Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ポッペアに追い込まれ

2018-04-20 | 
何時もの様に追い込まれた。「ポッペアの戴冠」の準備はまだまだだ。最後の最後に版の選択など細かな具体的な事項に目が行くかどうかわからない。それでもどのような取捨選択がされて、現時点でのモンテヴェルディ解釈の一端を垣間見てみたいと思う。ルネ・ヤコブスの録音もシュヴェツィンゲンのロココ劇場での公演も20世紀を否世紀末を代表する演奏実践なのは違わないが、それならばそれから四半世紀経った今、それがどのように発展解消されているのか?

例えば二幕のマドリガル風の音楽構成は正直音楽劇場のドラマ的発展が無い限り少なくとも我々の耳には退屈でしかない音楽となっている。その理由は、特にルネッサンスの対位法の音楽に慣れた耳にはあまりにも単純に収まり過ぎていて、マドリガールと特定しないでも復古的なルッソーのその和声の重力に辟易するのとよく似ている。それらが北ドイツに移植されるとシュッツなどの嘆き節へとそして中部ドイツのバッハ家族へ流れていくことになる。蛇足乍らそこに20世紀の大衆音楽となったカラヤン指揮の管弦楽などの和声の響きと同じく、あまりにも当然過ぎるように収斂してしまう単純さへの嫌悪に近いものを感じる。

Monteverdi - L'Incoronazione di Poppea, Schwetzinger Festspiele, Trailer [Arthaus Musik 102304]


ルネ・ヤコブスの表現自体は、当然のことながらその和声的な重力感を伴った繊細へと表現の方向を定めてはいるのだが、如何せん基本となるマドリガール自体がそのように書かれている限り、そうした冗長さは避けがたいかもしれない。上のような理由からモンテヴェルディの今日的な意味合いをマドリガールに見出すのは難しいのだが、オペラにおけるやはりその劇場表現媒体の基礎としての関心は変わらない。なんといっても久しぶりの生公演に接してみないと語れないことは沢山ある。

あとどれほどの時間があるかは分らないが、学術的な検討や解釈によって導きされるその残された楽譜や台本からの解釈の余地はそれなりにあるようで、どうしてもその一貫した演奏解釈の肝心な所だけは準備しておかないと皆目解らないと思う。

それでもCDのノートにもあるように、残された楽譜の読み方は重要で、ヤコブスが叙唱におけるリズムの訂正などについて触れている点が重要だ。つまり氏の経験からモンテヴェルディがテクストから逸脱する記譜をすることは殆ど無くて、二カ所のドラマ的な肝心な部分を除いて、この「ポッペア」でおかしい点は間違いなく他の人によって記譜されていて、その他の人によっておかしなオブリガートなども付けられている箇所は訂正したとある。

これは歴史的な演奏実践の場合に良くなる点であるが、少なくとも何らかの楽譜が残っていて、その楽譜がいい加減なものとすればそもそも歴史的な価値などは無い。あるのは装飾とか、現実の楽器やその機会に合わせた時代考証などであって、最初の物はそもそも歴史的に継承されているものでもありあまり問題は無く、寧ろ叙唱などの自由度の重要性が器楽的な通奏低音のそれに勝ることは当然のことである。勿論、ヤコブスの書く様に、カストラートが現在はいないという事の方が音楽劇場表現には頭の痛いことであることは言うまでもないだろう。

朝一っ走りした。短い坂上がりコースだったが、最初から普段の感じに近づいた。息使いも普通になってきた。少なくとも前回とは大違いだ。まだまだ早くは走れないが、掻く汗が気持ち良いものになってきた。これで劇場でおかしなことにならなければ嬉しい。



参照:
ツルツルピカピカに 2018-04-17 | 文化一般
偉大なるマルクス様像 2018-04-16 | 文化一般

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