上がれない。ここで再び回転を使わなければ届かない。そこからは徐々に右の方へ向かって、二本目のリングのところへ左から戻ってくる。そのボルトの横に小石が小指大に出ているだけなので難しい。その上の小さな壁も難しく、右から逃げた。肩の故障では厳しい。

今回、イヴォルヴのポンタスIIの新品を下ろした。先日から古いものでは踵の収まりが悪くて、物足りない感じがしていたからだ。新品は流石に違和感がないが、正直二年前に感じたような細やかさは感じなくなってしまった。理由は分からないが、立つ感じがそれほど上下左右自由自在の感じがなくなってしまったのである。ボルダー用の靴が余りに細やかなので、どうしてもこうした靴はそこが物足りなくなる。



参照:
ハインリッヒVIに一矢 2014-04-03 | アウトドーア・環境
今年最初の怪我をする 2013-07-29 | アウトドーア・環境
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

汗を確り掻きたい時期

2015-04-15 | アウトドーア・環境
先週の木曜日以来はじめてようやく水曜日の夕方に走った。午後の摂氏24度を超え、直射日光下では暑すぎる条件だった。それでも夏時間と復活祭休みから帰った男たちが熱心に走っている姿を方々で見かけた。こちらは、ハイカーと擦れ違いに峠を目指す。久しぶりのショーツ姿だが、上着は買い物の帰りで綿のTシャツでいつもよりも重い。それでも早めのスタートダッシュを切った。その快適な調子から19分は堅いと思っていたが、中盤から暑さに負けはじめて、後半は胸も重くなった。最後のスパートも出来ないでペースをそれほど落とさずになんとか走りついた感じが強い。

万歩計を見ると、18分2989歩なので最高記録だった可能性が強い。歩数で今までの最高記録よりも20歩ほど少ないからだ。直射日光が厳しく感じたが、結構苦しかったので、更なる記録の伸長はなんともいえない。今年17分を目指すのは考えない方がよいだろう。下ってくると34分5232歩なので、往路と復路は異なるといいながら、そろそろ限界域ではないかと思っている。

体調は全くよくなかったのだが、金曜日の石切り場、日曜日のバーデン・バーデンの後に走る元気もなくなっていたので、この辺りで一旦身体をほぐすためにもどうしても走りたかったのだ。こうして記録が出ることで新たな動機付けにはなるのだが、回数をこなさないでも調子を維持して、記録が伸びるような感じがするのは決して悪くはない。ジョギング依存症になる人も、走らないと気持ち悪いのと、折角積み重ねたコンデションが落ちると思う恐怖心もあるのだろう。毎日走る訳ではないのでそこまでは行かないが、やはり一週間に二度ぐらいは走らないと駄目なような感じはしている。そして、こうして気温が上がってくると汗を確り掻くのは体調維持にはとても都合がよい。



参照:
オーヴァーヒートさせない 2015-03-07 | アウトドーア・環境
求められる新しい靴 2015-03-31 | 暦
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意義のないことばかり

2015-04-14 | マスメディア批評
相変わらず日本の情報が特殊なことを感じる。グルジアという国名を正式に英語読みにするらしい。そのようなことがまともなニュース素材になるのは島国日本ぐらいであろう。歴史的な繋がりがないために、サカトヴェロの正式名が日本名にならなかったのは、ジャーマニーがドイツが呼ばれ続けているのとは事情が異なるのだろう。日本人は精々英語ぐらいしか理解できないとするエスタブリッシュ層の市民への侮蔑ではなくて、ここではやはり合衆国の支配圏としての文化活動がそこにあるようだ。

さて連邦共和国内ではこの国を呼ぶ場合は、やはり英語表記のゲォーギエンとなっていてグルシアというロシア語表記は聞いた覚えがない。勿論合衆国州のジョージアは英語読みするのでその分別は音声的にも全く問題がない。日本語ではこれからは合衆国州と東欧のスラブ語圏の国が同じ呼び方になるのでさぞ不便であろう。

連邦共和国がロシア語読みでなくて英語読みにしているのは政治的な意図があったとしてもそこに当然であろう。さて日本ではそれがどのように理解されているのか?ネットのリンクの張り方などを見ると可也如何わしいと感じた。日本から移住を考えて短波放送で様々な国の生情報を熱心に流していたときにはたと気がついたのは、日本国内で流れる情報が特に当時は株式市場主体の動向でしかなかったことで、本当に重要な世界情勢が全く言及されていないことに気がついたのだった。よって、フクシマ以降に顕著になったとされる情報統制は、もともと日本のお家芸であって、一般市民に語学力がないと高をくくっている支配層による統治機構として広く深く利用されてきたものであったのだ。

昨今はネットの威力があって、嘗てのようにBBCなどに頼らなくとも比較的客観的な視座に立った雑多多用な情報を入手出来るはずなのだが、実際には日本語の情報以外のそれはやはりあまり日本の一般大衆には伝わらないようになっているのも事実であろう。だから上のような情報が罷り通るのである。

福井地方裁判所で「関西電力高浜原発3、4号機の再稼働差し止めの仮処分を決定」と速報がネットで流れた。予想はされていたが、重要な決定であることは理解できる。規制委員会の激震対策規制などが安全対策ではないとしたもののようで、絶対安全ではない原子力発電所の存在意義が改めて問われることになる。絶対落ちない航空機運行がありえないように、絶対大事故のおきない原子力発電所が存在しないのは当然であり、規制委員会がそれを認めているが、航空機運用とは異なって原子力発電は必要がないということが最大の相違点であろう。得るものと失うものを秤に掛ければ、原子力発電所の存続には意義がない。そもそもプルトニウム保持のためだけにしても、それによって国防が可能になるという考え方には全く合理性がないのは周知の事実である。



参照:
口に入れても夢見心地 2015-04-13 | 雑感
基地阻止基金の値踏み 2015-04-11 | 歴史・時事
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

口に入れても夢見心地

2015-04-13 | 雑感
とても眠くて堪らない。疲れだが異常な眠さに襲われる。このような感じは中学生の時以来ではないか?一体どこが成長するのかと思うほどのおかしな気分である。春らしい思春期だろうか?

