Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

よかった宿での食事

2018-10-06 | 料理
先日宿泊した宿はよかった。なによりもミュンヘンからの距離感も遠くは無かった。七月に「ジークフリート」上演後に宿泊したところよりも時間が掛かる筈なのだが、アウトバーンでなくて真っ直ぐに伸びる高速の国道を走り抜けれるのが素晴らしかった。我々が知っている高地バイエルンの農業地帯を真っ直ぐに走るだけだが、夕焼けにとても気持ち良かった。それでもまだまだ高地ではなくて、アルゴイなどの牧草地とはまた違うところが妙なのだ。夕方に拘わらず比較的問題なく宿に付いた。土曜日の夕暮れだ。両方向とも同じような交通量だった。

最新の地図も印字して持って行ったのだが、ナヴィのそれに従うと村に入るのに旧道を通った。これまたバイエルンらしい変に紆余曲折の道程だ。森を抜けたりして幾つかの村を通過する。その何とも道祖神のようなものにこの地方を趣を感じる。オーストリアとももちろんスイスとも違う。そのお陰で村に入ってからホテルを探したが、小さな村だ直に見つかった。

宿の前の駐車場も空いていて、きっちりと駐車してからレセプションに入る。親仁が名前を呼んで迎えてくれたが、なぜか英語を喋ったのでおかしいなと思うと、予約時に英語に印が入っていたというのだ。覚えが無いなとなった。偶々英語の画面で予約したのかもしれない。先ずはチェックアウトは10時だと断っておいた。ゆっくりしたいのだ。部屋を見せて貰って、もう車を動かすことは無いとなって、歩いていけるところに飲めるところも無く、ビールならここにあるよと教えて貰った。部屋には冷蔵庫があったので、ダルマイールで購入した特製エディションもののボックスボイテルのジルファーナーを先ず開けようと思った。

夕食は、前菜にコールラビのサラダ、そしてメインはいつものフィレウェリントン、食後はトルテである。宿の中で一番狭い部屋なので食卓は無かったが、事務机を使った。その辺りは味気なかったが、並びに流しがあって、皿も洗えるのが嬉しかった。とことん無精が出来る。

明くる日の朝食も買ってきたパンとハムを中心に、湯沸かし器で沸かしたお湯でティーバックの紅茶を煎れて、自宅から持って来ていたフランス産の野菜を添えた。ワインを冷やす為にマックスに冷やしたので凍り出していた。それが一寸残念だった。それでも朝食からもう一つのケシ入りヨーグルトトルテを平らげたので満足だった。

天気も良く、穏やかな日曜日の旅立ちだ。前夜のメールでのタイトルロールのキャンセルなど穏やかでもないことがあったが、気持ちが良い。宿の親仁と空港からのシャトルサーヴィスやその他の休暇宿の待遇との差などを話した。どうも営業努力でやっているらしく、皆の評価が高いのは分かった。シーズンを通して価格の差はあるものの中々よいオファーを出していて、連泊する時は価格は下げないでも広い部屋に入れて欲しいと言った。今後とも市内の安い部屋が見つからない時は是非使いたいと思った。




日曜日のフランクフルトに出かける。前回は「メリーウィドー」だったのでアルテオオパーへは久しぶりだ。夏に遠出してコンサートに行ったのは久しぶりだった。ミュンヘンにも一度出かけ、ルクセムブルクにも出かけた。嘗てはコンサートに遠出するとなると招待か、何か仕事絡みしかなく、精々ベルリンぐらいだった。その意味で遠出するのにも慣れると地元のフランクフルトに行くのは容易い。それでも続くと面倒になるのだが、今回は飛び込みで出かけるので気持ちが高まる。

プログラム後半のマーラーの交響曲一番だけは勉強しておきたい。前回聴いたのはバーンスタイン指揮ニューヨークフィルハーモニーだったと思う。これまた第九に続いてバーンスタインを超えて行く。奇しくも生誕百年に指揮者バーンスタインを乗り越えて行く。特に一番はこちらも十代の時の体験なのでとても強い印象を残している。それだけにこの年齢になって同じ曲がどのように響くのかと思う。五番ならば苦しいところが出て来るかも知れないが一番ならばゲヴァントハウス管弦楽団も可成りの線まで演奏するような指揮も期待される。細かな内声部の動機などもしっかり読み込んでおきたい。

昨今なにかと話題の人気ブログの言いぐさではないが、「実はもう、音楽評論も、やりたくないの」という気持ちになるのは、「マイスタージンガー」の楽匠の想いや仕事ぶりを考えてしまうからだ。マーラーの交響曲のユニークさやその才気とは別に、ああした高度な文化に根差した総合芸術がそこで展開されているのかどうかどうしても比較してしまうからだ。なるほどそこには独創的な意匠や芸術の綴り方があるのだが、匠の仕事としての円熟とかその表現方法を考えるとやはりどうしても青年音楽家の作品では到底至らないものばかりだ。奇しくも先月には第九交響曲の演奏を聴いて余計にそうした思いを強く抱く。昔日本の音楽評論家に大木正興という人がいて、いつも「深い」の表現で片づけていたのを思い出す。そこで氏のスメタナ四重奏団について綴る文章を引用すると「チェコスロヴァキアの伝統では(ウィーンあたり)…それは必ずしも後期ロマン派のドイツ音楽家たちのように、音を人間全体を支配する情緒のしたたりのように考えるのではなく、…それは人間の情緒の反映と考え…」とかあり、丁度話題の独墺音楽の核とそこから東欧文化圏への境界域について触れている。これも例えばドイツでは今でも違和感の強いグスタフ・マーラーの東欧的な性格とも言えるかもしれない。勿論その逆の西欧的な性格もそこに認識される。



参照:
杖の無い爺に導かれる 2018-09-18 | 文化一般
抑制の美の厳しい激しさ 2018-10-04 | 文学・思想
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