Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

情報量の大小を吟味

2018-07-11 | 文化一般
週末のミュンヘン行を準備しないといけない。もう一度プッチーニ作曲「三部作」の楽譜に目を通しておきたい。出来れば生配信映像録画ももう一度通して観ておきたい。しかしまだまだ日曜日の配信の余熱が残っている。先ずはオンデマンドのDLを試みたが、1KサイズのMP4は何度試しても4時間13分で切れてしまう。編集ミスのようだ。そこで次の大きさをDLすると5.45GBになった。4時間36分04秒である。ただし音声は189kの伝送速度なので全く駄目だ。予備にNASの肥やしにしておくだけだ。

技術的には、初日のラディオ放送と異なりマルティマイクロフォンシステムで録音されていて、音声の情報量はこちらの方が遥かに大きい。しかし末端でそれを受信する場合は伝送のエンコーディングによってフィルターが掛かることでそれほどの新鮮みを感じない ― つまり純粋にオーディオ的な評価がその音質と誤解される。極端に喩えれば、会場の座席でどんなに高性能なマイクロフォンと機材を隠し持って密かに録音しても捉えられるのは隠し録音する犯人の衣の触れる音や腹の鳴る音が嫌に生々しく聞こえるという事でしかない。それを情報量と呼ぶのは、昔人気のあったオーディオ評論家長岡鉄男の悪影響を受けた日本のオーディオ愛好家かもしれない。

こうした楽曲録音の場合の情報量は、そのもの音楽表現に関与する全てのものを指すので、特にこうしたライヴ録音の場合はある程度の会場の雰囲気はそのドキュメント情報の重要な一部でさえある。それをして新鮮みと称するのは間違いではなく、それが欠けることでこうしたライヴ中継の価値は半減するのも確かである。更に劇場中継の場合は視覚が大変重要であり ― だから昨今芝居ラディオ中継など聞いたためしがなく、存在するのはラディオドラマだけである。

その意味において音楽劇場からの中継も同様で、ラディオ中継の価値は限定的である。なぜならば舞台の上で起こる雑音などは否定的な意味しかないからで、制作録音の音質は得られないからだ。なるほど今回のライヴ配信はマルティマイクロフォンゆえに、指揮者が捲る楽譜の音まで捉えられているがそれも映像が情報を補強するので違和感はない。要するに映像と相まった音声の情報がここでは評価される。この議論を進めると美学的な考察は避けられない。

そうした映像ゆえに確認可能なのはテュッティーを弾く演奏者のメムバーだったりする。驚くべきことに、初日とはメムバーが大分替わっていた。例えばコンツェルトマイスターの二人は初日はヴォルフとアルバニアの人の二人で、シリーズ四日目はシュルトハウスとおばさんの二人、それだけでなく管などもトップ二人の一人が替わっている。これがなにを意味するか?通常は初日シリーズの質を上げていくためには固定するのがベストだが、敢えて入れ替えているような様子で、もはや音楽監督と楽団の信頼関係がこうした水準まで至ったのかと思う。つまり誰がそこに入っても水準を保つどころか上げれるということで、今後誰が振ってもDNAとして引き継がれるものがあるということだ。これは、九月に式典の行われる歌劇場二百年の、音楽的なエーラを先に引き継ぐことをも日頃から意識しているからだろう。こうしたところのキリル・ペトレンコの意識の高さにはいつものことながら頭が下がり、それ故に天才と評されるところだ。ベルリンでこの関係に至るにはそれ相当の時間が必要だろう。

ネットに広場で喝采を受けた後のバッハラー支配人とペトレンコがフィストバムプで祝福する写真を見た。その時は一体どのような「男たちの悪巧み」かなと思ったが、より大きなプロジェクトの中で到達した何かを祝福していたのだと思う。演出に関しては評判は芳しくなく、メディアにとってはバゼリッツの美術以上に扱うだけの素材を提供していないので、話題にしようがない。それを補うだけの成果ということになるだろうか。思い当たることは、三年以内にカウフマンのトリスタンということで2021年のフィナーレは「トリスタン」でお別れ祝祭となるだろう、その前哨戦としてやはりベルカントのカウフマンの成功が必至だったとも考えられる。なぜそこまでカウフマンに拘るかの裏事情は知らない。しかし、同じミュンヘン出身のゲルハーハ―共々、音楽監督が代わっても次の時代に引き継ぐという方針はあるのではなかろうか。

「三部作」が済むとルツェルンへ向けての準備となるので、細かなところに触れる時間があるのかどうか分からないが ― 気持ちはもうフランツ・シュミットへと向かっている -、今までの新制作シリーズと共通したところが今回もあった。それは一幕から終幕までの出来推移で、初日には三幕から仕上げていき、徐々に前へと完成度を上げていく。聴衆の印象やその効果を考えて、練習の時間配分を考えているのだろうか?それとも作曲家自体がそうした手慣れた創作を書いているのだろうか?その意味から初日には圧倒的だったアンフォルタスのシーンよりも重点は二幕へと移っていて、まだまだ一幕へと修正されていくのだろう ― 勿論歌手の出来不出来はあるのだがこの傾向はいつも同じだ。すると秋の「マイスタージンガー」は一幕が更に充実するか、あの最も厄介なポリフォニーのフィナーレが。まだ30日に最終回があって、来年三月へとまだ手慣れていくのが憎い。



参照:
見所をストリーミング 2018-07-09 | 音
祝杯の無い幸福 2018-06-15 | マスメディア批評
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