朝から面倒なことを考えながらものを書いたりしているが、昼過ぎても頭がしゃっきりとしないのである。あまりに眠すぎて食欲も殆どない。何かを口に入れても夢心地の感じなのだ。

「日本人の「味覚力」は外国人の2倍以上だった!」と題して、AISSY株式会社が日本人100名と外国人100名を対象に「味覚力調査」を実施したところ、日本人の「旨味」正答率は71%で、外国人の正答率の34%の2倍以上となり、日本人のほうが「味覚力が高い」との記事を見た。こうした記事を読むと、日本人は未だに文化的に鎖国しているのかなと感じて、日本国内でが以外の情報がまともに伝わっていないことはネットやマスメディアなどに関係なく、もしかすると日本人の認知力の問題ではないかと思わせる。

そもそもうまみという味覚の範疇は、日本食等の旨味によって日本語がそのまま味覚を表す言葉となっていて、そもそも諸外国ではなかったとされる味覚である。そしてここでは旨味のサムプルとしてグルタミン酸ナトリウム溶液(濃度0.04%)が使われているようだ。一般的に少なくとも西欧人がシナレストランで毛嫌いするグルタミン味とはその濃さが一桁ほど異なるのではなかろうか。

そこで一番の問題となるのが、大豆などからの天然のこの成分であって、日本食に必須な醤油のグルタミンなどは全て味の素経由の化学調味料の味覚と考えられている。日本食などが本当の意味で健康食として考えれらないで、天然醤油なども危険な化学調味料の一種と考えられているのが事実なのである。

つまり上の記事で旨味の日本料理を特別に引き立てて紹介しようとしても、寧ろ化学調味料由来の食事として誰も有り難がらないのである。こうした頓珍漢な日本人の考え方が、その認知力からの客観性の欠如とすれば、とても恐ろしいことである。



参照:
絵に画いた牡丹餅 2007-03-18 | BLOG研究
欧州からみる和食認証制 2006-11-03 | 料理
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーヴァーワーク気味

2015-04-12 | アウトドーア・環境
オーヴァーワーク気味だ。祝日明けの火曜日から毎日登った。その間一度しか走らなかった。金曜日には初めてリムブルク修道所の石切り場で登ったので、身体解しに走りたかったが、とても寝床から起き上がれなかった。初めてのところで殆どは人工的な手掛かりなので上手に作ってあっても腕力を使う。その証拠に最後から二つ目に登った初心者向きの四級のそれも室内壁と同じように被っていて、上の折り返し点からぶら下がったザイルは二メートル以上足元から離れていた。だから、1972年にハーフドームなどに挑戦しているパン親方もハーケンにぶら下がって休んでいた。室内壁でなれている私も一度は休まないと上の手掛かりが確認できなかった。室内壁との大きな相違は手掛かりを知らなければ穴が開いているだけなので上からは見えないので下からの助言などがないと分からない事が多いことだ。そうした穴が確認できないで登ると可也難しいことになる。

最後に登ったのは七級プラスで、トップロープを掛けたが、それでもA0無しでは登れなかった。降りてくるときに上から核心部を登り直した。二本指の手掛かりだけでなくて、最初のオーヴァーハングから被り気味の壁をトラヴァースするまでの腕力は可也必要だ。そこで今度は技術的に難しい箇所が出てくる。室内壁のそれに似ているが面白さではなかなか出来がよい。気象のことがなければ、多くが人工的であっても室内壁よりも練習になることは間違いない。

水曜日に痛めた左肩は入浴して若干良くなったがまだ手が上がりにくい。昨年怪我をした右肩ほどは重症ではないが、暫くは駄目かもしれない。それでも完全に力が入らないひどさではないので何とかなるだろうか。仕方がないので右腕をバンバン使っているが、こちらが故障すれば万事休すである。久しぶりにぶら下がったからか腰も張っている。更に鼠蹊部が痛むのはそのような高度な技術を駆使しているからだろう。

それでも登っているうちにどうしても酷使してしまった。なるほど以前ならば筋肉痛で困ったのだが、風呂に入って就寝するとどちらかというと全身に疲れを感じた。連日の疲れもあるだろうが、なかなかしゃっきりとしないのである。今晩は美味い物美味いリースリングと食してぐっすりと眠りたい。



参照:
秘密保護法の馬鹿さ加減 2013-10-28 | マスメディア批評
いよいよ夏シーズンへと序奏 2015-04-08 | 暦
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

基地阻止基金の値踏み

2015-04-11 | 歴史・時事
辺野古新基地阻止基金が発足するという。数億円規模の寄付が想定されているようだ - 送金先は「辺野古基金」。その資金によって沖縄県知事の訪米とその活動などに弾みがつくだろう。ワシントンでの工作がどの程度功を奏するかは分からないが、「日本の対中関係の悪化を維持させる国益」を第一とする合衆国と、沖縄県の「極東アジアのハブであろうとする積極的全方位外交」はどこまで行っても平行線をたどるかもしれないが、少なくとも沖縄からの米軍の撤退に関しては合衆国の国益にも適うに違いない。

