Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

一級のオペラ指揮者の仕事

2019-01-14 | 
承前)二幕の始まりでもナガノは楽団を立たすが、まあまあの拍手である。半分ほどの入場者数にしては出ていた方ともいえるが喝采までいかないのは仕方がない。しかし、管弦楽もそれに伴って歌唱も引き締まり、つまり会場も熱が入ってきたのは最初の皇帝の独唱からである。それもチェロのソロとアンサムブルとなるところからで、ミュンヘンでのあのフランス系の首席の弾くそれよりもここの女性のソロがとても素晴らしかった。ここでこの晩の上演のスイッチが入ったといってもよい。

すると指揮の各システム間の不協和などの鋭い対抗や、若しくは多層的に動いたりのシュトラウスの恐らく最もこの作曲家が書いた価値のある小節の数々が構築的な音空間を作り始める。特に立体舞台に対応した対位法の音化などは見事であった。ここはキリル・ペトレンコとの読みと最も異なるところで、ペトレンコの飽く迄も原理原則をモットーとしたあらゆる資料などを研究した上での更なる抑制と、ナガノにおける思い切った管弦楽的・劇場的感覚による読み込みと最も異なるところだ。

その差異が更にはっきりするのは三幕であって、まさしくガイダンスで示唆されたオペラ的なものつまりフランクフルト学派のアドルノの美学からするとあまりにも雑多で雑魚煮的な批判の対象であるものがナガノではオペラ指揮者の長年の経験と感覚として開放される。いつものように繰り返すが、ペトレンコが決してオペラ指揮者でない傍証はこれを比較対象とすれば十分なのだ ― その一方で、南ドイツ新聞などは「この楽劇のその一部で指揮が何をなしたかが将来語られる」としているように、とても好都合な試料であることには間違いない。

つまり、染物屋夫婦の人間的成長に留まらず、最後には皇帝までがオペラ的信条を歌い込む。そうした舞台構造を与えたクリーゲンブルクの演出の勝利でもあるが、どこまでも音楽的な美意識の中で歌い込ませるナガノの腕は第一級だった。指揮者としてはペトレンコとは完全に異なるクラスに属するのだが、オペラ劇場というのはこうしたものなのである。第一級のオペラ指揮者による卓越した演出をオペラ劇場での現実として体験すると、改めてなぜあれほどまでにオペラ通がペトレンコをオペラ指揮者としてそこまで評価するのかが分からない。その効果のヴェクトルが全く異なるのである。

言い方を変えると、もしこのクリーゲンブルクの演出でペトレンコが指揮をしたとしたら、その演出のあまりにものポストモダーンで単純化されたものにミュンヘンではブーイングが飛んだと思う。謂わば、ミュンヘンの劇場はハムブルクのそれよりもハイブローなのだ。
Die Frau ohne Schatten - Richard Strauss


そこでガイダンスを思い出そう。その内容には全くキリスト教的な視点が示されていなかった。寧ろメルヘンのヘレニズムやイスラムを示唆していた - 極東でないことに注意。つまり、なるほど一神教的な視野がその上からの視線となるのかもしれないが、それはミュンヘンでは中々得られない感覚かもしれない。クリーゲンブルクの思考をそこに改めて発見して、なるほどあのミュンヘンでの「指輪」がとなる。嘗てのハムブルクの「影の無い女」との、またそれ以上にヴァリコフスキー演出との最大の相違のように感じた。

プログラムを見ると、それゆえにか頻繁にハムブルクで「影の無い女」が手軽に上演されている。前回は2007年でシモ-ネ・ヤング指揮、そして私の東京で観た1984年フォン・ドホナーニ指揮ホーレス演出は1977年に初日で、なんとルネ・コロ、イヴ・マントン、ドナルド・マッキンタイヤー、ブリギッテ・ニルソンの二組のペアーで上演されている。
Die Frau Ohne Schatten Von Dohnanyi Rysanek Dernesch ― 客席からのアナログテープ盗録の様でピッチコントロール要。


そして不思議なことに管弦楽団のメムバー表は載っていても、歌手プロフィールが一切載っていない。不思議な歌劇場である。それでも不調をアナウンスされたエミリー・マジーの皇后もそんなに悪くなく、会場が小さめのこともあるが声はよく出ていて、一番人気の染物屋のリゼ・リンドシュトロームのヴィヴラートが気になった以外は、ミュンヘンのそれより良かった。1984年はリザネックが歌ったのを聞いたようで、あれはあれでヴィヴラートの芸術だった。その声との合わせ方がこれまたケント・ナガノのオペラ指揮であり、その山を準備している ― しかしなぜまたハムブルクではプロムプターまでが隠れて指揮をするのだ。それらこそがオペラ劇場感覚であって、少々アルコールが入っているような聴衆でも酔わしてくれるのである。それでももはやコッホなどになるとそこには乗ってこなかった。「ペトレンコを唯一の天才」と仰ぐこのベルカント歌手にとってはもはや聞かせどころが変わってきたのだろう。
"O Glück über mir" from DIE FRAU OHNE SCHATTEN - Conductor: Kirill Petrenko


そのやり方は、原理原則からすれば、過剰でありオペラティックとなってアドルノが責めるところとなる。ペトレンコの指揮を聞けばアドルノは賞賛したのは間違いないが、シュトラウスはペトレンコの読譜を評価しつつ、「劇場なんてそんなものだよ」と言うのか言わないのか、これはこの楽劇がそれほど一般的に理解されていないことにも関係しているだろう。しかし三幕でのドライに弾かせるところはペトレンコ並みで、シャープさも加わり、その辺りの安物趣味とは一線を画していて知性的で流石だった。

それにしても戦後民主的な座席配置のあの席ならばミュンヘンならば間違いなく十倍の価格である。そのようにご奉仕価格でも一杯にならないのがハムブルクの大きな問題で、勿論音楽ジャーナリズムの支援が弱く、それだけの気風がない土地柄なのかもしれない。まるで社会民主党の低落を見るようなオペラ公演の現状だった。金があるのかないのか分からないようなハムブルクである。

そのような環境であるがケント・ナガノ指揮のある意味「音楽意訳」的な解釈によって、崩壊の音楽やそのフィナーレまでが大きな弧を描いて演奏される効果は絶大で、音楽劇場はこうあるべきだという姿を示したと思う。コンサートも同じぐらいに指揮できる今や世界でも数少ないオペラ指揮者の一人だと思うが、批判に負けじとコツコツとやることでもう一山ハムブルクで為すとか若しくはキャリアー上でも最後のステップアップがあるのか、ここは腐らずにやって欲しいと願うばかりである。カーテンの隙間から見えた会話する表情は明るかったが、もう少しプロフィールの写真の蒼白の顔色の修正や細かなバックアップをして欲しいと思う ― 一体何処の事務所だ。嘗ての若杉などにも似ている感じがするが、より知的で精緻な読譜も確認された。充実した仕事ぶりに相当する指揮者への喝采としては、そうした一寸したイメージ作りで違うのである。総譜に書き込まれた赤はキューの要チェックだと思うが、ペトレンコのように黄色は無かった。
Krzysztof Warlikowski - Die Frau ohne Schatten - Bayerische Staatsoper München (live/November 2013)





参照:
バラの月曜日の想い 2018-02-16 | 暦
予定調和ではない破局 2018-01-31 | 文化一般
遊園地のようなラムぺ 2017-04-28 | 生活
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