Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

超弩級の中継放送録音

2019-08-03 | 
歯茎が炎症を起こして腫れてきた。死んだ歯根の所に血流が溜まったようだ。ぷっくりと膨らんでいる。すると内圧が高まって痛みとなる。流石に仕事が手に付かない。逆に痛みを確認して安心するぐらいである。患部がそこにあって手当の必要がある。具合が良くないのを承知でニンニクを大量に投入したので直ぐにその効果が表れたのだ。

19時30分前からスイスのDRS2でルツェルン音楽祭開幕前の景気づけに昨年のハイライトが流れた。2018年8月30日のコンサートの前半が流れた。マイクを通してその音を聞くのは、二曲目のプロコフィエフピアノ協奏曲三番のヴィデオに続いてで、ラディオでは初めてだった。音質も素晴らしく、ヴィデオでは分からない会場の雰囲気がありありと感じられた。励起した楽団と聴衆と言うその場である。

結論からすると、やはり記念碑的な演奏会だった。先ず何よりもマイクを通しても左奥に坐したコントラバスの音がどっしりと後ろに黒幕のように拡がっていて、その指向性が無く、バスになっているのを聞いて、会場ではどうしても視覚が邪魔してしまうことを感じた。所謂独伝統的な対向楽器配置とされるもので、キリル・ペトレンコが好んで敷く配置体勢である。更に一年前のモーツァルトと悲愴の時は通常配置を取っていたことも付け加えておこう。

下手前方に第一ヴァイオリン、その扇形の奥にチェロ、チェロの左後ろにコントラバス、真ん中から上手へとヴィオラ、右手前に第二ヴァイオリンとなる。これが本拠地であるフィルハーモニーなどのワイン棚型の演奏会場で演奏すると件のバスはこのようには響かない。端的に言うと薄くなる。音が跳ね返って回り込まないからでこの差は大きい。

この楽器配置が廃れていった背景には、通常の配置の方が合わせ易いという技術的な問題もあるが、同時にフィルハーモニーなどのワインヤード型の新ホールが増えたのと並行関係にあるだろう。なぜ、ヘルベルト・フォン・カラヤンがああしたバスラインに乗ったピラミッド型の音響を欲したかはその管弦楽の美しい鳴りのために必要不可欠だったからでもあるが、従来のシューボックス型では過剰になっていたに違いない ― 最後の日本公演でのザシンフォニーホールでの演奏をそうした専門的な興味も無く聞き逃したのはそれゆえに残念だった。

同じ曲を2018年4月の定期公演での放送中継録音と比較すると演奏内容よりも先にその音響が全く異なる。勿論バスラインが後ろに拡がることなく定位はするがあまり効かないだけでなく、全体的にあまり実体感が無い。フランス音楽だからその方がいいという人もいるかもしれないが、どうしても滲んで楽曲のシステム間の絡みが分からなくなる。フィルハーモニーは名ホールであるが万能ではない。分析的な音響のホールであるにも拘らず、意外とマスとしてしか聞き取れない。

一方ルツェルンの方は、音の減衰が素直で音が滲まない。本当に美しいだけでなく、その舞台上の奥行き感がそのままマイクにも捉えられていて、放送録音としては超弩級ではないかと思う。そもそもこれだけ美しいベルリナーフィルハーモニカ―の生録音は聞いたことが無い。流石にこの演奏はネゼセガン指揮のフィラデルフィア管弦楽団では難しいと思う。音の構造的な深みが全く異なる。流石にこの音を聞いてカラヤン時代の方が凄かったという人は居まい。音の情報量で月と鼈だ。それはペトレンコが確りと一音一音読み取って指揮していて、楽団もそれに応えているからに過ぎない。なにも強調などは一切していない。

最初の名手パウのフルートからして、春には吹き上げていたのを、しっかりと変えてきていて、これだけで感動させるに十分なのだが、そうしたモラールが楽団に全体に満ち溢れていて、嘗ての発止発止と演奏していた団体とは徐々に変わってきている ― いつかの日本人有名音楽評論家のようにこれをして猛獣使いと言うような下種がいるのなら最早芸術については絶筆して頂きたい。こうした芸術行為から私たちは本当に勇気を貰う。そうした行為が決して無駄な営みで無い事を認識する。就任一年前にこのような演奏をする組み合わせが今後どのような演奏を繰り広げるかは本当に青天井のような感じである。先ずは第九のオープニングである。



参照:
励起させられた覚え 2019-08-02 | 音
芸術を感じる管弦楽の響き 2018-09-02 | 音

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