石垣島に諸外国の記者が招聘されたようである。フランクフルターアルゲマイネ新聞は第三面で殆ど一面を使ってそれを伝える。市の博物館には漁の歴史やシナの影響を受けた竜頭の船の展示などがあり、そこの最も重要な所蔵物は、釣魚島に纏わるシナの公式文章である。1919年12月にシナの漁民が遭難して、魚釣島の従業員が31名のシナ人を救出したことから、当時のシナの長崎在領事が出した公的な感謝状七枚のうちの所在が確認された二枚の一枚がそれに当たる。記者たちはそれを閲覧できると思ったようだが、絹に書かれたそれは保存が難しいとしてコピーしか観覧できなかったようである。早速記者たちは、「そのように大切なものならば、なぜ東京で公文書として保存しないのか?」と質問すると、館長の霜野氏は何も答えず、「政府がオリジナルを要求したことはありません。」と断言したようだ。

これを読んだ読者は、何か腑に落ちないものを感じるのは当然で、安全のために緊急港を作りたいとすることにも政府は、「右翼の上陸等を避けるために」との理由でなんら手をつけないのも不思議である。そもそもここに書いてあるように2012年の十五億円を支払った買取運動が起こらなければ実効支配として、中共の海底資源掘削活動にもある一定の阻害活動は出来た筈だ。

そこで石垣島の現状に触れて、経済的には漁業や農業そして観光に依存しているのだが、円安の影響からシナからの観光客が増えて、台湾からは週に二回の沖縄本島への中継地点として寄港するようである。そのような観光の島で上の博物館は年間七千名の入館者しか迎えていないと言うから、いくら安部政権が世界に向けて広報活動をしても、ここで報じられるように竹島や尖閣問題を歴史問題として教科書に採択しても話しにならないのである。

尖閣問題では多額の資金が集まったようだが、それに匹敵するような資金が上の新基地阻止基金に集まるか?沖縄の当事者のレアルポリティックに日本の国民の意識が覚醒することが出来るだろうか?観光に関して、様々な情報源から、シナ人の日本観光熱はとても熱いものがあって、中共の長く行ってきた抗日宣伝が如何にそこでは意味をなさないかが良く表れていて、そこに希望があるのだ。ある程度経済的に余裕が出てきたシナ人にとっての日本旅行は今後の重要な社会的な意思に繋がるに違いない。中共の人民は、日本のそれに比べると現実を値踏みする力が遥かに優れているのである。不幸中の幸いは、日本にも本物の保守政治家がいたことだろう。イデオロギーは飯の種にもならないと言うことである。



参照:
Ziegen, die auf Inseln starren, Patrick Welter, FAZ vom 9.4.2015
日本の情報統制の進行? 2014-01-22 | 歴史・時事
民主主義の品格の欠乏 2014-11-18 | 歴史・時事
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

術にならない頭の悪さ

2015-04-10 | 
走るのは日曜日以来であった。水曜日に左肩を痛めたので無理してでも走った。寒くて眠かったが、沢沿いの往路が11分1967歩と1844歩の片道記録に近づいていて、往復としては記録である。なぜ早かったかは分からないが、向こうから来る林業のトラクターをかわし、いつもの犬の散歩のオヤジに「Tシャツでは寒いだろう」と言われた後ぐらいから、これは12分で走れるという気がしたのだ。夜中は氷点下となっていたこともあり、凍りそうなのに対抗するのと、肩の痛みをほぐしたくて無理やりに腕を振って走ったからだ。それでも体調はあまりよくなかったので、往復23分3938歩は十分過ぎる記録である。どうもこの区間往復での記録らしい。25分を切れるようになったのが一月末の24分4066歩であったからここ二月ほどで明らかにテムポが上がっている。息苦しくなる前に自然に呼吸を深く出来るような感じになってきている。

一月のバーデン・バーデンでのピエール・ブーレーズ生誕九十年記念コンサートで、小学生たちに十二音の作品「ノタシオン」を踊らしていたが、そのときに紹介されたホームページがようやく分かった。新聞に記事として載せてくれたからである。この曲は、管弦楽曲化されて最も演奏される機会の多いブーレーズ作曲の大管弦楽作品となってしまったが、その原曲のアナリーゼをしたサイトである。楽譜とそのときに演奏していたピアニストによる演奏が組み合わされて表示されるために分かりやすく、そのアナリーゼを作曲家自身がヴィデオで話しており、英語と独語の字幕つきである。十二音音楽の理解の仕方として最も代表的で且つ通常の和声分析に疎い音楽教育を受けていない人にも分かり易い方法である。俗に言われるように、音楽家などの和声教育を受けている人よりもそうではない人の方が十二音音楽を速やかに理解すると言う説の裏づけのようなものだ。そこで、ブーレーズ自身が面白いことを語っている。要するに「分析力のない音楽家がつまり音出しで感覚的に楽曲を捕らえようとすることが多いが、長く複雑になれば不経済だ」と、実は教育が理解を阻害しているのではなくてそのような頭の悪い音楽家が多いことを暴露しているのである。

