Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

音の摂理とその奔流

2023-09-22 | 
ボッフムに出かける前に触りを書いておこう。ベルリン・ミュンヘンにて音楽的に得たことの詳細については多岐に亘るので時間が必要である。だから詳細には至らないがイムプレッションとして書き留めておく。

先ずは、ベルリンで二回聴いて、三回目にミュンヘンで聴いたクセナキス作曲「ジョンシェ」1977年の演奏は、大管弦楽団の今後を左右する出来だった。ベルリンでの演奏もそれなりの成果を挙げていたのだが、初日は明らかに違った。二回目から多くに別けられた分奏の弦楽陣もそのイントネーションをしっかり合わせて来ていた。

一部には、その奏法から非西洋な音程関係が作られて、東洋的な音楽システムで奏されると考える向きもあり、実際には初日にはその様な演奏となっていた。ある意味偶然性の音響でもあったのだが、それを制御することで何が生じたか。それ以前にベルリンでの演奏会前レクチャーにおいて、特に二部の「スピーカーを通すよりも生の方が喧しい」と紹介されていた。まさしくクセナキスの音楽に付き纏う無機的であまりにもシャープな響きとして捉えられていた。多くの人がそうした物理的な響きとして捉えていた音楽である。

そして、場所をワインヤード型のベルリンのフィルハーモニーからシューボックス型のミュンヘンの会場に移して、全ては全く変わった。なによりも舞台一杯の管弦楽団 ― こうした大人数をツアーとして宿泊代だけで今までで最大規模の費用の演奏会と叫ばれているが、それがその会場ではとても重層的に響いた。当然のことながら低音が左右背後の壁から跳ね返ってくるので、そこに中高音が綺麗に乗ることになる。どのような音程関係でもそうした低音の倍音成分が全体の音に干渉するのはよく知られている事である。そこから何故作曲家がこうした不安定な音程の「クラウドの群」を発声させたかの答えがそこにある。要するにワインヤード型の壁の無い発散する音では実現しない音響であり、これが西洋音楽の長短調システム支配を越えた音の摂理とその伝統である。

それによって出来上がった音の壁は、まさしくベルリナーフィルハーモニカーの特徴であるその音の波であり、ペトレンコが指揮台で圧倒される奔流としたものだ。今まで誰もこの後期ロマン派時代に創設された楽団の個性がこのように圧倒的なクセナキスの音の津波の総譜を完全音化するとは想像だにしなかったに違いない。

その音響的なそして伝統的な音楽的な効果は、ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーが演奏した作品においての頂点であった。なるほど昨年のマーラーの交響曲七番においてはペトレンコ指揮によって博物館に追いやられたと評されるほど、最早今後何らかの可能性をそこに見出せなくなっていたのに対して、このクセナキスの演奏は今後大管弦楽団が存続するにおいてのメインプログラムはこうした音響であってこそと思わせる名演であった。

先にもシェーンベルク作曲「管弦楽の為の変奏曲」の演奏において、そうしたマーラ―の交響曲以降の作品がメインレパートリーになったと言及したのだが、そこからこうしてその次世代の響きが漸く創作から半世紀に近づくことで現実化してきた衝撃は大きい。聴衆も高揚したが、管弦楽団もそして指揮者もそれを皆感じ取ったに違いなかった。(続く



参照:
小夜曲と火祭りの喧噪 2022-11-24 | 文化一般
フィナーレの在り方について 2023-09-09 | 音

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