Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

独墺核レパートリー

2021-12-02 | 
(承前)バーデンバーデン初日の最後にはシューベルトの遺作とされるハ長調の大交響曲がおかれた。夏のツアーで縮小されたプログラムとしてルツェルンで前から二列目で一回、今回のツアーではバーデンバーデンに乗り込む前に同じ週の火曜日にフランクフルトのアルテオパーの平土間の真ん中あたりで一回聴いてきた。そして三回目の演奏だった。

ベルリナーフィルハーモニカーもこの演奏で当分は再演しない筈である。次の機会に誰がどこで振るかは分からないが、キリル・ペトレンコにとっては今迄のベートーヴェンの七番とかハフナー交響曲に続いて一先ずお役目御免の所謂核レパートリーとされる独墺音楽の古典を成功裏に指揮終えたことになる。

皆が求めるものは過去のフルトヴェングラーやカラヤンなどを経てのその前提に立っての演奏行為であって、それだけの成果である。既にフランクフルトでも感じていたのだが、こういうレパートリーをどのように示すかに基本コンセプトがある。

今回は夢と現実の間であるロマンティズムに光が当たっていたのだが、特にこの晩は第一楽章での全休止やまた深淵が広がる瞬間がとても印象的であった。シューベルトの後期のピアノソナタなどで馴染みのある遺作に共通するその瞬間であり、そこへの流れである。こういう音楽を体験すると後継するブルックナーの神秘主義が如何に楽天的な信仰に導かれているかというのが認識できるだろう。ビーダ―マイヤー的な小市民的平和や民族的な要素との大きな断層となる所である。こういう音楽的表現は何回も本番を通すことで奏者に感興が乗ってこそ始めて出てくる味わいのようなものだと思われる。

それとはまた異なり、この晩が二度目の体験のヒンデミートのヴェーバーの主題によるメタモルフォーゼンが演奏された。この曲の演奏としては殆ど頂点に達していたと思われた。この晩の為にヴェーバーの全ての原曲に遡った。それによってヒンデミートが亡命先でどのような思いで創作していたのだろうかと辿れる部分が多かった。こうして立派に演奏されることでこの曲や創作者への理解が広がるいい契機となったことは間違いない。

しかしこの晩三度目で初めて納得がいったのがフォンヴェーバーの「オベロン」序曲だった。狩りのホルンから印象される森のホルンがシューベルトでと同じように使われるのだが、そこから同じように独墺ロマンティズムでの自然賛歌にもなっている。シューベルトでは木管楽器との対句があり、メンデルスゾーンではミックスされる音色があった。この晩は、会場の温かい音色が功を奏した面もあったろうが、その木管楽器との掛け合いや弦楽器への引き渡しと、ただ明白な音響というものではない完成度があった。恐らく最も近しいのはエリオット・カーター作曲などの響きであり、安易なネオロマンティズムをそのもの否定するだけの音響が創造された。

三種類のシューボックス型の会場で三種類の距離感をもって同じプログラムを鑑賞したことになる。会場の音響が三者三様であったのだが、音楽的な判断をするのが一番難しいのは齧り付きであったことは間違いない。楽譜を完全に暗譜しているぐらいでないと楽器間の受け渡しや重ね方を追える人などいないのではないか。指揮台の上ならば視界も効いて、ミックスされない直接音を聴き分けることが出来るのだが、舞台より下ではチェックするのすら難しい。

平土間真ん中あたりは、弦に関しては問題ないのだが、木管などが重なったりして視界が閉ざされる。但し音色の配合に関しては比較的集音マイクに近い場合もあって、音響的には満足できる場合が多いのではなかろうか。

しかし視界に関しては上からのそれも距離感の無いところが最も優れているのは当然であって、音響的な不都合があっても補えるのが最も有利な点である。特にヒンデミートのように楽器編成が大きくなると、聴覚だけでその多くを聴きとれる人は矢張り優秀な耳を持っているに違いない。(続く)



参照:
バーデンバーデン初日前夜 2021-11-06 | 文化一般
いいところを突く 2021-09-07 | マスメディア批評

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