ここからは予断だが、プロの演奏家で革新的な作風の新曲を初演していないような音楽家は、インタヴューなどや書いたものを読むと如何にその人物の知能程度が低いかが知れることが多い。何も革新的な作風や創作が芸術的にまた美学的に価値があるとは限らないのだが、そのようなしばしばこの手の演奏者が主張する言説「調性のシステムにおける協和の美しさの芸術音楽」のその本質は村の音楽隊やブラスバンドの和声感覚でとても質の低い協和を聞いていることが多いようである - 質の良い感覚を持っていればその程度の音楽を奏でて満足している筈がないのである。そのような直感の人に調性音楽の叙述法など分かる訳がないのである。

ラトル指揮のベルリンのフィルハーモニカーが喝采を受けるのは、まさしくその管弦楽団のサウンドの可能性や質であって、管弦楽演奏が芸術活動とするならばその質こそが問題となるのである。そしてその質にまで達している管弦楽演奏などはそれほど多くはなくて、その多くがエンターティメントとして扱われる所以なのだ。管弦楽演奏の制作録音においても芸術的な価値が認知されるものはそれほど多くはないのである。



参照:
二十世紀中盤の音響化 2015-02-07 | 音
銅鑼の余韻の領域限界点 2015-04-07 | 音
嵐過ぎ去って、その後 2015-04-02 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伸びる仏印ジーンズを購入

2015-04-09 | 生活
シモン社のクライミングパンツを購入した。穴が開いていないものは長いのが一本、キュロットが一本あるが、普段に着古してしまうのは惜しい。キュロットは脛を隠すためには長い靴下を履かなければいけないので、買い物に行ったりするのには使いにくい。そこで、フランスの量販スポーツ用具店「デカトロン」で売っていたジーンズ型のストレッチパンツに食指を向けた。以前見たときにはアイデアが生まれなかったが、ボールダーには摩擦の大きさよりも膝を守ってくれる方が良いと感じたので、これはなかなか使えると今回感じたのである。

そこでネットを見ると、まだ商品として出ていたが、どうも色違いが新製品として出ているではないか。着古しのブルーでそちらの方が色目は良いが10ユーロ値上がりしている。そこでサイズや在庫を調べると、Mが売り切れているではないか。サイズを見ると、83CMから88CMのLで問題が無いはずだが、Sは難しいと感じた。74CMから77CM30インチまでは流石に無理だ。

ルートヴィッヒスハーフェン店にはその古いモデルしかないが、先ずはLを試してみるとことにした。マンハイムからの帰りに立ち寄って試着した。すると伸びる伸びる、二パーセントのエラステンだが、予想以上で、ウエストのバンドが伸びてしまうとずれそうである。それに安全ベルトをしていないので、裾が長く折り返して縫いこむ必要がありそうだ。そしてなによりも生地が余る分裾の扱いが難しくなる。

そこでSを試してみた。伸びるので全く問題なく履けた。腹回りもゴムが伸び切った状態で丁度であった。但し腰から太ももも張ったままで、見た目としてはトレーニングパンツの感じなのである。それ以外は足の上がり方なども同じで、先ずはこれを購入することにした。保証が二年となっているが、毎週のように洗濯しても破れないのか。

IKEAも同じだが、ここもレジはセルフサーヴィスで、それ以外の現金払いの人は長い列をなしていた。量販店でもクレジットカードで購入できるのはありがたい。29.90ユーロで綿98パーセントなら文句は無い。早速ボールダーで使ってみよう。

世界各国語のタグがついているので日本のサイトを見ると8400円の定価がついていた。シナ製ではなく、こちらと同じモロッコ製だろうか?製縫は、あの国のイメージ通り、あまり良くない感じだからシナ製の方が良いだろう。他にもキュロットなどがあるが、そうなると機能性が追及されるのでマムートなとに比べてあまり食指が動かなかった。



参照:
ジャストフィットな色合い 2014-06-12 | 雑感
フリーなキュロットの魅力 2013-10-03 | アウトドーア・環境
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いよいよ夏シーズンへと序奏

2015-04-08 | 
月曜日起きると寒かった。夜中は零下まで冷えたようだ。その分晴れるかと思えば昼ごろまで曇りで、まるで冬のようだった。折角、身体も心もが開放的になっているので、寒さに我慢できなく、走って身体を壊すのが怖かった。

元BMGブレッテルスマン社の代表ミッテルホフ氏が仮収容されている。本格的な禁固への検査収監らしい。そこでは、自殺予防のために十五分おきに監視されるので、抗体力が弱って体調を壊したと苦情しているらしい。その後のポストを含めて、背任などで逮捕されるまで連邦共和国を代表する経済人であった。日本でいえばNHK会長より有名な世界的な経営者であった。先週ぐらいに自己破産もしたようで、超高額所得者もそこまで財を投げだしたのかと不思議に思った。一部では家族名義にして財産を隠すなど、今でも債権者からの高額な要求を自己破産で免れるためだとも報じられている。

連休明けで天気が良くなった。気温も上昇したところで、スーパーの帰りに、久しぶりのボルダーである。森の中に行くと思ったより寒かったが、乾き具合は一週間前より良い感じだ。だから結構手が引っ掛かるところがあったが、体が重い。理由は分からないが、日によって差が大きすぎるのは何故か?靴も履きかたによって足が痛くなった。どうも親指から押すようにして足入れしないと駄目なようだ。踵に拘ったので足入れが良くなかった。加重が出来ない感じが全身に及んで、ふやふやした感じが続いた。足入れが上手くいくようになると腹が据わった。体の軽さの感じはどうもこうした足の加重感に影響しているのかもしれない。一寸したことだが意外に影響が大きいのかもしれない。それでも一週間前の晴れ間に比べて気温が低く帰宅の道では摂氏八度まで下がっていたから、あまり調子が出ないでも不思議ではない。肩を痛めることも無かったようなので、明日が楽しみだ。先ずは早起きして走ろう。



