2006年バイロイト祝祭劇場の「ニーベルンクの指輪」新演出の批評が続く。先日のドルスト演出公演の失敗をユルゲン・フリム演出のつまらないと言う評価の公演に重ねる。
準備不足の生半可な演出と上演結果を招いて、向こう六年間のヴァーグナー祝祭公演の低調を決定付けたのは、演出を請負いながら途中で放棄したフォン・トリアー氏に違いない。
そしてここに来て映画「ドッグヴィル」で秀逸な成果を見せた当代を代表する映画監督の幻のバイロイト新演出の下書きが注目されている。映画の配給会社のホームページ(Links)で挫折への道のりと前夜際に続く第一夜「ヴァルキューレ」と第二夜「ジークフリート」のト書きを読む事が出来る。
これを新聞で紹介しているユリア・シノポラ女史は、何とか初日にこぎつけたドルスト演出よりも、フォン・トリアーの「指輪」が実現していたならば、シュリンゲンジッフの「パルシファル」と同様に、その予想された芸術的な破綻はより多くの視界を開いたのではないかと無念がる。
この批判の根底には、ここ数年盛んであった「劇場オペラ演出の時代は終わった」とする見解がある。フォン・トリアー氏のプランを読むと、「豊かな闇」をモットーとして、イリュージョンの世界を創出しようとしたようだ。初演の自身の演出にも満足しなかった作曲家が目指したものは、現代で言えば「ライヴの映画」と音楽であったとする。
このコンセプトと完璧への欲求が、舞台と奈落と客席の空間別けの伝統と初演当時に求めたような「蝋燭の光の効果」への投資を困難にして、計画を挫折へと導いた。当然のことながら知的分析と明晰な感性を要求される音楽には保守的な指揮者では要を得なかったであろう。
劇場の聴衆の想像力の中に活き活きと存在する神話の神々は、「緑の丘」には結局戻ってこなかったが、そうした可能性を示唆しているに違いない。主役は、作曲家の構想の下、今や指揮者でも演出家でもなく、況してやドイツ語の歌えない歌手などでは決してなくて、プロジェクトを使いこなす映画監督で、そして何よりも聴衆の想像力なのである。もともと初演の舞台は暗くて、作曲家にも初演の歌手の顔の見分けなどは出来なかったとするのが面白い。
準備不足の生半可な演出と上演結果を招いて、向こう六年間のヴァーグナー祝祭公演の低調を決定付けたのは、演出を請負いながら途中で放棄したフォン・トリアー氏に違いない。
そしてここに来て映画「ドッグヴィル」で秀逸な成果を見せた当代を代表する映画監督の幻のバイロイト新演出の下書きが注目されている。映画の配給会社のホームページ(Links)で挫折への道のりと前夜際に続く第一夜「ヴァルキューレ」と第二夜「ジークフリート」のト書きを読む事が出来る。
これを新聞で紹介しているユリア・シノポラ女史は、何とか初日にこぎつけたドルスト演出よりも、フォン・トリアーの「指輪」が実現していたならば、シュリンゲンジッフの「パルシファル」と同様に、その予想された芸術的な破綻はより多くの視界を開いたのではないかと無念がる。
この批判の根底には、ここ数年盛んであった「劇場オペラ演出の時代は終わった」とする見解がある。フォン・トリアー氏のプランを読むと、「豊かな闇」をモットーとして、イリュージョンの世界を創出しようとしたようだ。初演の自身の演出にも満足しなかった作曲家が目指したものは、現代で言えば「ライヴの映画」と音楽であったとする。
このコンセプトと完璧への欲求が、舞台と奈落と客席の空間別けの伝統と初演当時に求めたような「蝋燭の光の効果」への投資を困難にして、計画を挫折へと導いた。当然のことながら知的分析と明晰な感性を要求される音楽には保守的な指揮者では要を得なかったであろう。
劇場の聴衆の想像力の中に活き活きと存在する神話の神々は、「緑の丘」には結局戻ってこなかったが、そうした可能性を示唆しているに違いない。主役は、作曲家の構想の下、今や指揮者でも演出家でもなく、況してやドイツ語の歌えない歌手などでは決してなくて、プロジェクトを使いこなす映画監督で、そして何よりも聴衆の想像力なのである。もともと初演の舞台は暗くて、作曲家にも初演の歌手の顔の見分けなどは出来なかったとするのが面白い。
ほほぉ!
奥が深そうですねぇ!
「ライブの映画」という部分が好きでした
そうなればこの楽劇の第三夜などはトリックの腕の見せ所沢山です。
また宜しくお願いいたします。
また宜しくお願いいたします。
たまたま、オランダ~ベルギー旅行(8/12~8/22)から帰ったばかりです。この旅の印象は一言で語れませんが、「人間性への洞察に満ちた“したたかなバランス”力」を見せ付けられたような気がしております。
更に、そのヨーロッパで為政者から神話を取り返す動きがあるとは驚きです。それに比べ、我が日本の政治環境を想うと暗澹たる気持ちになります。
それどころか、今の日本は「権力による新たな神話の創造」という全く逆の方向へ向かい始めています。もはや過半の日本人はファシズムをすら求め始めているように想われます。
『ライヴの映画』。確かにあの劇場は今の『映画館』に近い形だと思います。また『演劇場』とも言えます。客席と舞台を隔てるオーケストラはいません。
ですからなおのこと、演出が演技が重要視されるのでしょうか。
さて、上述の実現しなかった幻の演出構想に沿って考えますと、国粋主義や民族主義に利用された神話がクローズアップされます。
これには、二つの段階があって、ヴァーグナーの芸術の場合、創作当時のドイツの統一やID確立への気運とそうして完成した芸術そのものが神話化して行く過程があります。
一つ目の作曲家の政治的活動と政治力の利用、二つ目のロマン的芸術の需要とファシストによる芸術の利用は、殆ど必然的な収束でありました。
「権力による新たな神話」作りが何を意味するのか。我々は、至る所で見かけるナチの遺跡だけでなく、数多くの現存する「作られた神話」を目のあたりにして肝に銘じなければいけません。
本物の神話は、長い年月をして繰り返し淘汰されてきた民族の智慧の宝庫というだけでなく、人々の想像力を掻き立て飛翔させます。
神話を人々の手元に取り戻すことは、独占を試みた民族主義の為政者達の屍を踏み台として、近代システムの形式を超克する事になるのでしょうか?
あるべりっひさん、コメント有難うございます。劇場構造に付いてはそちらが詳しいので改めてコメントさせて頂きます。「演劇場」の視点から一言。
上でも示唆したように、劇場空間の現実化もしくは世界化が同劇場の基本コンセプトですね。そこでは、劇場外の現実と内部の仮想現実を反転させる効果が望まれています。
ですから本来は演劇然とした客観的な枠組みが無い方が良いのです。ご存知のように戦後は非ナチ化の「名目」も兼ねて贅肉を取った音楽に集中させるヴィーラントの演出が一世を風靡しました。それへの反動としてここ数十年は批判眼の利く演劇色を強くして来ました。監督の方針は、何とかヴァーグナー家の芸術を枯渇させないように、実験劇場化ですので今後はさらに映像化が進むと思われます。
ヴァーグナーの芸術そのものが、上の効果を狙った元来総合芸術でしかなかったことを考えると、継承のためにはありとあらゆる方策を講じていかなければ直ぐにでも朽ちてしまうのでしょう。