さて、恒例のヴィーンのニューイヤーコンサートである。グラス片手に一杯引っかけながらお気楽に流すのである。そうは言ってもこれが西洋芸術音楽界の、注目度・売り上げからしても年間最大のイヴェントである事に間違いない。それは、演奏されるワルツやポルカ類が芸術音楽として認知されているからである。芸術か娯楽かは、演奏する楽団や演奏家には関係ない。
このプログラムを主に受け持つ父子ヨハン・シュトラウスは、ハブスブルグ時世そして革命後に新しい市民層のエンターテーメントを提供してレハールなどと共にダイナスティーを築いた。其の活躍はロシアを超えて北アメリカにまで及んだ。飲食店や公園で舞踏会で市民の憩いを提供していたこの活動が、その持て余す才能で喜歌劇を作曲して国立劇場のレパートリーとして受け入れられていく過程は面白い。
これらのレパートリーが直ぐに芸術的価値を持つかどうかは、美学として別の問題となるのだが、これは昨今の価値観の変遷から断定するのは益々困難となった。時代により変わるものなのである。中世において世俗と聖なるものが一対になっていたように、貴族的なものと市民的もの、商業的と伝統的、真剣なものと娯楽が対照とされた。野暮な議論は止そう。
このコンサート、1939年に貴族の落胤といわれる指揮者クレメンス・クラウスの音頭取りによって定着したという。我々は知っている。アンドリュー・リュウが気の効いた編曲をして自らもアレンジ料を徴収して莫大な富を築いた事を、三人のテノールの公演は娯楽としての莫大な著作権料を徴収された大事業な事を。それでは、何とも中途半端なこのコンサートが何故定着しているのだろうか。そこでは、中継画面の途中に映し出される低地オーストリーのドナウの流れや森やザルツブルクの山並みを背にした草原や多くの名所旧跡に表れる歴史と生活が走馬灯の如く、これらの音楽から想起されるからではないか。ビーダーマイヤー風といわれるようななんとも心地よい感興は、南ドイツからヴィーンにかけての血と肉となった、大義名分や知的認識とは距離を置いた、殆んど天国的と云える生活感なのである。
このプログラムを主に受け持つ父子ヨハン・シュトラウスは、ハブスブルグ時世そして革命後に新しい市民層のエンターテーメントを提供してレハールなどと共にダイナスティーを築いた。其の活躍はロシアを超えて北アメリカにまで及んだ。飲食店や公園で舞踏会で市民の憩いを提供していたこの活動が、その持て余す才能で喜歌劇を作曲して国立劇場のレパートリーとして受け入れられていく過程は面白い。
これらのレパートリーが直ぐに芸術的価値を持つかどうかは、美学として別の問題となるのだが、これは昨今の価値観の変遷から断定するのは益々困難となった。時代により変わるものなのである。中世において世俗と聖なるものが一対になっていたように、貴族的なものと市民的もの、商業的と伝統的、真剣なものと娯楽が対照とされた。野暮な議論は止そう。
このコンサート、1939年に貴族の落胤といわれる指揮者クレメンス・クラウスの音頭取りによって定着したという。我々は知っている。アンドリュー・リュウが気の効いた編曲をして自らもアレンジ料を徴収して莫大な富を築いた事を、三人のテノールの公演は娯楽としての莫大な著作権料を徴収された大事業な事を。それでは、何とも中途半端なこのコンサートが何故定着しているのだろうか。そこでは、中継画面の途中に映し出される低地オーストリーのドナウの流れや森やザルツブルクの山並みを背にした草原や多くの名所旧跡に表れる歴史と生活が走馬灯の如く、これらの音楽から想起されるからではないか。ビーダーマイヤー風といわれるようななんとも心地よい感興は、南ドイツからヴィーンにかけての血と肉となった、大義名分や知的認識とは距離を置いた、殆んど天国的と云える生活感なのである。
でも、ちょっと考えさせられました。そのことも
明日のブログに書く予定です。こちらと相互で
トラバさせていただきたく存じますので、どうぞ
よろしくお願い申し上げます。
トラバ、ありがとうございます!
そうでしたか、募金の金額が出演料に相当するとは。
錦織健さんも言っていましたが、
ラデツキー行進曲をやらなかったことと、
地震の被害が結びつけられて、
記憶の風化を防ぐというようなことも、
コンサートの知名度があってこそなんでしょうね。
そのような観光客が被災地でそのまま保養を続けている姿が批判される一方、被災地で救助活動をしている観光客もいる訳で、観光を通して他人事でなくなっているのが事実のようです。
とてもよかったです。
個人的に、作曲家にこだわってクラシックを聴く方なので、
シュトラウスはなぁ・・・という感じでしたが、やはりナマであることと楽団の実力、
楽しませていただきました。
ラデツギーのくだりでは、会場からも賛同の拍手が起こっていましたね。
世界あちこちで中継されているプログラムだと思うので、
インパクトは強かったと思います。
ちゃんと聴いた(私的にですが)クライバーの時くらいでしたか?
録画しておいて後で、ってのも何か気抜けした感じですし。
曲は心地良いものが多くて、時間的にゆとりがあれば、浸って楽しめるのだと思いますが・・・。
わりと「ちゃんと」聴いてたベルリンのジルベスターも今回は見なかった・・・。
これからもご交誼いただけるとうれしいです。
こちらでは色々な詳しいお話しが知ることが出来、勉強になります。
ラデツキー行進曲を演奏しないと決めたのは相当な決断が必要だったのではないかと思います。
しかし曲一つ演奏しないことでこれだけの反響を与えることに、改めてウィーンフィルのすごさを実感してしまいました。