参照:
求められる新しい靴 2015-03-31 | 暦
複製消費文化の興亡 2005-12-28 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銅鑼の余韻の領域限界点

2015-04-07 | 
車中のラディオはニューヨークに移住して活躍しているおそらくユダヤ系のドイツのヴァイオリニストが出演していた。そこでは、共演する米国とドイツの管弦楽団の相違が質問されていて、お客さんへの態度へと話題が進んだ。演奏会では、専門家から初めてコンサートに訪れるお客さんまでを相手にするということである。そうした聴衆に広く語りかける力をサイモン・ラトル指揮のベルリンのフィルハーモニカーは十二分に示していた。

今回の「ファウストの劫罰」は、週が変わって本拠地フィルハーモニーで合唱団を変えて演奏されるようだ。この曲にかかわらずベルリオーズの創作への人気や評価はあまり安定しておらず、幻想交響曲以外では頻繁に演奏される曲は決まっており、この曲においても当時の演奏会での成功を考えて、ゲーテ原作「ファウスト」の設定を変えてでもラコッツィー行進曲を入れ込むなどの努力がされているように、今でも序曲などが演奏されるに留まっている。そうした中で、故コリン・デーヴィスが全集を録音するなど、ここでも英国人の活躍があって、サーの称号を持つラトルもそれを強く意識しているのである。ラディオに戻れば、ドイツではドイツ語圏の音楽文化がどうしても基本となるが、特に合衆国ではそのような歴史が無いためにシベリウスの交響曲などの演奏が頻繁だとする話に通じるものがある。

そこで、ベートーヴェンと同時代性のあるベルリオーズの面白さは今更演奏会で取り上げるだけの価値があるかという問い掛けがなされる。

少なくとも次の三箇所は、なにもベルリオーズの管弦楽法がリヒャルト・シュトラウスのそれの基本であり、我々が知っている近代管弦楽団を意味つけるそのものであることを差し引いても、生演奏であるからこそ典型的な例として特筆されるものであろう。もちろん、今回参考にしたメディア「モネー劇場でのオペラ上演」、「プロミスでのシカゴ交響楽団」、「ケント・ナガノ指揮の制作録音」でも、当日のオリエンテーションであったような、半音階進行による無調性の多用や利用などの和声的分析に相当する工夫は認知されたのだが、やはり譜面はその通りであってもメディアでは音響としては認知できないものなどがあるのだ。

第二部第六景のアーメンコーラスの後をメフィストフェレスが取り継ぐところで、電光石化動機に続いて半音階下降進行をトロンボーンがレガートで吹くのだが、今回は惜しげもなくスライドさせて吹かせていた。これなども、ホルンやハープのハーモニックスとともにあのグスタフ・マーラーのグリッサンドを先行しているのだ。それ以外にも第四部ヴァイオリンのマンドリンピチッカートでも視覚的な効果をあげるのに似ている。

第七景の「妖精の踊り」では長いDの基音がコントラバスで流し続けられるが、この効果などもオリエンテーリングで話題となった麻薬による覚醒効果の一つとしての時間的な尺度の混濁 - 裁断・重ね合わせとモンタージュ - としても良いのだが、実際の創作はその和声効果としてグスタフ・マーラー第一交響曲顔負けの倍音成分の饗音として扱われている。作曲者がコントラバスの倍音成分を指揮者として熟知しているからこその技法であったろう。その終結の印象的なことは、なかなかマイクで捉えられていない - 勿論アンサムブルの音の粒が揃うからこそ出来るのだが。

もう一つは、地獄落ちの銅鑼の使い方で、それの本当の音響効果はその共振にあるわけだが、それはまさに後期ロマンティズムを超えて二十世紀の音楽そものなのである。そこでご当地の作曲家ブーレーズのことを思い出せば、そのまま先日ヴォルフガンク・リームが「主の居ない鎚」にコメントした中声域の利用への言及が、ここでのソロのイングリッシュホルンや多用されるヴァイオラに重なるのである。

こうした大管弦楽団の音楽監督がリヒャルト・シュトラウスを十八番としているようでは全く其処から抜け出ることは無くて、管弦楽団が如何に今後継続して存続していく可能性があるかの問いかけには全く答えがないのである。これがベルリンの交響楽団がなぜサイモン・ラトルを必要としたかの結論であり、幸か不幸か前任者クラウディオ・アバドはそこへの道をつけたのに他ならないのであった。

復活祭の鐘がなり、リヒャルト・シュトラウスを超えてと、バーデン・バーデンへの旅のプログラムを組み入れたフィルハーモニーの定期演奏会の核はこのような按配で作られていて、サイモン・ラトルの意志の高さがそこに垣間見れるのみならず、それが実現化しているのをこうして皆が実感するに至るのである。最初にこの交響楽団を指揮したのを聞いたのは二十年ほど前のショスタコーヴィッチの第八番交響曲だった。そのフォルテの鳴らし方に失望した覚えがあるが、そのころとは流石に全く異なっていて、上のようにベルリオーズが演奏されることで、たとえシュテッツガルトの劇場合唱団のフランス語に不満があるとしても、ヴァークナーの楽劇並みに聴衆を魅了することが出来るのであった。ここで、その管弦楽団ではなく指揮者にその喝采が集まるのは当然のことでもあるのだ。

