Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ネットでの記録を吟味する

2015-11-30 | 
ヒトラー誕生日祝祭のフルトヴァングラー指揮第九演奏会ヴィデオを観ていると、日本の外交官風の顔が写っていた。最前列にはナチスの最高幹部が陣取っていて、前の方の席を確保しているアジア人は大日本帝国の在ベルリンの外交官としか考えにくい。まだ若そうなので、戦後に官僚としてもしくは政治家として活躍している筈だ。

あれよあれよという内にクリスマス前のミュンヘン訪問が迫ってきた。資料集めの録音のコピーばかり探していて、楽劇「ジークフリート」の勉強が出来ていない。楽劇「神々の黄昏」へ繋がるそれを把握しておきたいと思っているのである。

バイロイト祝祭劇場の2013年の公演の録音の一部も見つかったが断片しかなかった。それでも三年間の公演での推移はある程度把握できた。それに2013年のローマでの演奏会録音を重ねると、キリル・ペトレンコ指揮の次のような傾向が分かった。

ヴァークナーの管弦楽を楽譜通りに正確に音出しすることで、イタリアでのそれのように突拍子も無い管弦楽バランスで演奏されていて、とてもちぐはぐな印象の傾向が、2013年のバイロイトでも幾らかは起こっているようだ。しかし年を追うごとに完全にはまる様になっていて、2015年には管弦楽のアンサムブルは十分に録音できる水準にまでなっている。

そして、2015年にミュンヘンの劇場で演奏されたときには最後の二つの楽劇においては、通常のオーケストラピットではこれまた飛び出す音響が指摘されていて、もう少し修正されなければいけないという評があった。それは、ある意味真実であり、ある意味これら楽劇がバイロイトの深く屋根のあるピットで演奏されることを前提として作曲されている事実をも考慮しなければいけないということである。作曲家自身は、そうした音響上の指摘に対して、「大丈夫だ」と笑って答えていたのである。

いよいよ12月の「神々の黄昏」再演が気になるところであり、ミュンヘンの劇場がシュトラウスの楽劇と並んでこれらを十八番としているとしても、本当にそこで最後の作品が満足できるバランスで演奏されえるのかどうか。

2014年の録音を聞き、記憶を辿ると第一夜「ヴァルキューレ」が明らかな谷であり、2015年には完全にそれを克服していて、寧ろ山になっていた感すらがあるのを実感する。それに反して2015年は第二夜「ジークフリート」が谷になっていて、特に第一幕は具合が悪い。流石にこれだけの才人でも、舞台の上と奈落の両方を完全に掌握するのが難しいのは、協奏曲演奏の場合と似ているのだろう。

そして第二幕のアルベリヒ役のドーメンの歌のはじまりから徐々に上手く運ぶようになってくる。ドーメンのアルベリヒと三年目のコッホが歌うさすらい人の場面を除くと、明らかに2014年の公演の方が成功している。なるほどジークフリートを歌ったヴィンケは評判が良かったのだが、とても悪かったライアンとは全く違ってあまりにも不感症な歌唱で、第一幕などでは管弦楽団との相乗効果に至っていない。とても反応が鈍く、あまり融通が利かないようで、これまた2014年のウルリッヒの歌ったミーメとは比較にならないミーメの歌唱とともにとても悪い結果になっている。



参照:
音楽ジャーナルの高忠実度 2015-11-24 | マスメディア批評
高みの環境への至福の処 2015-08-15 | 音
ナチスの情報統制術イロハ 2015-11-29 | マスメディア批評
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