来年は、トリスタンや第九がプログラムに並んでいる。一先ずこの辺りで、音楽監督としての総決算を示そうとしているようで、目が離せなくなってきている。既にその完成域をここに見ているのだが、ライヴストリームどころか通常のCDでは再現不能なものばかりである。よほど投資をしなければそれを記録することは出来ないが、そのような市場などはもはや無い。その辺りにもこの交響楽団との協調作業の限界が見えてくるだろう。



参照:
伯林の薔薇への期待の相違 2015-03-29 | 音
主の居ない打ち出の小槌 2015-01-26 | 音
復活祭日曜日の動機付け 2015-04-06 | 暦
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活祭日曜日の動機付け

2015-04-06 | 
復活祭日曜日は予定通り晴れた。喜ばしい復活祭であった。バーデン・バーデンには日本からの音楽鑑賞旅行ツアーも入っているようで、ザルツブルク並みに賑やかだった。年配の男性が「これでもう幸せ」と休憩時に溢していたのを耳にしてこちらも嬉しくなった。音楽祭観光が旅行者にこれだけの満足感を与えることが出来れば大成功である。バーデン・バーデンの町もアルテシュロースも食事もワインも何もかも欲張って堪能して頂きたい。フランクフルトから二時間も掛からない。ザルツブルクやバイロイトなどよりも遥かに近いのである。いつもよりフランス人も多く英語を喋る人たちも少なくなかった。ロシア語が耳につかないほど少しずつインターナショナルな雰囲気を醸し出しつつあるのだ。サイモン・ラトルが監督であるのはあと三回ぐらいしかないが、コンサートには今後も登場することはあるだろう。オペラならば、今回もコンサートを振っていたようにリカルド・シャイーなどならより上手にやるだろうが、さてどうだろうか。

来週は岩登りに再び出かける予定だが、暖かくなって山の雪が融けるようでなければ、冷たくて仕方が無いだろう。岩は直ぐに乾くと思うが、さて来週はどれだけ春らしくもしくは初夏らしくなるか?

兎に角、初日よりも入っていた感じで賑やかだった - それでも正面のバルコンはがらがらで、我々が左右から動いたのだった、そもそもあのバルコンが三つ目四つ目のカテゴリー価格なのは高価過ぎないか。旅行グループは入っているか入っていないかで極端に違うが、それ以外にも若い人の顔を多く見かけたのは嬉しかった。初日は特別料金であり、旅行にはあまり向いていない金曜日であるので少なかったのだろう。来年の初日トリスタンは土曜日だから賑わうに違いない。

コンサートに関しては改めて書くとして、朝は九時にはパンを取りに行って、走ろうと駐車場に行くと可也の人出だった。そして峠を攻めることにした。出だしがなんとなく良かったので、午前中初の18分台を期待したが、結果は登り19分3213歩で前回より悪いようだ。今回は結構いけると思ったのだが、歩数が増えたのはなぜか?下りにまた白髪の老婆とその息子と擦れ違った。老婆はあまり機嫌が良くなかった、私より先に出発して、擦れ違ったところが下方だったので不満だったのだろうか?駐車場に降りてきて34分5535分はこれは仕方ない。結構疲れていたからだ。

パン屋では火曜日までの分を購入したので7ユーロも支払った。今までで最高金額だったろう。復活祭月曜日は休みだからだ。22時に戻ってきたので、月曜日は早く起きれるだろうか?午前中は晴れそうなので走れるか、午後はボルダーを試せるか?直射日光で気温が上がってくれば良いのだが。(続く



参照:
苦労して獲得するもの 2015-03-30 | 音
聖週間から復活祭にかけて 2014-04-22 | 暦
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活祭の連休の束の間

2015-04-05 | 
車中のラディオは、先日のハースの曲を弾いているピアニストがゲスト出演の番組に続いて、正午のニュースは昨晩の難民バラックの焼き討ち事件を伝えていた。ザクセン・アンハルトのテュグリッツのことでザーレのナウムブルクに近い。ドレスデンからその辺りを走ったことがある。確か古城があったような近くである。何も無いようなところだが、先日来連邦共和国で有名になったのは市長が極右NPDの脅かしで退任することになったからである。理由は上の難民を受け入れたことであろうが、状況はエスカレートしているようだ。

夜中の火事には、町の野次馬が集まったようだが、報道の質問には何も答えようとしない。そのように伝えられている。そうした空気を許しているのは住民でしかない。難民に屋根を提供することを拒む人が、我々西ドイツから援助を受け続けている訳で、これほど腹立たしいことは無いのである。

なるほど好き好んで東ドイツの苦労を背負った訳ではないだろうが、今でも左翼党への支持など十分な総括がなされておらず、ただ卑屈になっているとしか思えないのである。仕事が無ければ、連邦共和国のみならずEU内どこへでも行ってよりよい仕事を探せばよいのであるが、東ドイツ人はその教育から臆病になっていて、すべてを恐れているのである。この辺りは、朝鮮人ほどではなくても、日本人などにも似ている陰湿な面かもしれない。

中央ドイツの報道などもこうした感覚を代弁していて、受入数が多過ぎるなどと書き立てるが、東ドイツ人に比べればまだまだ外国人は少ないのである。やはり、教育から始まって格差がなくなるには間違いなく数世代が変わっていかなければならない。

同じように東に面すれば、先日来話題のように、EU内つまりNATO内でEU軍を形成していこうとする動きがあって、メルケル首相などもポーランド軍と連邦共和国軍の交換などを推し進める方向に賛成しているが、左派党のみならず緑の党などもブロック化した軍事勢力の画一として反対している。しかし現実的にはNATO内でも合衆国の力が相対的に弱体化するにつれて、EUがそれなりの防衛力を保持することは当然であろう。

パン屋に行って、いつもの復活祭を購入した。それ以前に今年は復活祭ウサギパンも購入した。流石に買い物の人手は多かった。クリスマスほどではないが、連休中に自宅にいる人は買い物をしなければならない。明日の朝は久しぶりに走れるだろうか。



参照:
音が鳴り響く環境の考査 2015-04-01 | 音
満ちる生まれ変わる喜びの日 2010-04-06 | 暦
受難オラトリオのコムニオン 2015-03-26 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花冷えにPWRの白い天蓋

2015-04-04 | 
久しぶりにワイン地所を散策した。一時間ほど歩いたか。パンを取りに行ってもそこからいつもの森を走るだけの動機付けはなかった。カメラで何かを写すことにしたからだ。葉アーモンドになった花などを写しながら、初めて綺麗に加圧水型原子炉PWRの二号機の丸い原子炉格納ドームを捉らえた。連邦共和国で最後まで稼動する原子炉である。左側の二本の煙突の低い方の横に廃炉となった一号機の沸騰水型BWRの建屋らしきが写っている。フクシマの後六日後の17日に止められて廃炉となった。しかし二号機は四年ほど動き続ける。

先日ラディオで廃炉事業の具体的な方策が話題となっていて、連邦共和国の廃炉技術推進のカールツルーヘの教授が電話で出演していた。それによると最大の問題は、原子力発電所のプラントが廃炉を考えて構築されていないので、ばらす場所が無いということだ。プラントの建築などに詳しい人はその意味がすぐに分かるのではなかろうか。それでも技術的な合理化を進めて、安全な方法で大体十年ほどで完了するという。そこで日本で囁かれている廃炉事業には最初から水増しがあるのではないかと感じた。連邦共和国の二三倍の時間を計算しているというからこれはただの技術的未熟の問題ではないだろう。

ここにきてまた気温が下がって寒い。折角雨が上がって、太陽が照ったが、腰に張りがあり、走りに出かけるのを取り止めた。寒の戻りの身体を痛めそうだったからだ。復活祭にはスキー場でも雪が降ることが多い。今年もそうなっただろう。そうした暑さ寒さも復活祭までである。ここまでじっくりと身体を温めてきたのだからここで無理をして壊したくないのである。復活祭日曜日まではぐずぐずした肌寒い日が続きそうだが、その後は晴天となって暖かくなるようだ。



参照:
ライン中州の冷却水の恐怖 2015-01-22 | アウトドーア・環境
うちの原発と蕾の加齢 2012-03-17 | 雑感
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アベノミクスの責任回避

2015-04-03 | マスメディア批評
いつまで経っても日経平均が思うように伸びないのにいらいらしているのは私だけではないだろう。今伸びなければやはり構造的な問題があるとしか思われないからである。アベノミクスの頓挫の落としどころの話が新聞に載っている。日銀が説明するように、原油価格や個人消費の停滞で思うように物価上昇率が達成できずに、数値的には売上税の上昇分ですべて食われてしまうということ以上に面白い見解が書かれている。もっとも経済成長にブレーキを掛けているのが高齢化による人口の減少があるとされているが、実際には90年代には合衆国並みの経済成長をしていたので、2008年のリーマンショックを除けば、それを打ち消していたというのだ。

そこで安部政権は女性の社会進出を掲げているが、それは短期的には成果を挙げても、結局は少子化を推し進めるめることになるとしている。一方ではようやく輸出企業を中心にデフレ気分を抜き出そうとしているが、現在の財政出動政策なしで自動的にデフレ脱却へとの弾みがつく事態になるかは疑わしいとされている。

そのようなことを警戒して黒田日銀は、政権が構造改革のアベノミクスの第三の矢が不十分とした条件をつけることで、つまり企業の経営状況が好転したところで投資へと向かうことでこそ初めて構造改革の必要がより理解されるとすることで、既に責任回避を準備していると書かれている。金融市場の動向に左右されたアベノミクスへの失望は大きい。

台所のゴミ袋を見ると何かが歩いている、とても小さなカタツムリである。どこについていたかは分からないが、ルッコラの中に隠れていたのかもしれない。だから普通以上に色の変わりが早かったのだろうか、それとも昨晩のほうれん草だろうか?兎に角、接写で写してみた。なかなか上手くいかない。調べてみるとISOが最大限下げられていた。なるほど先日バーデン・バーデンの劇場で撮影したときに暈けた感じになって拡大に耐えられなかったはずだ。シャッター速度が一秒とか八分の一になっているではないか。ブレをソフトで押さえているだけなので当然のことながら細部は暈ける。

このソニーのサイバーショットはとても面白いカメラだと初めて分かった。絞りとシャッター速度はISOの設定で可也思う通りになることが分かったからだ。壊れたキャノンのIXYよりも遥かに自由度が高いコムパクトカメラである。なるほどばかちょんカメラとして期待して購入すると勝手が全く異なるので期待外れも多い筈だ。スナップカメラとしては明らかにキャノンの方が使いやすいかもしれないが、写したいものを写したいように撮影できる可能性はソニーがとても高そうである。ズームレンズの焦点の問題があるが、様々な機能を上手く組み合わせると面白い写真が写せそうで、徐々に使いこなせるようになると楽しみである。可也プロフェッショナルな腕がないと使えこなせないような感じである。



参照:
玉に瑕のメードインチャイナでも 2015-01-24 | テクニック
税引き後のインフレを実感 2014-11-26 | 歴史・時事
民主主義の品格の欠乏 2014-11-18 | 歴史・時事
Geldschwemme ohne Gegenleistung, Petrick Welter, FAZ vom 1.1.2025
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵐過ぎ去って、その後

2015-04-02 | 
嵐「ニクルス」が過ぎ去ったようである。一昨日もあまりの強風のために夜中に目が覚めた。気圧も下がっているのかまるで高山にいるような感じになっていた。ミュンヘンの駅でも倒木のために国鉄に複数の死亡者が出て、各地でも倒木で死者が続発した。日本の台風ほどではないが風の強さは時速190KMを超えたようで、新聞の写真を見るとミュンヘンの街中で腹ばいになって寝転んでいる人が多数いる。立ってはいれなかったようだ。

久しぶりに雨が上がり陽射しがあったので一っ走りしに行く。回りが、陽射しのせいもあってか、可也明るい。森の梢が大分落ちて、上に引っ掛かっていた葉っぱなどが一掃されたからだろう。今年の新緑は美しくなりそうだ。被害が出たのは大変だが、自然のサイクルとしては時々これぐらいのことがあっても当然であろう。沢沿いを往路2093歩12分、往復24分4120歩ほどで、珍しく復路に苦労した。気温は摂氏五度と比較的低かった - そう思っているうちに今度は雹交じりの激しい雨降りだ。

就寝前に、普段はあまり観ないYOUTUBEのオペラやコンサート風景などを摘み食いした。気になっていた1994年のカルロス・クライバー指揮のヴィーンでの映像を観ると、明らかにミュンヘンのそれのようには鳴らせていなかった。その公演を聴いた人の話などでもそれほど評価は高くなかったので、1980年代のミュンヘンでのそれを凌駕していなかったと見える。ヴィーンのそれなどからするとややもすると可也いい加減なところもあるので、俗受けはするが一部には批判もあっても当然であったろう。

その後に、ベルリンのフィルハーモニーからのネット中継の触りのようなものを観た。サイモン・ラトル指揮の出来のよさそうなものは無いかと探したのだが、なかなか見つからない。ストラヴィンスキーなどでも他の交響管弦楽団とのものよりも遥かに優れているものはあまり無いようだ。確かに高品質な演奏が繰り広げられているのだが、どちらかといえばとても通向きの質のよさが評価されるものが多い。

ストラヴィンスキーのサルム交響楽のチェリビダッケ指揮の演奏がラディオで流れていた。音響空間シリーズでスパイヤーで旧SDR放送交響楽団との演奏であったが、カイザードームの残響が長い分、それを考慮していつもよりも更に遅めに神経質に音響を組み立てたもので、どこまで聴衆がそれに反応したかは皆目分からない。ショルティー指揮で其処でブルックナーの第二交響曲を体験したときもやはり表現に制約があったことを思い出す。

その後、俗受けして、もはやミュンヘンでは神と崇められているキリル・ペトレンコ指揮のの映像を探した。暮れに再上演を見聞した「影の無い女」が30分ほどあって参考になるが、その他にもフランクフルトや古巣のコーミッシェオパー、ベルリンのフィルハーモニーでの定期、イタリアでの演奏などがあった。イスラエルフィルでのインタヴューが、慣れぬ英語ながらなるほどと思わせる話があった。それによると「管弦楽団をひとつの楽器」と興味を持ったようで、その傾向が今でもよく出ている。スクリャビンの交響曲などもそれでよいと思うが、なにもあれほど高品質な「楽器」を使わなくても表現出来ると思わせるのは客演指揮者であるから仕方ないのだろうか。あまりに座付き管弦楽団で慣れすぎたためか若干野放図に鳴らせることが多すぎるようで、奈落からならばロシア音楽同様それも効果となることも少なくないだろうが、現代の交響楽団演奏ではないだろう。またマーラーを交響曲の中心においているのが面白い。

それにしてもベルリンのフィルハーモニーからのさわり集を観るだけでこれはといった後任候補がいないのが分かる。多くは現在のラトルサウンドよりも後退する感じで時代の逆噴射的な感覚の指揮者が多い。チェルビダッケの悪口を真似るとソフトナーを入れたデュダメル、野蛮なビュシュコフ、とても古風なイェルヴィ、名前の割に失望したのはネルソンズで、ヤニック・ネゼセガンやアラン・ギルバートならばどうなのか、どれもここ十年ほどで有名になったので聞いたことも無い人たちである。ティーレマンならばフィッシャーでも代わらないではないか。先週マタイ受難曲を振っていたマルコンという人がここでもヴィヴァルディーを振っていたのには驚いた。

こうしてみてくると、サイモン・ラトルの後任選びは結構大変である。そもそもラトル自身が既に20歳台前半で多くの優秀なレコーディングを残して、後半には世界のスターになっていたことを考えると、なるほど劇場の世界ではペトレンコのように若くして脚光を浴びた人は珍しいが、それに匹敵するような人はなかなかいないのは当然かもしれない。



参照:
音が鳴り響く環境の考査 2015-04-01 | 音
苦労して獲得するもの 2015-03-30 | 音
受難オラトリオのコムニオン 2015-03-26 | 音
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする